第319話 令和2年3月20日(金)「春」日野可恋

「春だねぇ」とひぃなはベランダから街を一望してのんびりと言った。


 今年は暖冬の影響で桜の開花も早い。

 ここから見下ろせる中学校のグラウンドの桜は咲き誇るのを待ち構えているつぼみが枝に鈴なりとなっている。


「こうして眺めていると平和って感じなのにね」と私は感想を口にする。


 うららかな春の陽差しが眠気を誘う。

 昨年のこの時期は花冷えが多かったと記憶しているがそれとは大違いだ。

 風は爽やかで平穏を感じさせた。


「このままウイルスが消えて無くなっちゃえばいいのに……」


「季節性インフルエンザのように暑くなると収まるタイプならいいんだけどね」


 希望的観測に過ぎないが、こんな陽気の日には明るい話をしたいものだ。

 ひぃなは紫外線対策で日焼け止めを塗ってベランダに出て来た。

 そうしてまで浴びたいと思わせる太陽の煌めきだったのだ。


 眼下には普段と何も変わらない街並みが広がる。

 いくつかの公園の木々は青々として春の到来を主張している。

 新緑の季節に私がこんなに元気なことは珍しいことだ。

 徹底した感染症対策を行い、充実した日々を過ごすことができていることが理由かもしれない。


「可恋は登校日は休むんだよね」とひぃなが話題を変えた。


「そうだね」と頷くと、ひぃなは「わたしも休もうかなあ」とつまらなそうな表情で言った。


 状況が急変しなければ、休校は24日に終了する。

 2日間登校日があり、その翌日に卒業式、週明けに年度の修了式が行われる。


「ひぃな、掃除は好きなんでしょ」と私が笑い掛けると、「それはそうだけど……」と顔をしかめた。


 登校日に3年生は卒業式の練習をするが、1、2年生は学級活動のほか大掃除や美化活動をするそうだ。

 しっかり換気すれば掃除による感染リスクは低いだろう。

 だが、清掃のために学校に行くのもなあというのが正直な気持ちだ。


「学校に行くとここに居られなくなるから……」とひぃなは溜息をつく。


 警戒しすぎだとは思うが、登校期間中はひぃなに自宅に戻ってもらうことにした。

 ずっと私につき合わせてしまっているので、たまには家族とゆっくり過ごして欲しいと思っている。


「どうせ誕生日は自宅に帰るんだから、そう変わらないよ」と私はひぃなを慰めた。


 彼女の誕生日は登校期間中の週末だ。

 いつもは春休み中なので彼女の祖父の自宅で誕生日のお祝いをしているそうだ。

 しかし、今年はイレギュラーな事態になったので自分の家でその日を迎えることになった。

 春休み中も帰省せずにまた私のマンションに来る予定だ。


「でも、可恋、ひとりになるじゃない」とひぃなは心配する。


 母はいま様々なNPOと連携しながら経済的に新型コロナウイルスの影響を受けた女性の支援に走り回っている。

 政府による救済策は少しずつ発表されているが、職を失い今日明日の食事にさえ困る人だっている。

 年度の変わり目は支援の隙間ができやすいので、母はゆっくり家に帰る時間がないようだ。

 感染症リスクも考慮し、まだ当分は帰れないと話していた。


「慣れているから大丈夫だよ」と安心させるように言うが、ひぃなの表情は曇ったままだ。


「代わりに誰かに泊まってもらうとか……」とひぃなは言うが、それはかえってストレスが溜まりそうだった。


「しっかりお別れしてきた方がいいよ」と私は話を戻す。


 3学期が終わればクラスメイトはバラバラになる。

 私にとっても印象深いクラスだったが、こればかりは避けられないことだ。

 別のクラスになったからといって繋がりがプッツリと切れる訳ではないが、目の前の日常に追われてすぐに過去の思い出になってしまうかもしれない。


「可恋はいいの?」


 そんな私の気持ちを察してひぃなが尋ねた。


「仕方ないよ」と私は微笑む。


「可恋はいつもそうやって諦めてきたのね……」


 ひぃなの鳶色の瞳が翳っていた。

 それだけで随分と大人びて見える。


「少し肌寒くなってきたね。部屋に戻ろう」


 空調の効いたリビングは温室のような場所だ。

 私は1年の三分の一はこうした温室の中でしか生きられない。

 情報機器の発達のお蔭でそれでも活躍の場があるものの、籠の鳥であるという自覚はいつもあった。


 私は真っ直ぐキッチンに行き、お湯を沸かす。

 慣れた手つきで紅茶を淹れる準備を整える。

 紅茶の香りは私を落ち着かせてくれる。

 これは沈んだ気持ちを立て直すためのいくつかある作業のうちのひとつだ。


「飲み込まなきゃいけない現実は誰にだってあることだよ」


 そう言ってティーセットをひぃなの元に運ぶ。

 手伝おうとするひぃなを目で制し、ソファの前のテーブルにティーカップを並べる。


 私は健康面では制約があるが、経済的な面では人より恵まれている。

 ひぃなだって類い希な容貌のせいでひとりでの外出を制限されている。

 自分だけが不幸だと嘆いたところで何も得られるものはない。


 ひぃなはまだ納得していないようで眉間に皺が寄っていた。

 私のことで何の力にもなれないことに憤っているのだろう。


「私の誕生日っていままで家族でちょこっと祝う程度だったのよ」と言いながら、親指と人差し指の間を1 cmだけ空けた。


 そして、両手を大きく広げて「今年はひぃながいっぱい祝ってくれるんでしょ。楽しみにしてるわ」と微笑む。

 彼女の誕生日の1週間ほど先に私の誕生日がある。

 ひぃなは前々から盛大に祝うと言ってくれていた。


「みんなを呼べないのは残念だけど、絶対に思い出に残る誕生日にするからね」とひぃなは決意を込めた。


 ひぃなは何かを思いついたように、「分かった。登校日の間は家に帰って準備するね」と真剣な顔付きで私に言った。

 彼女の思いつきは時に暴走してしまいそうで心配だが、いまは任せよう。


 ……とは思ったものの、「思いつきを実行する時は必ず華菜さんなど周りの人に相談するように。あと、盛大にするのはいいけど限度というものがあって……」などと口出ししてしまう。

 ひぃなは「大丈夫、大丈夫」と微笑むが、彼女の大丈夫は信頼できない。


「可恋は心配しすぎだよ」と笑うひぃなに、私はどこで計算が狂ったのかと頭を抱えるのだった。




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・中学2年生。生まれつき免疫力が極度に低いという障害を持ち、冬場は登校できない状況がいまも続いている。


日々木陽稲・・・中学2年生。ロシア系の血を引き、日本人離れした美貌を持つ。非力なこともありひとりでの外出は止められている。

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