令和2年3月
第300話 令和2年3月1日(日)「共同生活」日野可恋
このマンションは通う中学校のすぐ前という立地だけでなく防音や機密性も考慮して引っ越し先に選んだ。
温度や湿度管理、空気清浄といった室内で長時間過ごすために不可欠な製品にはお金を惜しまなかった。
災害対策として生活必需品の備蓄は万全で、マスクや消毒液も無駄遣いしなければ当分困ることはないだろう。
学校が再開されるまで一歩も外に出ない生活も可能だ。
1年前であれば本当に1ヶ月間外出しない生活を送っていたかもしれない。
「免許があれば海でも見に行くのに」
私は自分のベッドに寝そべってスマホをいじっていた。
その手を止めてそう呟くと、クッションに座りテーブルの上のノートパソコンを使っていたひぃながこちらを見た。
「珍しいね。可恋が外出したいなんて」
ひぃなは昨日いつも以上の大荷物を持ってうちに来た。
この長期休校の間、私の家で暮らすと宣言している。
その理由のひとつに、私の母が当分帰らないと言ったことがあった。
母はフィールドワークの傍ら女性の支援も行っている。
今回の新型コロナウィルスに限らず、災害などの緊急事態は社会的弱者により大きな負担となる。
日頃からギリギリの生活を強いられているため非常時への備えができていないためだ。
そして、これらの支援は実際に会って話を聞くことから始まることが多い。
感染症対策はしっかりやると言っても一定のリスクは存在する。
一方、私は免疫系の障害があるため感染症には極度に弱い。
話し合いの末、妥協点として母は大学近くに部屋を借り、当分そこを拠点とすることにした。
忙しい人だが私が口酸っぱく健康管理のことを言うせいか、最低限のことはやってくれているし、これまで健康に大きな問題は起きていない。
少しでも体調が悪いと感じたり、熱があったりしたら他人に移さないために休むようにと念を押して私は母を送り出した。
そんな事情を知ったひぃなは決然と「わたしが可恋と一緒に暮らす」と言った。
無事に両親を説得してやって来たのだった。
家出してでも来そうだったので、許可してくれたひぃなのご両親にはたいへん感謝している。
昨日大きなボストンバッグを持ってひぃなを送ってきた彼女の父親に、「どうもありがとうございます」と私は頭を下げた。
こんな時に大事な娘を他人の家に住まわせることは不安だろう。
「もう誰が感染してもおかしくないし、報道を見ていると家庭内での感染は避けにくいみたいだね。家に居るより、リスクは低いと思っているよ」
ひぃなのお父さんは穏やかな笑みでそう話してくれた。
私を心配するひぃなをずっと家に閉じ込めておくことは難しいと判断したのだろう。
一緒に来たひぃなの姉の華菜さんは少し緊張した面持ちで「わたしがウィルスを持ち込まないように気を付けるね」と言った。
華菜さんは今後も時々夕食を作りに来てくれるという。
「栄養士や調理師を目指すなら感染症対策の知識は必要ですから、しっかり実践しましょう」と私が話し掛けると、真剣な顔で頷いていた。
こうしてふたりでの共同生活が始まった。
雨でなければ朝のジョギングは継続する。
華菜さんや純ちゃんと合流して公園で軽く汗を流す。
純ちゃんはまだ春の競泳大会の中止が発表されていないこともあってスイミングクラブでの練習を続けている。
プールは塩素消毒がなされているので感染症のリスクは低いが、クラブへの移動や更衣室などで感染のリスクがある。
練習の頻度や開始・終了時間の変更、更衣室等の除菌の徹底という対策は採っているが、クラブはいつ休止になってもおかしくない状況だ。
午前中は勉強に時間を当て、午後は自由時間とした。
ひぃなはファッション関係のサイトを見て回っていた。
私は読書をしたり、スマホをチェックしたりとベッドの上でぐうたらしていた。
世間が大変な時期だからこそリラックスすることが必要だ。
「朝稽古を休んでいるから身体を動かし足りないのはあるかな。海に行っても泳げないから本当に気分転換に過ぎないけど」
「わたしは長期休暇はいつも”じいじ”の家に行っていたから、自宅に籠もっていたら息が詰まっていたかもね」とひぃなは苦笑する。
「そういえば誕生日はどうするの?」
彼女の誕生日は春休み中で、これまではお祖父様の家で過ごすと聞いていた。
そこへの参加をかなり前からお願いされていたが、今年は臨時休校によって春休みの時期がずれている。
「誕生日は土曜日だから1泊2日で行くとか、月曜日は終業式だけだからそのまま”じいじ”の家にいればいいとか言われているんだけど……。まだ先のことはどうなるか分からないから、もう少し様子を見るって答えているの」
「まあ、そうだね」と彼女に同意する。
先を見通せないことが人々を不安にさせる要因のひとつだ。
重症化するケースが少ないことがこの感染症への対策を難しくしている。
感染者がみな重症化したら、その人たちだけを隔離しておけば済む。
しかし、軽症や無症状の人が多く、そういう人たちから感染が広まるとなれば封じ込めは困難だ。
検査を受けられないことが騒がれているが、現状では検査の信頼性は高くない。
しかも、検査を受けようとする中で感染が広がるリスクも懸念されている。
20世紀初頭に脅威を振るったスペイン風邪は多くの死者を出したが、生き残った人々が免疫を獲得したことで収束した。
今回の新型ウィルスも免疫を持つ人が増えることで収束し、その後は風邪を引き起こすウィルスのひとつのようになっていくことも考えられる。
医療崩壊を起こさないためにこの1、2週間が重要だというのは間違いない。
だが、それを乗り越えたからもう大丈夫という保証はまったくない。
抗ウイルス薬に限らず効力の高い薬には副作用がつきものだし、安全な新薬の開発には時間が掛かるだろう。
「不安になるのは分かるけど、長い戦いになることは避けられないと思う。いまはもうウィルスのリスクよりも社会的不安や経済的影響によるリスクの方が大きくなっているかもしれない」
そう言うと、私はひぃなに向かって微笑んだ。
「やるべきことをやったあとは余計なことを考えても仕方ないよ。この日常をどうやって楽しく過ごすかを考えよう」
情報収集は大切だがテレビやインターネットはノイズが多い。
気にしないようにしていても不安を煽る言説にさらされると人間は不安を抱いてしまう。
すでに日本で紙製品の買い占め騒ぎが起きたが、不安がパニックを引き起こす典型だと言えるだろう。
幸い私はNPO活動を通して信頼できる医療関係者等と知己を得て、信頼性の高い情報の発信源を教えてもらった。
専門家といえど自分の専門領域からわずかでもはみ出すと見当違いのことを語ることがあるので鵜呑みにはできないが、それでも半可通のコメンテーターや一般人よりは価値がある。
むしろ素人の意見は一見正しそうでもノイズに過ぎず、まき散らされれば有益な情報が埋もれる可能性があるので有害とさえ言える。
不安だからいろいろと語りたい気持ちになるのだろうが、そういう意見を目にしない努力が当分必要だろう。
「でも、わたしたちだけが楽しくていいのかなあ……」
ひぃならしい言葉に私は目元が緩む。
「まず私たちが楽しい気持ちにならないと。その上で余力があれば、その楽しさを他の人たちに分け与える方法を考えよう」
「そうだね」とひぃなが微笑む。
ひぃなのこの笑顔をネットにアップするだけで多くの人の癒やしになりそうだが、彼女の安全のために私が独占することしかできない。
私は「ごめんね」と心の中でこの笑顔を見ることができない人たちの不幸に対して謝っておいた。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学2年生。母は著名な大学教授。生後すぐに別れた父からの養育費を元に資産運用をしている。
日々木陽稲・・・中学2年生。父親は建築士、母親は横浜のデパート勤務。父親は家族と過ごす時間を優先している。
日々木華菜・・・高校1年生。陽稲の姉。料理が好きで、栄養士や調理師を目指している。
安藤純・・・中学2年生。陽稲の幼なじみ。恵まれた体格を持ち、この世代では非常に期待されている競泳選手。
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