第475話 令和2年8月23日(日)「練習の成果」神瀬結

 都内の大学の練武場。

 わたしの目の前で、キャシーさんが空手の形の演武を行っている。

 空手を始めて1年、本格的に形を学んで1ヶ月とは到底思えないほど、その動きは際立っている。

 身体能力の高さもさることながら、ひとつひとつの技が美しい。

 この1ヶ月間一緒に稽古をして、彼女が目に見えて成長していく様に驚かされた。


「さすが、舞さんの指導ですね」


「素材が良かったというのもあるけど、それまでの蓄積があったからでしょうね」


 私の横でキャシーさんの演武を見つめている日野さんとわたしの姉が言葉を交わす。

 彼女の次に演武を行うわたしは日野さんから同じように言ってもらえるのか少し心配だった。


 この夏休み、わたしとキャシーさんは東京オリンピック日本代表に内定しているわたしの姉、神瀬こうのせ舞の指導を受けている。

 オリンピックが1年延期され国際大会が次々と中止になる中で、姉に刺激を与えるための取り組みだった。

 だが、わたしにとっては貴重な体験となった。

 これまでも姉から指摘を受けたことはあったが、ここまで本格的に指導されたことはなかった。

 夏休みが終わり、今日はその集大成を見せる機会となった。


「舞さんさえ良ければ、もっと指導してもいいですよ」


「これ以上やると、ライバルを育ててしまいそうだからね。自分の選手寿命を縮めることはしないよ」と姉が笑顔で話す。


 その言葉がどこまで本心かは分からない。

 この短期間でのキャシーさんの成長を見ていると、ある程度の本音が混じっていそうだった。

 このままキャシーさんが形に取り組めば、1年を待たずしてわたしと遜色のないレベルに達しそうだった。

 わたしはこの夏に確かに成長したという思いがある。

 そんなわたしが危機感を抱くほどにキャシーさんの伸びは脅威だった。


「キャシーは組み手よりも形に適性がありますね。本人の希望や諸々の事情で今後も組み手中心になるでしょうが」


 日野さんは分かり切ったことのようにそう話す。

 わたしが驚いて「そうなんですか?」と尋ねると、「彼女は自分の身体をコントロールする能力には長けているけど、相手をコントロールするのは苦手だしね」と答えてくれた。

 キャシーさんは組み手でも強さに磨きがかかっている。

 大学生の練習に混ざっても見劣りしない。

 ただし、勝負となると大学生側に一日の長があるようだった。


「それを言うなら、日野先生こそ組み手向きじゃない」


「先生は止めてください」


 姉のからかうような言葉に日野さんが珍しく困った顔をした。

 憧れの存在から先生なんて呼ばれたら日野さんといえど困惑するよね。


「私は教わる身だから」と姉が澄ました顔で言うので、「先生を困らせないのが良い生徒なんじゃないの?」とわたしは口を挟んだ。


「ここでは姉妹ではなく先生と生徒の関係だから口の利き方には気をつけなさい」と自分を棚に上げた姉から注意された。


 唇を尖らせるわたしに、日野さんは「ありがとう」と微笑んでくれた。

 わたしはそれだけで大満足だ。


『どうだ、凄いだろう』と意気揚々と戻って来たキャシーさんと入れ替わって、わたしは浮き浮きとスタート地点に向かう。


 日野さんの前での演武は特別だ。

 全国大会並の緊張感をわたしに与えてくれる。

 それはとても心地よい感覚だった。

 1年前のわたしは神瀬舞の妹であることが重荷だった。

 そういう目で見られることが嫌だった。

 いまは違う。

 姉は姉、わたしはわたしだ。

 自分がこれまでにやってきたことをやり切るだけだ。


「昨年全中で優勝した選手が今年高校1年生で、リモート大会で演武を披露していたんですよ。成長はしていましたが、いまの結さんなら負けることはないでしょうね」


 演武を終えたわたしの前で日野さんがそう評してくれた。

 昨年の全中でわたしは決勝戦で敗北した。

 当時わたしは中1で相手は中3だった。


「いまの結なら中学時代の私と良い勝負ができるでしょうね」と姉も高く評価してくれた。


「全中で優勝したくらい嬉しい!」とわたしは喜んだ。


 春も夏も全国大会が中止となってしまい目標を失っていたが、それでも下を向かずに努力してきた成果が出たのだろう。

 わたしは有頂天になった。

 そして、喜びのあまり、どさくさに紛れて日野さんに抱きつこうとした。


 だが、日野さんは絶妙の体裁きでわたしの突進をサラリと躱す。

 仕方がないので姉に抱きつこうとしたら、「暑苦しいから寄って来ないで」と言われてしまった。

 わたしは「ひどい!」と叫びながら、日本語の会話について来れていないキャシーさんに抱きついた。

 彼女はオープンなのでわたしのスキンシップにも笑顔で応じてくれた。


 続いて、大学の女子空手部員とキャシーさんとの組み手の試合が行われる。

 最初に登場した選手はわたしよりも小柄で、小山のようなキャシーさんと比べると頼りなく見える。

 それなのに試合が始まると、キャシーさんの圧力をうまく受け流し、形勢を優位にした。

 一方、キャシーさんも相手の鋭い攻撃を持ち前の身体能力で防いでいる。


『ハッ!』


 一瞬の隙を突いて、キャシーさんが相手を押し込んだ。

 大学生にとってみれば空手の組み手には体重別の階級があるので、ここまで大柄な相手と戦うことはないだろう。

 バランスを崩した相手にキャシーさんは猛攻を仕掛ける。

 技が決まるかと思った瞬間、相手の逆襲にあった。


「狙われてましたね」と日野さんが呟く。


 決めに行く動きを読まれてのカウンターで勝敗が決した。

 組み手の駆け引きについてはわたしは素人だけど、空手の奥深さを感じる試合だった。


『勝つまでやるぞ!』と息巻くキャシーさんは相手を変えながら試合を続けていく。


 最初の一巡はキャシーさんが苦戦していたが、二巡目に入ると相手の息が上がるようになってきた。

 これがキャシーさんの恐ろしいところだ。

 スタミナが半端ないのだ。


 三巡目になるとさすがにキャシーさんも息が上がってきたが、相手の動きはそれ以上に低下した。

 連戦のキャシーさんが勝利を重ね始めた。

 キャシーさんは言葉通り全員に勝つまで試合を続け、道場内には座り込む女子選手の姿が目立つようになった。


『カレン、どうだ、強くなっただろう』


 誇らしげなキャシーさんに、『成長したわね。でも、世界最強を目指すんでしょ。その程度で満足してどうするの』と日野さんが煽る。

 キャシーさんはムッとした顔で『もちろん世界最強になるぞ! よし、カレン、勝負だ!』といつものセリフを吐いた。


 今日の日野さんは道着を着ていない。

 スポーティなトレーニングウェア姿でとてもとても格好良かった。

 その日野さんがキャシーさんを手招きした。

 キャシーさんは喜んで近づいてくる。


『ここを持って』と日野さんは自分の手首をキャシーさんにつかませる。


 素直に従ったキャシーさんの巨体が消えたかと思うほどのスピードで床に沈んだ。

 日野さんが力を入れた様子はない。

 おそらく何らかの関節技を使ったのだろう。

 そして、完全に決まるのを阻止するためにキャシーさんは床に身体を投げ出したのだ。


『痛いじゃないか!』と座ったまま日野さんから距離を取ったキャシーさんが大声を上げる。


『綺麗に決まったわね』と日野さんは悪びれた様子もなく感心している。


 古式の空手の関節技を使ったと説明した日野さんは『キャシーは何になりたいの?』と質問した。

 空手家なのか。

 総合格闘技を目指すのか。

 プロレスラーになりたいのか。

 選択肢を指折り数えながら日野さんは問い掛ける。


 キャシーさんは立ち上がる。

 迷うことなく胸を張って答えた。


『決まっているじゃないか。ニンジャよ』




††††† 登場人物紹介 †††††


神瀬こうのせ結・・・中学2年生。空手・形の選手。昨年の全中で準優勝を果たした。可恋に憧れている。


キャシー・フランクリン・・・G8。15歳。空手・組み手の選手。昨夏来日して空手を学ぶ黒人少女。アメリカ時代はレスリングの選手だった。


日野可恋・・・中学3年生。空手・形の選手。中学生ながらトレーニング理論に精通している。


神瀬こうのせ舞・・・空手・形の選手。東京オリンピック日本代表内定。この春大学を卒業し、大学職員として在籍しながら練習を続けている。結の実姉。


 * * *


「忍者。私も興味があるわ」


 東京オリンピックを目標にするようになってからストイックな印象が強くなっていた姉が、ここ最近は吹っ切れたように笑顔が多い。

 張り詰めたままあと1年過ごすのだろうと思っていたが、肩の力が適度に抜けたいまの姉の方が頼もしく感じられる。

 いまも楽しそうに日野さんに声を掛けていた。


「プロを目指すならエンターテイメント性は必要ですから悪くはないと思います」


 意外なことに日野さんは真面目に考えているようだった。

 しかし、わたしには存在感抜群のキャシーさんと忍者のイメージがうまく結び付けられない。


「忍者って強いの?」という姉の素朴な質問に、日野さんは「現実と切り離して、世界で広まっているニンジャのイメージを元にしないといけませんね」と答えた。


「じゃあ、どんな武道を?」とわたしが尋ねると、「空手にこだわらず、彼女に合ったものをどんどん採り入れた方が良いんでしょうけど……」と日野さんは思い悩んでいるようだった。


「キャシーの力の源は底抜けに明るく何ごとも楽しむことなのだから、あなたも楽しまなきゃ損じゃない?」


 姉の言葉に日野さんはニコリと微笑む。

 その瞳には何かを決断した強い意志のようなものがうかがえた。

 ああ……。

 わたしも日野さんにプロデュースされてみたい……。

 それは叶わぬ夢だけど、夢見るだけなら自由だよね……。

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