第72話 令和元年7月17日(水)「ジョギング」日々木華菜
今日からジョギングを始める。
きっかけは一昨日のアルバイトでのことだ。
自分の体力不足を痛感させられた。
女子高生として人並みの体力はあると自負している。
それでも、現実は厳しかった。
鍛えている可恋ちゃんと比べても仕方ないけど、もう少しどうにかしたいという思いが募った。
「鍛えておいて損はしませんよ」
アルバイトの後、店内で晩ご飯をみんなで食べた。
閉店間際には両親も来てくれて、テーブル2つに7人が座り賑やかに食事をした。
その時、力仕事が満足にできなかったことを嘆くと可恋ちゃんがそう言った。
「可恋は他人を鍛えさせるチャンスをいつも狙ってるから」とヒナが笑う。
「体力は貯金みたいなものですから、余裕がある時に蓄えておくといいですよ」
ヒナの言葉を聞き流し、可恋ちゃんがわたしの背中を押す。
「調理師や栄養士を目指すなら尚更です。体力があれば技術の習得に集中できますが、体力がなければ体力強化と同時進行なのでより大変です」
「分かるわ」と可恋ちゃんの言葉に同意したのはわたしのお母さんだった。
「私も体力にはそれなりに自信があったんだけど、それでも就職した直後は立ち仕事やハイヒールに慣れなくて苦労したのよ。仕事も覚えなきゃだし、人間関係もいろいろあるし、大変だったわ」
「社会に出たら女の人でも体力勝負なんてざらだからね」
お母さんの言葉を店のおばさんが引き継ぐ。
「お父さんのように体力の必要ない仕事に就ければいいけど」とお母さんが指摘すると、「僕だって力仕事をしていますよ。主に家の中で」とお父さんが反論する。
「ご主人も空手どうですか?」と店のおじさんがお父さんを誘っていた。
「うーん、体力かあ……」
可恋ちゃんのようにスタイル抜群になれるんなら魅力的だけど、さすがにそこまで頑張れる気がしない。
「最初はジョギングなんてどうですか?」と可恋ちゃんが提案する。
「ジョギングかあ……。ヒナと走るの?」
「いえ、自分のペースで走った方がいいですよ。私もひぃなと一緒は無理ですから」
ヒナは中学に入学して以来、毎朝ジョギングを続けている。
北関東の祖父の家に行った時にはわたしも一緒に走るが、走るペースが非常に遅いのでジョギングというより散歩感覚だ。
「いつかマラソン選手並のスピードで走れるようになるから」とヒナが唇を尖らせると、「ひぃなってジョギングでも水泳でも前に進む才能に欠けてるのかも……」と可恋ちゃんが呟いた。
「ま、前に進む才能って!」とヒナは怒っているが、言い得て妙だとわたしは吹き出してしまった。
可恋ちゃんはジョギングのアドバイスをしてくれる。
特に、楽しんで走ることと、安全対策に力点が置かれていた。
前者はともかく、後者はそれほど気にしていなかった。
もちろん痴漢なんかは怖いが、朝なら明るいし、ヒナの走る公園はひと気も多い。
しかし、ヒナのようにひとりで走らないようにとまでは言われなかったけど、スマホで痴漢対策の警報アプリをすぐに使えるようにしておくなど様々な対策を採るように言われた。
「0.1パーセント、千分の一の確率って聞くと自分の身に降りかからないと思いますよね。でも、3年間は1095日ありますから1回起きても不思議ではない数字です。現実に犯罪に遭う確率はもっと低いですが、遭ってからでは遅いのでできる対策は採っておくべきです」
説得力のある言葉にドキリとする。
ヒナのことは心配するのに、自分のことになると大丈夫だろうと思ってしまう。
「可恋はとっても強いのに、普通の子の何倍も用心してるよ」とヒナも話す。
ヒナはひとりで外出しないように小さな頃から言われ続け、いまもそれをしっかりと守っている。
それを鬱陶しいと思うこともあるだろうが、可恋ちゃんと仲良くなってこういう意識が高まっているんだなと感じた。
いざ、ジョギングを始めようと思った昨日の朝はあいにくの雨で中止した。
ヒナはレインウェアを着て小雨の中を出掛けて行った。
「わたしはもう慣れているし、準備もできているけど、レインウェアがないと風邪を引いちゃうよ」とヒナに言われて断念した。
わたしは昨日の学校帰りにジョギングシューズやレインウェアをアルバイト代から購入した。
そして、今日。
昨日と同じように小雨が振っていたけど、万全の準備がある。
気合いを込めて、ヒナとともに家を出た。
女子高生の常として、夜更かしをしがちである。
わたしもその例に漏れず、これまで朝は苦手だった。
夕食当番はするものの、朝の食事は親任せで済ませていた。
まずはこの夏休み、早起きの習慣を身に付けようとわたしは思った。
続けられたらお小遣いアップという親からの後押しもあるし。
ヒナが純ちゃんを起こしてきて、3人で公園へ行く。
天気が悪くても、ジョギング中の人はけっこういた。
軽いウォーミングアップをしてから走り始める。
楽しく走るために自分のペースを見つけることが大事と可恋ちゃんから言われている。
その言葉に従い、少し抑え気味のペースで走ってみた。
夏らしからぬ気温だけど、走っているとちょうど良い感じになってくる。
小雨も火照った身体には気持ちいい。
普段とは違う何か特別な雰囲気があって、心が弾む。
途中で特徴ある二人組を見つけた。
ヒナと純ちゃんだ。
「ヒナ」と呼び掛けると「お姉ちゃん」とヒナが手を振った。
わたしも手を振り返す。
ヒナの笑顔にわたしはパワーがわき立つのを感じた。
予定の周回を終える。
心地よい疲労感。
自分の意思で、自分のペースで走ることがこんなに楽しかったなんて初めて知った。
可恋ちゃんに教わったアプリに走行距離と時間を記録する。
コメント欄には「楽しかった」と書き込んだ。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木華菜・・・高校1年生。趣味は料理。可恋やヒナのために使ってあげてと言われて多くもらったアルバイト代をどう使うか思案中。
日野可恋・・・中学2年生。筋トレ布教魔だが、母にはスルーされっぱなし。
日々木陽稲・・・中学2年生。後ろ向きに走った方が速いかもしれない。
安藤純・・・中学2年生。陽稲の幼なじみ。陽稲のペースで走れるただひとりの存在。
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