第258話 令和2年1月19日(日)「可恋のために」日々木陽稲

 最近、自分がイライラしていることに気付くことが多い。

 今朝もジョギングの時に純ちゃんから元気がないと言われたし、朝食の時にお姉ちゃんからも笑顔が減っていると指摘された。

 イライラを外にぶつけることは踏みとどまっているものの、普段のように明るく振る舞うことができていない。

 いちばん楽しい作業であるはずの、今日着ていく服を選ぶ時だって溜息をついてしまった。


 原因ははっきりしている。

 可恋の体調不良が長引いているからだ。


 年末年始は元気だったのに、お正月に大活躍したあとからずっと微熱が続いている。

 本人はこれ以上悪化しなければ問題ないと話しているが、もう1月も半ばを過ぎた。

 わたしは昨年4月におたふく風邪に罹って、体調がある程度回復しても感染の恐れがあるからと部屋から出られなかったことがある。

 数日のことだったのに、ひとりでいる寂しさや退屈する気持ち、何より友だちと会えない辛さがあった。


 わたしは毎日お見舞いに通っている。

 それでも学校があるし、可恋の負担を考えると長居はできない。

 可恋のお母さんの陽子先生はこの時期は忙しいそうで――年中忙しい人だけど――顔を合わせるのは朝食の時だけだそうだ。

 スマホで人との繋がりはあるとはいえ、可恋は一日の大半をひとりで過ごしている。


 冬場には半分以上学校に行けないとは聞いていた。

 でも、実際にその様子を間近で見ると、なんで可恋ばかりこんな大変な目に遭うのかと思ってしまう。

 人一倍健康に気を使い、節制している。

 可恋より健康管理を徹底している中学生なんて日本中探したっていないんじゃないか。

 それほどのことをしても体調の維持が難しい体質で、それが生まれつきだなんて……、神様はどうして可恋にこれほどの仕打ちを与えるのかと恨めしい気持ちが募った。


 しかし、可恋は自分の体質を受け入れている。

 嘆いたり、怒ったり、苛立ったりする可恋の姿を見たことがない。

 もちろん、そんな感情がまったくないとは思わない。

 時折、本当に時折、自分の体質について沈んだ雰囲気を漂わせることはある。

 おそらく、これまでの14年に及ぶ人生の中で折り合いをつけてきたのだろう。

 その大変さを思うと、何にもしてあげられないことにわたしは……。


「元気ないね」と可恋が心配そうにわたしの顔をのぞき込む。


 可恋に心配させたくない気持ちと、この想いを伝えたい気持ちがわたしの中でせめぎ合っていた。

 心配を掛けまいという気持ちが強まるあまり、わたしが体調を崩してしまっては逆効果だろう。

 可恋に負担を掛けない程度に自分の心情を吐露するのがベターだと思って、わたしは口を開く。


「神様に文句を言っていたの。可恋ばかり大変な目に遭わせないでって」


 わたしが微笑みながらそう言うと、可恋はニッコリと笑って、「神様には感謝することばかりだよ」と答えた。

 わたしは「そうなの?」と問い返すが、可恋が返事をする前に「あ、わたしに会えたからとかそんなセリフは禁止よ!」と先回りする。

 可恋は甘いセリフを口にしてうやむやに丸め込もうとすることがある。

 その手には乗らないと、わたしはビシッと指摘した。


 可恋は苦笑を浮かべながら、「ひぃなと出会えたこと以外でも、私は自分が恵まれていると思ってるよ」と答えた。

 その言葉は本心からのように感じられた。


「でも、健康じゃなかったら、いろいろなものを持っていてもダメなんじゃない?」とわたしは尋ねる。


 可恋は様々な才能を持っているし、家は裕福だ。

 不自由なく暮らすことはできているが、健康でなければそれらを十分に生かすことができないのではないかと思った。


「命。それだけでも神様に感謝しなきゃね」とドキッとすることを言ったあとで、「何を幸せと思うかは人それぞれだしね。お金に恵まれているからこの程度の体調不良で済んでいるのも事実。誰もが何らかの制約を抱えて生きているんだから、高望みをしても仕方がないよ」と悟り切ったような言葉を続けた。


「それでも、やっぱり、わたしは神様に感謝することはできないかも……。可恋と巡り会えたことはどれほど感謝しても足りないくらいだけど、可恋の健康は……高望みだと思わない」


 いつかわたしも受け入れる日が来るのだろうか。

 いまのわたしは、どうしても納得できない感情が心に渦巻いていた。


「そうだね」と可恋は静かに言った。


「私がひぃなの立場だったら、きっとそう思うはずよ」


 可恋の声に深刻さはなく、いつも通りに淡々としている。


「でもね」


 可恋の整った顔立ちの中で、口元だけが軽やかに動く。


「いまの私は充実しているわ」


 目元がキラリと光る。

 微笑みというより、不敵な笑みと呼んだ方が相応しい表情だった。


「制約は誰にだってあるのよ。私はその中でやりたいことをやり遂げてみせるわ」


 先程の悟り切った言葉よりも遥かに可恋らしい言葉だった。


「私はひぃなには強がったりしないから安心して」と表情を和らげてわたしに微笑みかけた。


「寂しくないの?」と問い掛けると、「ひぃなが毎日来てくれているじゃない」と寂しさを感じさせる素振りを見せずに可恋が返答する。


「でも、一日中ひとりだし……」


「朝と夜にひとりで食事をしないで済むだけで十分よ。昨年なんて朝もひとりの時が多かったくらいだし」


 陽子先生はいまの大学に赴任する準備に追われて、今年よりも忙しかったらしい。

 知り合いがほとんどいなかった可恋は、昨年のこの時期は本当にずっとひとりだったと述懐した。


「本を読んでいる間はひとりでいることを忘れるからね」


 そんな可恋の言葉に彼女の半端じゃない読書量の理由がうかがえた。

 可恋は自分を天才なんかじゃないと言うが、これまでに積み上げてきたものがあって発揮している才能という自負があるのだろう。


「あと、言うかどうか迷ってたんだけど、明日は学校に行けそうかな」


 待ち望んだ言葉なのに、わたしは声が出なかった。


「もちろん、明日の朝の体調次第だけど、ほぼ平熱まで下がったし、明日は暖かそうだしね」


 わたしは目元を潤ませながら、何度も頷いた。

 可恋はそんなわたしを優しく見守っている。


「とってもとっても嬉しいけど……、また体調を崩さないか心配」とわたしは正直な気持ちを吐き出した。


「そうだね。体調には気を付けるよ」


 そう苦笑気味に話す可恋だけど、どれだけ気を付けてもまた体調を崩すことはあるだろう。

 わたしは可恋の側にいてあげることしかできない。

 ただ……。

 わたしの役目は可恋の代わりに神様に文句を言うことではなく、可恋の力になることだ。

 可恋がわたしの夢を後押ししてくれるように、わたしは可恋が望む時に可恋の期待に応えられるような存在でありたい。

 いまは側にいることだけだとしても、いつか……。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・中学2年生。三度の飯よりファッションのことが好きで、将来の夢はファッションデザイナー。


日野可恋・・・中学2年生。生まれつき免疫力が極度に低い。徐々に体力がついて病状が深刻化することは稀になったが、どんな病気でも深刻化したら生死の問題になる。


日野陽子・・・可恋の母。昨年4月から某超有名私大教授。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る