第301話 令和2年3月2日(月)「共同生活」日々木陽稲
いつもなら学校にいる時間なのに、可恋の部屋で過ごしているのは不思議な気分だ。
空調の効いた室内。
シンプルで飾り気がなく、女の子っぽさが微塵もない部屋だけどそれがかえって可恋らしい。
クローゼットや本棚、カーペットの上にわたしが持ち込んだ可愛らしいクッション、小さな白いテーブルの上にわたしと可恋のノートパソコンが1台ずつ。
あとはこの部屋の中央にドンと構える高級ベッド。
可恋はそこに横たわって読書用の端末で電子書籍に目を通している。
可恋の集中力は凄まじく、大声で呼び掛けても気付かないことがある。
今日は朝から雨が降り、ジョギングは中止になった。
いつも一緒に走る純ちゃんのことが心配になり、本人や彼女の妹の翔ちゃんに電話をかけて様子を聞いた。
小学生の頃は朝が苦手でなかなか起きられなかった純ちゃんは、わたしの朝のジョギングにつき合ううちにだんだんとそれを克服した。
毎朝わたしが純ちゃんを起こしに行き、以前は10分くらいかけてようやく彼女は目覚めていた。
最近はすぐに起きるようになったし、わたしが起こしに行けない時も遅刻することはなくなった。
今朝も起きるのは大丈夫だったようだ。
ただ雨なので身体を動かし足りないらしい。
彼女の家は古い長屋なので、大柄な彼女が暴れると家が壊れるんじゃないかと思ってしまう。
175 cmを越える長身に競泳で鍛えた筋肉をまとい、女の子とは思えない体つきをしている。
春の大会に備えて練習に打ち込みたい時期だが、それがままならない状況だ。
可恋が言うには、次の大会で結果を残さないと強豪の私立高校の推薦は難しく、学力的にも経済的にも推薦や授業料減免がないと練習を続けながらの高校生活は難しいようだ。
素質はパリオリンピックの有力候補とまで言われているが、競泳を続けていけるかどうか、彼女の人生の岐路を左右する大切なタイミングでこの状況になったことにわたしは心を痛めていた。
雨だと満足な練習ができないので、午後に可恋の家に来てもらうことになった。
リビングに本格的なトレーニングマシンが置いてあるので、それを使う許可を可恋が出してくれた。
可恋は自分の部屋に引き籠もり、純ちゃんの相手はすべてわたしがする。
手洗いやアルコール消毒のやり方は可恋から叩き込まれているので、わたしが責任を持って純ちゃんが使ったあとのリビングダイニングを除菌する。
可恋の健康はわたしが守ると使命感に燃えていた。
午前中は勉強タイム。
勉強とひとくちに言っても、ワクワクするような楽しい勉強もあれば、つまらない退屈な勉強もある。
大急ぎで準備された長期休校中の宿題は後者の代表みたいな感じだった。
基本の復習で、量だけがやたら多い。
仕方がないとは思うものの、平均以上の学力の子にとっては勉強嫌いになってしまいそうな宿題だった。
可恋はひと目見て、「時間の無駄」と言ってやらないことを決めてしまった。
可恋のことだから何らかの理由をこじつけて許してもらうのだろう。
可恋のことを扱いづらい生徒だと見なしている先生は少なくない。
成績は飛び抜けているし、内申をまったく気にしていないので、教師も注意しにくいのだろう。
可恋は空気が読めない訳ではないが、意図的に空気を読まないことがある。
クラスメイトは可恋だからと受け入れているが、先生に疎まれる原因になっている。
わたしが可恋に感化されて同じような態度を取れば、可恋に対する風当たりはもっと強くなりそうだ。
わたしが可恋の隣りで真面目に優等生をやっているから大目に見られる面もあると思う。
可恋の暴走を防ぐ重石のような存在と見られているようだ。
それは可恋のためになるので構わないのだけど、そういう信頼を持たれ続けるためにこんな宿題を真面目にやらなきゃいけなくなるのは損した気分だ。
宿題にうんざりして、プリントの山をパラパラと眺めていると、生徒会の緊急アンケートが出て来た。
金曜日に生徒会メンバーが慌ただしく配っていたものだ。
「可恋」と何度か呼ぶと、ようやく彼女が気付いてこちらを見た。
「このアンケート、可恋が考えたの?」と尋ねると、「まあね」と返答した。
「本当はこの長期休暇の序盤、中盤、終盤に分けて生徒の精神状態をアンケートしたかったんだけど。時間がなかったんでそんな感じになったの」と可恋は説明する。
生徒会のアンケートにしてはかなり踏み込んだ感じがあった。
不安感について事細かく質問しているし、どう過ごす予定かのような項目もあった。
「陽子先生も関わっているの?」
「少し相談した」と可恋は正直に答えた。
可恋のお母さんの陽子先生は社会学の教授だ。
お話を伺ってもどういう学問なのかわたしにはよく分からないが、もの凄い人だとは聞いている。
可恋は母親の著作はすべて読破しているし、研究論文も目を通していると話していた。
もう大学生と混じっても劣らない程度の学力が可恋にはある。
それを指摘すると、「純ちゃんだって大学生のトップスイマーと競っても良いレースができるはずだよ」と可恋は何でもないことのように言った。
「ひぃなのファッションに関する知識だって中学生のレベルは越えてるでしょう?」
「そうかな?」と自信なさげに答えると、可恋は眼を細めわたしをじっと見た。
可恋の勉強――可恋が飛び抜けているのは勉強に限らないが――や純ちゃんの競泳は他人との比較がしやすい。
それに比べてわたしのファッションについての能力は比較がしにくい。
自分の中では自信はあるものの、ハッキリと目に見えて優れている例と比べられると自信を持っていると言い切ることは躊躇ってしまう。
「謙遜は日本では美徳だけど、自信を持って振る舞うことが結果に繋がると思う」
可恋の言葉にわたしは静かに頷いた。
「いまの時代、外と繋がることが容易になったんだから、狭い世界に囚われなくていいんだよ」
可恋らしい物言いだ。
彼女には枠に囚われない発想がある。
それがあるから自由に振る舞える。
もちろん、自分に自信があるからこそだが。
「まあ外には外のルールがあるから、安易に外に飛び出せばいいって訳でもないんだけどね」と可恋は笑った。
「そうなの?」
「例えば、中学生ふたりだけで暮らすなんて欧米だと親からの虐待に当たる」
「え?」と驚くと、「子どもだけでの留守番が法律違反に当たる国もあるんだ。教育の理念は欧米とアジアではかなり異なるね。どちらが正しいかは別として」と可恋は微笑む。
急に不安になったわたしは「大丈夫なの?」と可恋に聞いた。
「世間に知られれば母を非難する声は上がるでしょう。しかし、正義の名の下に他人を批判する人を相手にしてはいけない。そんな人の声を聞こうとするからおかしくなってしまうのよ」
決然と自信を持って語る可恋だが、「もちろん世間に知られないように手は打っているし、ネット上での発言はすべて法的に解決する手立てを用意しているわ。その人たちには私の敵に回ったことを後悔させてあげるから、ひぃなが気にすることじゃないのよ」と魔王のような笑みを浮かべる。
わたしは聞くんじゃなかったと後悔したことは言を俟たない。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・中学2年生。休校期間中独り暮らしとなった可恋を心配して、両親を口説き落として可恋の家に押しかけた。
日野可恋・・・中学2年生。宿題の代わりに論文を書くので許してくださいと言ったのに、査読できないからダメと小野田先生に却下されてしまった。
安藤純・・・中学2年生。彼女の能力を高く評価し、今後も競技生活を続けさせたいと願っているクラブ関係者は多い。
日野陽子・・・可恋の母。某超有名私立大学教授。現在は女性支援に奔走中で、感染症の危険を考慮して可恋と離れて暮らしている。
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