第257話 令和2年1月18日(土)「人形」久藤亜砂美

「母親のように女を武器にしたくないんでしょ?」


 近藤さんが蔑みを含んだ視線で私を見た。

 母の場合、それしか取り柄がないだけで、武器とも思っていないだろう。

 しかし、そんなどうでもいい反論は口にせず、私は淀みなく動く近藤さんの口元を見つめていた。


「貴女は綺麗だから女を売り物にできるわ」


 私の身体の隅々まで知る近藤さんの瞳が淫靡な煌めきを放つ。


「それでも武器はいくら持っていても困らない。他にやることがないのだから、四の五の言わずに勉強していればいいのよ」


 高校受験が迫っているのに、近藤さんが何もないボロアパートまで来てくれた。

 息抜きと称して、私に勉強を教えてくれる。

 学年で1、2を争う近藤さんほどではないが、私も成績は良い。

 小学生時代に熱心な先生に出会えたことや、両親の離婚で荒れた時期に近藤さんに知り合えたことが成績を維持できた要因だ。


「親に捨てられた子どもは武器を持たなきゃいけないの」と近藤さんはよく私に啓蒙する。


 それは私を導く言葉だというだけでなく、近藤さん自身がそう信じ込もうとしている言葉だろう。

 近藤さんは両親の離婚後に母方の祖父母に預けられて暮らしている。

 二言目には家を出たいと漏らす近藤さんは、それでも将来のことを考え高校までは我慢すると語った。


「奨学金をもらって大学では独り暮らしをする。それが死ぬ気で勉強する原動力になっているのよ」


 親友のハルカなら、そんな面倒なことをせず男に頼れば良いじゃんと言いそうだ。

 だが、母が男に頼った末路を見てきた私としては同じ轍を踏みたくなかった。

 それでも勉強が虚しく感じることはよくあった。

 時代遅れの厳しい躾の下で暮らす近藤さんよりも私の環境は劣悪だ。

 私は近藤さんの些細な援助があって、辛うじて生きていけた。


 本当にヤバくなったら施設に行けと近藤さんに言われているが、それは避けたかった。

 中学校では近藤さんに教えてもらった手練手管で教室では女王のように振る舞っている。

 だが、これが通用するのは中学校だけだ。

 それだって2年生になっても続けられるかは分からない。

 近藤さんは卒業するし、ハルカとクラスが別れたらまた一から作り直しとなる。


 そんな思いから、久しぶりに来てくれた近藤さんに「勉強なんかして意味があるんですか」と愚痴を言ってしまった。

 それに対していつものように”武器”について熱弁を振るった近藤さんは少し考え込んでから言葉を続けた。


「そうね。私が卒業したあとは日野に取り入るのがいいかもしれないわね」


「私を見捨てるんですか!」


 私は反射的にそう声に出してしまった。


「バカね。貴女は私のものよ。それは変わらないわ」


 口角を上げ、愉しそうに口を歪ませて近藤さんは嗤う。

 その表情に憎しみが渦巻くが、口から出たのは「ありがとうございます。お姉様」という言葉だった。


「あれは敵に回さない方が良い。庇護されれば1年間は安泰よ。それに、あれについてもっと詳しく知りたいのよ」


 近藤さんは以前からその2年生について興味を抱いていた。

 生徒会長を通して知った、一般生徒には知られていない活躍振りを私にも話してくれた。

 私は一度だけ彼女と話したことがある。

 頭は切れるが高圧的な印象だった。

 その後、1年生の間で”怖い先輩”と呼ばれ出したが、私も同感だった。

 あまり関わり合いたくない人というのが正直な感想だ。


「命令……ですか?」と尋ねると、私が嫌がる顔を見てニヤリと笑い、「そうね」と答えた。


「高校の入試が2月14日だから、それが終わったら接触方法を考えましょう。試験後の楽しみができて良かったわ」


 私は近藤さんの操り人形。

 だから、どんなに嫌でも「分かりました」と頷く。

 それに、このくだらない世界では操り人形でいる時の方が生きている心地がする。

 糸が切れてしまえば、私はもう生きていけないのではないか。


 勉強が一段落したあと、近藤さんが私の前髪を揃えてくれる。

 美容院に行くお金がない。

 シャンプー代もバカにならないので髪を短く切りたかったが、近藤さんの命令で伸ばしている。

 その代わり、よくシャンプーなどを持って来てくれた。

 大半は母が使ってしまうのだけど。


 私はお人形のように近藤さんにされるがままになる。


「貴女が高校生になったら、私の祖父母に引き取ってもらえないかと思っているの」


 近藤さんは私の前髪をいじりながら、何気ない感じで口にする。

 私は心臓がドクンと激しく脈打つのを感じた。


「私が上手くあの家を脱出できそうなら……。あの人たちも歳だし、介護の手が必要になりそうだしね……」


 近藤さんは呟くようにポツリポツリと話す。


「あの人たちと暮らすのは大変よ。それでも……、それでも良ければ考えておいて」


 近藤さんは厳しい祖父母を蛇蝎のように嫌っているが、赤の他人の母や私に手を差し伸べてくれた人たちだ。

 一緒に暮らすことがあれば想像していないような大変さがあるのかもしれない。

 でも、いまの暮らしに比べたら……と思わずにいられなかった。


 散らかるようなものさえ、ほとんどない小部屋。

 私のものを平気で使う母。

 お金にも時間にもルーズな母は、男にもルーズで……。

 唯一、男をこのボロアパートに連れ込まないことだけが母が守っている約束だけど、それは私のことを考えてではなく、それをするとここを追い出されるからだ。


 近藤さんの計画が実現するかどうかは分からない。

 そんなに成功率が高いとは思えない。

 それでも、そんな希望にすがりつきたくなってしまう。


 私は近藤さんのように武器を持って戦うことなんてできない気がする。

 教室で女王のように振る舞っていても、それは人形の私がやっていることだ。

 私は人形だから……。


 近藤さんの祖父母に気に入られる人形にならなければいけない。

 礼儀正しく、頭が良く、素直で従順。

 他にも何か必要だろうか。




††††† 登場人物紹介 †††††


久藤亜砂美・・・中学1年生。両親が離婚後に母に引き取られる。塞ぎ込んでいた時期に、母の知り合いだった未来の祖父母に心配され未来が勉強を見ることになった。


近藤未来・・・中学3年生。厳しい両親に育てられた母は家を出たあと自由奔放に暮らし、離婚後はひとり娘を親に押しつけた。未来はスマホを買ってもらったことだけを母に感謝している。


小西遥・・・中学1年生。亜砂美の親友で不良。男と混じっても負けない腕っぷしと容赦のない性格の持ち主。それでも無駄な暴力は振るわない主義。


日野可恋・・・中学2年生。生まれた直後に両親が離婚し、一緒に暮らす母は仕事が忙しくて顔を合わせるのは週に数時間という環境で暮らす。父からの養育費は資産運用に充てている。

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