第333話 令和2年4月3日(金)「鎖」日野可恋

『最近、何もやる気が起きないの』


 電話越しにリサが思い詰めた声で語った。

 私の知り合いの中でもっとも精神的に参っているひとりだと言えるだろう。

 これまでも頻繁に連絡し合っていたが、このところ連日長時間のお悩み相談になっている。


 気持ちは分かる。

 来日して1年も経っていない。

 異国で、こんな状況に陥ってしまえば心配の種は尽きないだろう。

 しかも、彼女は日本の高校に入学した。

 日本の文化を学ぼうと積極的に日本語を覚え、親しい友人もできた。

 ただ、いまの追い詰められた心情を事細かに伝えるには言葉の壁や文化の壁がある。

 アメリカにいる友人たちとも連絡を取っているようだが、置かれた環境が違って分かり合えない。


『そうですね、いまはゆっくり休みましょう』と私はなるべく明るい声で答える。


『でもね、夜、眠れないの』


 彼女は私より3つ歳上の高校3年生だ。

 卒業後はアメリカの大学に進学予定の秀才で、常に威厳を漂わせていた。

 それがいまは子どものように不安を訴える。


『睡眠薬を処方してもらった方がいいですよ』と私は努めて現実的な対策を口にする。


 不安に共感することは大切だが、現実の問題に対しては理にかなった対応が必要だ。

 ひぃななら相手の気持ちに寄り添いながら問題を解決できるかもしれないが、私は気持ちと行動は分けて考えることにしている。


『そうね……』と言って口を閉ざしたリサに『やはり日本とアメリカではソーシャルディスタンスは違いますか?』と質問する。


『ええ……。全然違うわ。日本に来た当初は友だちとの距離が遠くてよそよそしいって感じていたもの』


 彼女は頭が良いので他人に教えることに慣れている。

 自分の感情を吐き出すことは難しくても、こういった質問に答えることは容易だろう。

 そこにはアメリカ時代を懐かしむ感情が込められていた。


『こうした日常生活の違いが合衆国と日本の差になっているのかしらね』とリサは息を吐いた。


 2月頃にはアメリカに家族で一時帰国する話も出ていたそうだ。

 それがいまは状況が逆転している。


『アメリカの若者たちの意識はどうなんですか?』と質問すると、『いろいろよ。もの凄く怖がっている子もいれば、まったく気にしていない子もいる。でも、それは日本も似たようなものかもしれないわ』とスラスラと答えてくれた。


『問題はキャシーよ』といきなりリサの怒りに火が点いた。


『あの子ったら毎日出歩いて……。絶対に感染するわ。パパとママに一緒に食事をしたくないって言っているのに聞いてもらえないの。どう思う?』


 家族が一緒に食事を摂ったり、一緒にお祈りをしたりすることは日本人が想像する以上に欧米の人々は大切に考えている。

 感染を恐れるリサの気持ちは当然だ。

 一方で家族の繋がりを大事にするご両親の想いも理解できる。


『自家用車で轢けば1ヶ月くらいは入院してくれるかもしれないわね』とジョークを言ってみたら、『良いアイディアね』と本気の声音で返ってきた。


 このまま追い詰められたやりかねないと危機感を抱いた私は『しばらくうちの道場にホームステイさせるのはどうかしら』と提案する。

 キャシーのことだ。

 たとえ東京がロックダウンしたとしてもフラフラと出歩きそうだ。

 無人島に連れて行って自力で暮らせと放置できれば最高だが、それ以外の監禁場所としては私が通う空手道場くらいしか思い浮かばない。


『それが実現できれば素晴らしいわ』と祈るように言ったリサの心の平安のために、私は『なんとかするわ』と請け負った。


 リサにはこれまで英語の勉強で大いに世話になった。

 キャシーの存在が心理的負担になっているのも間違いないだろう。


『……という訳なんですが』


 早速道場の師範代に電話をした。

 私はこのところ道場に顔を出すことができていないが、師範代はたまに顔を見に来てくれる。

 一通り説明をしたのに黙り込む師範代に『貸しということで構いませんから』と言葉を添える。

 高い借りになるかもしれないが、非常時だから仕方がない。


『分かったわ』と師範代は引き受けてくれた。


『キャシーのご両親の説得は私がするので、あなたはキャシーをお願い』と言われ、私は『はい。ありがとうございます』と電話ではあるが実際に深く頭を下げた。


 子ども向けなどの空手教室はこのご時世で休業やむなしとなっているが、平気な顔で稽古を続けている人がいるのも現実だ。

 どれだけ身体を鍛えていても感染症に罹らないという保証はない。

 それでも自分だけは大丈夫と思い込む人は少なくない。

 地元の少人数だけで行う分にはたとえ感染しても小規模で済むが、あちらこちらの道場をウロチョロするような馬鹿が現れると連鎖的に感染が拡大する可能性がある。


 そのもっとも心当たりがある馬鹿から連絡が来たのはもう夜と言っていい時間だった。


『カレン、戦ってくれるのか?』


 キャシーの声は弾んでいた。

 私からのメッセージを見て電話を掛けてきてくれたのはいいが、感染症のことなど頭の片隅にもないようだ。


『キャシー、明日泊まり込む準備をしてうちの道場に来なさい』


『分かった! 明日だな』とキャシーは明日にも私と戦う気になっている。


 1ヶ月道場に引き籠もっていたら戦ってあげると言うのは簡単だが、おそらく3日もすれば飽きてしまうだろう。

 短期的な目標を次々に与えて飽きさせない工夫が必要だ。

 面倒なことだ。

 師範代は協会の仕事や空手の普及活動など道場外の役割が多く、キャシーのことばかり構ってはいられない。


 とりあえず麓さんに『明日から道場にキャシーが来るから相手をしてあげて』とメッセージを送る。

 彼女ひとりでは心もとないが、何もしないよりはマシだろう。


 この感染症が収束するまでキャシーに鎖をつけておく方法。

 本当に足の一本でも折ってしまうのが手っ取り早いと思ってしまい、私は溜息をついた。




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・中学3年生。リサとは英語で会話している。ひぃなが隠れてゴソゴソとやっているようなので邪魔をしないように自室に籠もっている。


リサ・フランクリン・・・高校3年生。日本の私立高校に通っている。昨年の夏に来日した。インテリの家庭の中になぜかキャシーという筋肉オバケが誕生した。


キャシー・フランクリン・・・リサの妹。14歳。G8。180 cmを越える黒人女子。インターナショナルスクールはすでに春休みが終わりオンライン授業等が始まっている。それがストレスなのか放課後に身体を動かせる場所を求めて彷徨っている。


三谷早紀子・・・可恋が通う空手道場の師範代。アメリカでの指導歴があり英語を話せる。


麓たか良・・・中学3年生。校内でもっとも名の知れた不良。1年前に負けてからは可恋に逆らえなくなった。

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