第346話 令和2年4月16日(木)「マカロン」日々木華菜
気がつけば4月も半分を過ぎた。
あっという間だったような気もするし、ようやく半分という気もする。
2月末の一斉休校から、それまで当たり前だと思っていたことが決して当たり前ではなかったことを知った。
日常は一変した。
それでもわたしは恵まれている。
いちばんヒヤリとしたのは先月末にお母さんが風邪を引いたと告げた時だ。
幸い、ただの風邪だったようで数日で体調は回復した。
横浜のデパートで働くお母さんは家族の中でもっとも感染リスクが高い。
もし、万が一を考えたら、心配で寝つけないこともあった。
その数日間を除けば、平穏に過ごしている。
学校は時差登校の始業式があったものの、緊急事態宣言が出て登校日は中止になった。
休校もゴールデンウィークが明けるまで、つまり、現在の緊急事態宣言の期限まで延長された。
お母さんが大事をとって家で過ごす間にデパートは休業となった。
自宅待機が続く中で、たまにリモートワークで仕事をしている。
お父さんは元々家族優先で、在宅での仕事が多かった。
いまは必要な打ち合わせもオンラインで行い、ずっと家に居る。
ただひとり妹のヒナだけが可恋ちゃんの家で暮らしているので不在だ。
両親は普段から口やかましくない。
あれをしろ、これをしろと言われることは滅多にない。
だから、一緒にいてもほとんどストレスを感じない。
ヒナがいないことは寂しいが、毎朝のジョギングの際に彼女の顔を見て英気を補充している。
友人の多くはこの予定外の長期休暇を堪能しているが、中には家族との関係でストレスを感じている子もいるようだ。
わたしが高校3年生だったらこんな暢気に過ごせていなかっただろうが、2年生で良かったと胸をなで下ろしている。
勉強はコツコツやっている。
それ以外で時間の大半を使っているのが料理だ。
自分の部屋にいるよりキッチンにいる時間の方が長い。
特に最近は折角時間があるのだからと難易度の高い料理やお菓子作りに挑戦している。
そのひとつがマカロンだ。
カラフルで人気のお菓子だが、綺麗に焼き上げるのは難しい。
オーブンの温度管理や泡立て具合など、ほんのわずかな問題がひび割れやピエが出ないといった結果をもたらす。
お菓子作りは妥協が即失敗に繋がる。
準備の段階から段取りを頭の中にしっかりと叩き込み、ひとつひとつの作業を集中して行わなければならない。
余計なことを考えている余裕はないのだ。
「うまくできたじゃない」
焼き上がったマカロンを冷ましていると、キッチンに現れたお母さんが声を掛けてきた。
今日はリモートワークはないと聞いていたのにしっかりとメイクをしている。
「70点くらいかな。……どこか出掛けるの?」
わたしは冷蔵庫から昨日作ったマカロンを取り出し、お母さんに勧めた。
そのひとつを摘まむと、パクッと口の中に放り込んだ。
わたしもひとつ手に取ると、半分囓る。
「美味しいわ」と褒めてくれる。
確かに味は合格点だ。
だが、昨日作った分はピエがあまり出ずに見た目がよろしくない。
味が同じだと飽きるので、中のクリームを毎日変えている。
冷蔵庫から自家製のいちごジャムを取り出しボウルに入れる。
そこにクリームチーズと無塩バターを加えしっかり混ぜ合わせる。
これだけでクリームは完成だ。
マカロンが冷えたら挟んで冷蔵庫で1日寝かせる。
理想を言えばマカロンの色をクリームに合わせたかったが、いまは練習なので細かいことには目をつぶる。
わたしの作業をお母さんはじっと見ていた。
気になってきたわたしは「何?」と眼で訴えかけた。
お母さんは優しい笑みを浮かべながら話し始めた。
「この前、華菜のお友だちがオンラインで英会話を学んでいるって教えてくれたじゃない。私もそれに申し込んだのよ」
「えっ?」
予想外の話にわたしは驚きを隠せなかった。
「お母さんが受けるの?」と聞くと、「もちろんよ」と笑う。
「こんなことが起きてデパートは存続が危ぶまれているわ。インバウンド頼みだったのに、以前のように観光客が来るかどうかも分からない」
ドキッとする話の内容なのに、お母さんの声はさほど深刻そうではない。
「辞めることになるかどうかは分からない。でも、その覚悟は必要だと思ったの。だから、まずは英語を勉強しようかなって考えたのよ」
表情は笑みを絶やさず、どこか楽しげだ。
「いまはインターネットがあるのだから個人でだって何でもできるわ。英語が使えれば世界を相手にすることだってね」
やる気に満ちた顔は若々しく感じる。
「それにね、陽稲はいつか海外に行っちゃいそうじゃない。可恋ちゃんと一緒に。英語ができないと会いに行くにも困るでしょ」
ヒナや可恋ちゃんはいまや英語はペラペラだ。
その姿を見ていると、いつか海外で暮らすんじゃないかとわたしも思っている。
「あとね……、可恋ちゃんのお母さんの陽子さんって格好いいじゃない。私も少しは頑張らないといけないって思ってね」
1年前に宣子叔母さんが母のことを「何でもできる人」だと言っていた。
妹として比べられて辛かったという思いを打ち明けてくれた。
学業が優秀なだけでなく、お母さんの周りには人が絶えなかったらしい。
陽子先生相手に張り合うお母さんにその片鱗を感じた。
「なんだか凄いな」とわたしは正直な気持ちを口にする。
「まだ何もやっていないわよ。英語と中国語とスペイン語をマスターしたら褒めて」と言ってお母さんは愉快そうに笑う。
……なんか増えているし。
「そうやってチャレンジする姿勢がさ」
「華菜だって頑張っているじゃない」とお母さんはわたしの肩をポンと叩いた。
何でもできる可恋ちゃんは別格としても、その可恋ちゃんの横に並ぼうと懸命に食らいつくヒナ。
陽子先生に刺激を受けて、ピンチでも下を向かないお母さん。
それに比べてわたしは……という気持ちがもたげてしまう。
「華菜は料理の腕では可恋ちゃんに負けないと思っているんでしょ」
「料理の腕、だけね」
可恋ちゃんの何倍も料理の実践に時間を費やしてなんとか優位を保っている。
栄養学などはわたしも独学で勉強しているが、全然追いつかない。
「だったら良いじゃない。自分の仕事に胸を張れる一流のプロフェッショナルになれば対等よ」
お母さんは誇らしげに胸を張る。
これまでデパートで経験を積み、プロフェッショナルとして責任ある仕事をしているという誇りが感じられた。
たとえ相手が超有名な大学教授でも、この自信に満ちた表情を見れば対等だと思えてしまう。
「……頑張る」
人が生きるために食事は絶対に必要だ。
それは家庭の中であれ仕事としてであれ同じだろう。
いま、その仕事が危機に瀕している。
美味しい料理を食べて欲しいという気持ちだけではどうしようもない状況だ。
しかし、必ず日常は戻って来ると信じている。
明けない夜はない。
その日のために、わたしは……。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木華菜・・・高校2年生。料理が趣味。それが高じて調理師や栄養士など料理関係の職を考えるようになった。
日々木実花子・・・華菜と陽稲の母。横浜のデパートに勤務している。ファッションのフロア担当。北海道出身で東京の大学に進学した。
日々木陽稲・・・中学3年生。ロシア系の血を引く超絶美少女だが、努力家でもある。
日野可恋・・・中学3年生。お菓子作りには手を出していないが、華菜から私より適性が高いと恐れられている。
日野陽子・・・可恋の母。某超有名私立大学教授。私は仕事が好きなだけと語り、人は生きるために目の前の仕事を必死にしている、そこに優劣はないと述べている。
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