第302話 令和2年3月3日(火)「ひな祭り」松田美咲
今日は3月3日。
桃の節句だ。
小学生の頃は家に友だちを大勢招いて、賑やかに過ごす日だった。
飾るのは内裏雛のみで、決して豪華なものではない。
母が嫁入りの際に持参したもので、母の母から譲られたそうだ。
制作は江戸後期と言われ、代々嫁入りの際に受け継がれてきたと聞いている。
古いものだがとても大事に扱われてきた。
作りも非常に精巧で雅だ。
友だちの家でもっと豪華な雛飾りを見せてもらったこともあるが、わたしはこの内裏雛をとても気に入っている。
去年は優奈を招待したが、今年は誰も招かなかった。
グループの他の子は気にしないかもしれないが、優奈だけを招くというのは気が引ける。
かといって彩花たちまで招くと大勢になって、このご時世には相応しくないと思ったのだ。
母に持病があることもわたしを不安にさせている。
母は高齢でわたしを出産した。
産後の肥立ちが悪かったらしく、出産後長期間病床に伏せっていたそうだ。
いまは娘のわたしに対してさえ弱った姿を見せないが、毎月定期検診を受け体調に非常に気を配った生活をしている。
優奈たちは一緒に暮らす家族も若く健康なので、新型コロナウイルスに対する不安よりも様々な制約に対する不満の気持ちが募っているように見える。
そんな優奈の態度を責める気持ちはない。
ただ身近にリスクが高い人がいることで、わたしは優奈との距離のようなものを感じてしまった。
そんな思いを態度に表したつもりはなかったのに、気づいた人がいた。
日々木さんだ。
金曜日の夜に電話を掛けてくれた。
「塞ぎ込んでいるようだったから、ちょっと心配だったの」
「そう見えましたか?」とわたしは驚いて問い返してしまった。
「普段なら笠井さんも気づいたと思うんだけど、いまはみんな自分のことで精一杯だしね」
日々木さんの言葉に電話越しなのに頷いてしまう。
優奈もいまはダンス部の練習がままならず、精神的に追い詰められている。
だから、相談することを躊躇ってしまった。
わたしは日々木さんに胸の内を明かした。
友人たちとの温度差を感じていることを。
「そうだよね、気持ちはよく分かるよ」と話す日々木さんの声には感情が籠もっていた。
「大切な人のリスクが高ければ心配するのは当然だよ。そして、そんな人が身近にいるかどうかで考え方が違ってしまうのも仕方がないよね」
教室の中では天使のようにニコニコと微笑む姿ばかりが目立つ日々木さんだが、その心の芯は強い人だと気づかされる。
彼女の言葉のひとつひとつに優しさと強さがあった。
「つらいよね、大変だよね。だから、こうした思いはひとりで抱え込まずに伝えよう。心配する相手に。信頼できる友だちに。わたしに言えたんだからできるよ」
「大丈夫でしょうか……」と不安を口にすると、「松田さんのお母様は聡明な方だし、笠井さんはとても友だち思いなんだから心配はいらないよ」と日々木さんは明るい声でわたしの背中を押してくれた。
土曜日に両親に打ち明けると、お母様はわたしの肩を抱いて「心配を掛けましたね」と慰めてくれた。
両親の前で涙を見せるなんて何年ぶりのことだろう。
淑女らしからぬ振る舞いを両親は笑って許してくれた。
「絶対に大丈夫というものではありませんが、危険なことは新型コロナウイルスだけではありません。不安のあまり心身に不調を来すこともとても危ういことです」
「不安は感染するものだ。私たちも美咲を心配していた。話してくれてありがとう」
お母様とお父様の言葉にわたしは心が軽くなるのを感じた。
日々木さんの強さもきっと大切な人に心配をかけまいという強い気持ちから生まれたものなのだろう。
わたしはもう中学生だ。
自分の感情だけに振り回される子どもではない。
心配する気持ちを抱くのは当然としても、不安に押しつぶされて逆に心配を掛けるような真似をしてはいけない。
そんな決意を抱いて、その夜に優奈と電話で話した。
翌日の日曜日に原宿にみんなで行こうと誘われていたことへの返答をするためだ。
「優奈の行動を非難する気はないの。不要不急の外出を禁止することを子どもにだけ押しつけているように感じる優奈の気持ちも分かります」
そこまで言ってから、わたしは一度口を真一文字に閉じ、次の言葉を告げるために勇気を奮った。
「しかし、いまこのタイミングで人混みに行くのはどうかと思うの。気分転換を図るにしても原宿でなきゃダメなのかしら」
「じゃあ、どこだったらいいんだよ」
「日々木さんから近隣――と言っても自転車が必要な距離ですが――にある雑貨店などをいくつか教えてもらいました。そこに行くのはどうでしょう?」
優奈は渋々といった態度でわたしの提案を受け入れてくれた。
その上で、わたしは日々木さんに話した内容を優奈にも伝えた。
「家ごとにいろいろあるんだな。実は、綾乃が家から一歩も外に出させてもらえなくなってさ……」
「綾乃が?」
「アイツ、自分のことは全然話さないけど、綾乃と同じ小学校だった子に聞いたことあるんだよ。親が厳しいっていうか、ちょっと虐待気味だったって」
わたしは「えっ!」と驚きの声を上げた。
1年近く一緒にいるのに初耳だった。
「彩花ん
優奈の声に苛立ちを感じた。
最近優奈は子どもである無力感に苛まれているようだ。
大人たちに勝手にすべて決められて、何もできない自分に苛立ちを感じている。
綾乃のことだって、いまのわたしたちにできることはほとんどない。
「とりあえず日野さんに相談しておきましょう。何か起きた時にすぐに対応してもらえるように」
日々木さんが心配している相手である日野さんの負担を増やすことは心苦しい。
わたしは心の中で手を合わせ日々木さんに謝罪した。
そして、今日。
自分の部屋に飾った内裏雛をひとりで眺めている。
LINEに写真を投稿したら、思い思いのコメントがついた。
『懐かしい』と彩花。
彼女は小学生の時によく来てくれた。
『キレイ! 見たい!』とひかり。
綾乃からも『見てみたかった』と。
来年の今頃、受験が終わり全員の進路が決まっていれば、ゆっくりとみんなで集まることができるのではないか。
それまでこの友情が続いていることを願いつつ、『来年は素敵なパーティを行いましょう』と返しておいた。
優奈からは『去年食ったちらし寿司が忘れられない』とあった。
ちらし寿司は母の手作りだ。
お母様におねだりしてみよう。
この危機を乗り越えた暁に、友だちをいっぱい招いてちらし寿司を振る舞いたいと。
††††† 登場人物紹介 †††††
松田美咲・・・中学2年生。資産家のひとり娘。両親の教育方針により公立中学校に通っている。
笠井優奈・・・中学2年生。ダンス部部長。友だち感覚の両親、兄との4人暮らし。
田辺綾乃・・・中学2年生。ダンス部マネージャー。親の意向で長期休校中は外出禁止に。
須賀彩花・・・中学2年生。ダンス部副部長。美咲とは小学生時代からの友人。
渡瀬ひかり・・・中学2年生。ダンス部。両親、兄との4人暮らしだが、家族関係は希薄。特に父・兄とは会話がない。
日々木陽稲・・・中学2年生。その外見は天使や妖精に称えられる。心も天使のようだと称されるが、時に妖精のような悪戯も。
日野可恋・・・中学2年生。免疫系の持病があるため要塞のような自宅マンションに陽稲と引き籠もり中。
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