第476話 令和2年8月24日(月)「距離」川端さくら
「私、さっちゃんのこと、好きよ」
ふたりっきりの更衣室で、突然怜南がわたしの顔面すれすれまで顔を近づけてきた。
艶のある長い睫毛、形良く整った眉、宝石のように輝く瞳がわたしの目の前に迫ってきた。
予想外の出来事に後ろに下がることもできず、背中を反らせて距離を取るのが精一杯だった。
わたしはどんな顔をしていただろう。
強張ったまま言葉も出ないわたしを見て、怜南は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「冗談よ」
そう言った怜南はすでに着替えが終わっていた。
ブラシを取り出して鏡に向き合っている。
体育の授業が終わったばかりなのに彼女からは汗の匂いが感じられない。
ボーッと彼女を見つめていると、「早くしないと置いていくわよ」と急かされた。
その言葉にハッとして、わたしは着替えを再開した。
怜南は今日日直で後片付けを命じられ、わたしは無理やりそれを手伝わされたのだ。
その感謝の証が着替え終わるのを待つことなのだろう。
わたしも髪を整えたかったが、「ほら、行こう」と怜南は待ってくれない。
鏡を確認し溜息をひとつ吐いてから、わたしは彼女のあとを追って更衣室を出た。
「誰にでもあんなこと、するの?」と尋ねると、「まさか、さっちゃんだけだよ」とまた顔を寄せようとしてくる。
さすがにその行動は予測済みだったので、わたしは一歩下がって「はいはい」と受け流す。
怜南は不満そうに眉間に皺を寄せ、「冷たいなあ」と非難した。
1学期のわたしは怜南に振り回され、余裕がまったくなかった。
自分がこんなに簡単に追い詰められるとは思っていなかった。
1日誰とも会話しない悪夢のような学校生活がこれからも続いていくと信じていた。
それが変わったのはハイキングに行った時からだ。
日野さんから気づきを与えてもらい、わたしは余裕を取り戻すことができた。
こちらから心花に積極的に話し掛けると、彼女は以前とまったく変わらない態度で応えてくれた。
思い返せばそれが普通だった。
心花は周りに気を使わない。
話したい時に話したい相手に話すだけだ。
休校中はその相手がわたししかいなかったから、毎日のように向こうから連絡が来た。
いつの間にかそれを当然だと思ってしまい、元に戻っただけなのに心花が変わったように感じていた。
心花のことをいちばん分かっているはずなのに、わたしは目が曇って見えなくなっていた。
わたしの目を曇らせた張本人である怜南は、2学期が始まってわたしと心花の関係が復活したことに気づいたようだった。
先程の行動は余裕を取り戻したわたしに新たな動揺を与えるためだったのかもしれない。
奇襲には驚いたが、同じ手を食わなければ問題ない。
「そんなことをしていたら友だち無くすよ」
わたしの忠告に怜南は睨むようにこちらを見た。
不用意な発言だった。
小学生時代からの顔なじみという気安さと、同じクラスになってからやられっぱなしだった劣等感がこんな言葉を吐かせたのだろう。
「なくすような友だちなんていないもの」と怜南は寂しそうに呟いた。
罪悪感が湧いて謝ろうとしたわたしが口を開くより先に、彼女は「さくらと同じで、私も友だちなんて必要ないもの」と冷たく言い放った。
そこに悪意や敵意のようなものを感じて、顔を近づけられた時以上に心臓がドクンと高鳴った。
息苦しさにマスクをむしり取りたくなったほどだ。
それを堪えて、わたしは「同じってどういう意味よ」と言葉を絞り出す。
「さくらにも友だちなんていないじゃない」
「……心花がいる」
「本当に友だち?」
わたしは大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。
怜南は他人の感情を揺さぶって楽しんでいるだけだ。
まともに相手にする必要はない。
「友だちだよ」とキッパリ言い切る。
「心花がどう思っていようと、わたしは友だちだと思っている。だから、いいの」とわたしは早口でまくし立てた。
怜南は目を逸らせて前を向いた。
興味を失ったのか、自分のペースで歩いて行く。
わたしは小走りで追いつくと、肩を並べて歩く。
教室に入る直前で怜南が足を止めた。
迷ったが、わたしもつき合うことにした。
「さっちゃんにお願いがあるの」
少ししおらしくなったと思ったら、もういつもの怜南に戻っている。
その瞳には小悪魔っぽい雰囲気が漂っていた。
さっさと教室に入ればよかったと後悔したが、「さっちゃんという呼び方を止めてくれたら考える」とわたしは条件を出して話を聞くことにした。
「文化祭で今年もファッションショーをするみたいなの。日々木さんが関わっているそうだけど、そこに澤田さんが参加できるように頼んでみて欲しいのよ」
澤田さんが日々木さんに言い寄っている――という言い方は正しくないかもしれないが、友だちになろうとしていることはクラスの女子全員が気づいていることだ。
その後押しを怜南がしていることも多くが知っているだろう。
「どうしてそんなに澤田さんに協力するの?」
答えは分かり切っている。
怜南はわたしの予想通り、「面白いからに決まっているじゃない」と答えた。
「それって酷くない?」と聞くと、「澤田さんにもちゃんと伝えているのよ。それでも手助けして欲しいんだって」と楽しそうに怜南は言った。
その回答に毒気を抜かれた。
怜南も澤田さんも勝手にすればいい。
関わって巻き添えにはなりたくない。
断ろうとしたわたしの機先を制して、「実行委員の仕事は大変よね」と怜南が言った。
わたしは表情を曇らせる。
先日、わたしは文化祭の実行委員を引き受けた。
「手伝ってくれるの?」とわたしが聞くと、「そうね……、少なくとも足を引っ張る人が現れないように気を配るくらいはするわよ」と怜南は微笑む。
足を引っ張りそうなのは目の前の人物以外にいないと思いながら、「そんなことをしたら日野さんが黙っていないよ」とわたしは日野さんの威を借りた。
しかし、怜南は「登校しない人がどこまでできるのか興味あるわね」と口にする。
「分かった。でも、怜南に頼まれたことは日野さんに伝えるからね。……あと、さっちゃんはなしで」とわたしは面倒事を避けたい気持ちから怜南に逆らわないことにした。
わたしの言葉を聞いた怜南はまたも顔を近づけてくる。
対処するのがわずかに遅れた。
どうせまた悪戯だと思っていたからだ。
だが、わたしの唇に何かが触れる感触があった。
「マスク越しだからノーカンだね」
そう言った怜南は呆然と立ち尽くすわたしを廊下に残して教室に入って行った。
††††† 登場人物紹介 †††††
川端さくら・・・3年1組。心花グループの中心メンバー。心花とは中1から3年間同じクラスになった。陽稲に頼まれ文化祭実行委員を引き受けた。
高月怜南・・・3年1組。心花グループの中心メンバー。さくらとは小学生時代からの知り合い。高1の彼氏がいる。
津野
日々木陽稲・・・3年1組。学級委員。日本人離れした美少女。親しみやすい性格をしているが、それでも近づきがたい思いをする生徒が多い。
日野可恋・・・3年1組。体質の問題でほとんど登校していないにもかかわらず、学年トップの学力や多方面にわたる影響力によって存在感を発揮している。
澤田愛梨・・・3年1組。陸上部。自称天才に恥じないだけの学力や運動能力を持っている。陽稲に執着している。
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