第419話 令和2年6月28日(日)「今度こそ初めての朝稽古」保科美空

 早起きは苦手だ。

 そう簡単に慣れるもんじゃない。


 今朝は目覚めると激しい雨音が聞こえた。

 折角の日曜日なのだから、このまま眠っていたい。


 それでもごそごそと起き出す。

 冷水で顔を洗って眠気を吹き飛ばし、大急ぎで支度を調える。

 この雨だ。

 暑くて嫌だけど黄色いレインコートを着込み、あたしは自転車に飛び乗った。


 道場の朝稽古に参加が許されたのは半月ほど前のことだ。

 ここの朝稽古はかなり特殊なので最初は誰でも見学になるらしい。

 通常なら見学だけで終わりとなるが、あたしはその後に行われるキャシーさんの朝練につき合うことになった。

 その際、日野さんというあたしより歳上の女の人にキャシーさんと一緒に指導してもらうように師範代から言われた。


 当時は分散登校中だったので朝は時間に余裕があった。

 あたし以外にも何人かの中高生が朝練に参加し、日野さんの指導を受けることになった。

 日野さんは中学3年生だが、参加した高校生相手にも動じることなく堂々と指示を出していた。。


 日野さんは朝稽古以外ほとんど道場に顔を出さないので、朝稽古に参加を許されていないあたしたち中高生やその下の子どもたちとは交流がなかった。

 噂には聞いていたし、実際にその動きを見れば空手の技能が優れていることはすぐに分かった。

 だから高校生の人たちも不満な顔を見せずに黙々と練習に励んでいた。

 あたしだったら歳下から厳しく指導されるのは嫌だなと思ってしまうが、高校生ともなるとその辺りは大人の対応ができるのだろう。


 日野さんの指導は厳しいが、朝稽古はもっとキツいと言われればその通りだ。

 あたしは他の子よりも早く道場に来て朝稽古を見学してから練習に参加していた。


 ペダルを漕いで熱くなった身体を冷ますように雨が打ちつける。

 時々激しくなって視界すら遮ってしまう。

 レインコートを着ていても下着までずぶ濡れだ。

 リュックの中の着替えやタオルはレジ袋に入れてあるので大丈夫だとは思うけど……。


 あたしの努力が認められ、今日は見学ではなく朝稽古に参加しても良いと言われた。

 キャシーさんが自宅に帰ったことで朝練がなくなった影響もあるのだろう。


 朝練には意外なゲストが訪れた。

 1週間前は突然ふたりの女性がやって来た。

 あとで詳しく教えてもらったが、神瀬こうのせ姉妹といって空手界ではとても有名な姉妹なのだそうだ。

 その時にお姉さんの方が東京オリンピック日本代表に内定していると聞いて、へぇーと目を丸くした。


 あたしは形が苦手で、形の試合を見ることは滅多にない。

 神瀬姉妹や日野さんは形の選手であり、朝練で3人の演武を見せてくれることになった。

 その日は朝稽古に参加していた大学生のお姉さんたちも朝練に残っていたので、おそらくこれが目的だったのだろう。


 正直、あたしでは形の良し悪しは分からない。

 3人とも凄いなとは思ったけど、どれほど凄いのかは解説が必要だった。

 ほかの中高生が「舞さん流石だね」だとか「生で見られて幸せ」とか感動に打ち震えていたので、やはり世界一の演武は特別なものだったのだろう。


「3人はどれくらい凄いんですか?」と練習後に大学生に質問すると、「神瀬姉はあの演武で金メダルを獲れるんじゃないかってレベル。妹の方は全中を余裕で制覇できるでしょうね」と答えてくれた。


「日野さんは?」と尋ねると、彼女は困った顔を見せた。


「実力があるのは確かなのよ。ただ評価としてはどうかなって思う」


 あたしはその言葉の意味がよく分からず、小首を傾げてしまう。

 それを見た大学生は、「形って審判が見て評価・採点して勝敗を決めていくのよ。だから、審判へのアピールという部分は欠かせないのよ」と教えてくれた。

 その日見学に来ていた大学生は形の選手で、師範代からもそうしたアピールの大切さは強く言われているらしい。


「あの姉妹から一目置かれているくらいなんだから、そういった技術的なところを修正したら世界を目指せるんじゃないかな」


 世界と言われてもピンと来ないが、朝稽古に参加している人の中にはそのレベルに近い人が少なくない。

 目の前の大学生も神瀬さんが卒業したあとのインカレで優勝を目指すと気合を入れていた。

 残念ながらその後インカレの中止が正式に発表されてしまったが……。


 母屋に割り当てられた部屋で着替えを済ませ、あたしは道場に向かう。

 一番乗りは逃したが、まだ人数は少ない。

 身体を動かしながら、集中を高めていく。


 分散登校が終わり、平日は朝練に行けなくなくなった。

 しかし、昨日の土曜日は久しぶりに朝練に参加した。

 金曜の午後にキャシーさんの送別会があり、土曜の朝練が最後の機会となるので来ないという選択肢はなかった。

 師範代は「夏休みになったら戻って来ると言っているわ。例年通りの長期休暇になると思っているのでしょうね……」と話していたので、そう遠くないうちに戻って来るのかもしれない。


 キャシーさんは日本語が話せないので、夕方の稽古に参加する小中高校生との意思疎通はうまくできないが、大げさなジェスチャーや喜怒哀楽が分かりやすい表情のお蔭であまり不便を感じない。

 いつも元気で騒がしく、特に小学生の男の子たちに絶大な人気がある。

 大きな子でも軽々と持ち上げ、手加減なしに振り回す。

 見ているとハラハラするが、やってもらうととても楽しい。

 あたしは中学生になったので自重しているが、物欲しそうに見ていると「ミク、Come on!」とキャシーさんに呼ばれて輪に入れてもらう。


 そのキャシーさん最後の朝練には長身の彼女より大きな人が現れ、本当にびっくりした。

 日野さんや見学に来ていたそのお友だち、巨人さんとその人を連れて来た黒人の女の子、そしてキャシーさんと師範代、みんな英語で話していたので他の朝練参加者は置いてけぼりになった。

 キャシーさんと巨人さんがフルコンタクトルールで対戦することになり、心配しつつもあたしたちはキャシーさんを応援した。

 最初は劣勢な場面があったものの、見事にキャシーさんが勝利し、あたしは歓声を上げけ喜んだ。


 キャシーさんはいつも通り子どもっぽい振る舞いだったが、それよりも印象に残ったのは日野さんがとても楽しそうだったことだ。

 道場では笑顔を見せることは稀で、険しい表情で指示を飛ばすことが多い。

 ストイックで非常に怖い人というイメージが定着していただけに、ゲストの巨人さんと笑顔で熱を入れて話す様子は驚きだったのだ。


「頑張っていたね。良い稽古ができていたじゃない」


「ありがとうございます!」


 今日の朝稽古が終わってすぐ、あたしをサポートしてくれた大学生のお姉さんが笑顔で声を掛けてくれた。

 あたしもやり遂げた満足感を顔に浮かべながら一礼する。


「どうだった?」と今度は師範代から尋ねられた。


「朝練のお蔭で稽古のテンポについて行けたと思います」


 夕方の稽古は子どもが多いこともあってテンポは緩やかだ。

 それに比べて朝稽古は次々とやるべきことが切り替わり、集中を常に保っていないといけない。

 個々の練習内容を高めることも必要だが、まずはこのテンポについて行けないと周りに迷惑を掛けるだけだ。


 師範代はニッコリと微笑み、「毎日はキツいでしょうから」と当分あたしの朝稽古参加は週4回とすることが決められた。

 あたしが納得すると、「可恋ちゃんにお礼を言っておいてね」と言葉を残し去って行った。

 日野さんは今日から朝稽古に参加する予定だった。

 しかし、雨だから休んだそうだ。


 ……雨だから休むって何よそれ。


 昨日、道場からの帰り際に「保科さんは周りをよく見てるね。観察する力は武器になるからこれからも鍛えるといいよ」と日野さんは言ってくれた。

 あまり言われたことのない指摘だった。

 朝稽古を見学して途方に暮れていた時に師範代から「よく見ていなさい」と言われたので、それが実践できているのかもしれない。

 あたしは舞い上がり気味に「ありがとうございます!」とお礼を言った。

 日野さんも翌日の朝稽古に参加すると聞いていたので、そこであたしが頑張っている姿を見てもらおうと心に決めた。

 だが、今日日野さんは姿を見せなかった。


 ……雨で休む人には負けられないよね。


 今日の朝稽古参加でレベルが一気に5つぐらい上がった気分のあたしは、このペースでドンドンと成長できると感じていた。

 自分がこんなに負けず嫌いなのかと驚くほど誰にも負けたくないと思った。

 朝稽古はあたしの心に火をつけた。

 それだけ充実した時間だった。


 ……よし!


 あたしは中学生になって伸ばし始めた髪に触れる。

 家に帰ったらお母さんに切ってもらおう。

 目標に見据えたあの人のように。




††††† 登場人物紹介 †††††


保科美空みく・・・中学1年生。可恋とは別の公立中学に通っている。スカートを穿いていないと男の子と間違われることが多い。


日野可恋・・・中学3年生。朝稽古には天候と体調が良い日しか参加しない。


キャシー・フランクリン・・・G8。インターナショナルスクールに通っている。例年だとこの時期から夏休みだが……。


三谷早紀子・・・道場の師範代。女子の育成に定評があり、県外から指導を受けに来る人もいる。

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