第458話 令和2年8月6日(木)「夏休みの予定」日野可恋
朝。
時間に余裕を持って過ごそうと心がけているが、それでも慌ただしさは避けられない。
朝稽古から戻った私はひぃなと朝食を摂り、そのあと彼女の髪を結う。
ふたりで暮らすようになってからの日課だ。
休日だと複雑怪奇な髪型をリクエストされ、私の手に余ることもある。
今日は終業式。
丁寧にブラッシングをしてから三つ編みを編んでいく。
家では姉の華菜さんにやってもらっていたひぃなは、ウキウキした顔で鏡越しに私の作業を見守っている。
彼女の髪は赤みがかっていてとても繊細だ。
独特の手触りがあり、妙に心地よい。
私の黒の直毛とは大違いだ。
ひぃなからはボブくらいまで伸ばしたらと言われているが、自分の髪は短い方がすっきりする。
髪をいじる楽しさを知ったが、ひぃなの長い髪があれば十分だ。
三つ編みの先をゴムで留めるのは彼女自身で行う。
ゴムを使い慣れていない私のやり方では不満顔だったので自然とそうなった。
最初の頃は三つ編みのやり方にもダメ出しをされた。
特訓の結果ひぃなが満足する編み方をマスターしたのだ。
「ありがとう、可恋」
お下げが完成し、ひぃなが振り向いてニッコリと微笑んだ。
彼女はこのあと日焼け止めを身体のあちこちに塗り込み、姿見の前で服装をじっくりと確認してから登校する。
私の登校前に行う準備の100倍くらい時間と労力を掛ける。
そんな努力をしなくてもずば抜けて可愛いのに手間を惜しまないのがひぃならしさだと言えるだろう。
純ちゃんが迎えに来るまで鏡とにらめっこをしているひぃなに、「夏休み、どこも行けそうになくてごめんね」と声を掛ける。
ひぃなは「可恋が謝ることじゃないよ」と言ってくれるが、彼女の望みを叶えてあげられないことを不甲斐なく思ってしまう。
屋外なら遊びに行っても問題ないと思うが、彼女の肌の弱さを考えると日差しに当たる場所は避けたい。
屋内は感染のリスクが高く、二の足を踏んでしまう。
この夏休みは短い。
2週間にも満たない。
登校していない私には関係ないはずなのに、なんだかんだと忙しくなりそうだった。
「わたしはこうして可恋と一緒に過ごす時間があれば幸せだから気にしないで」
「ひぃな……」
こちらを向いて健気に微笑む彼女の前髪を私は指先で整える。
彼女は私を見上げたままじっとしている。
そのされるがままの姿勢に愛おしさを感じて抱き締めたくなったが、インターホンが鳴った。
私は階下まで送って行った。
ひぃなは「行ってくるね」と元気に手を振った。
見えなくなるまで彼女と純ちゃんの後ろ姿を見送り、それから部屋に戻った。
F-SASの業務に関する打ち合わせ、舞さんのトレーニングについてのミーティング、シャルロッテとの次の論文に対するディスカッション、合間にメールチェック等をしているともうひぃなが帰ってきた。
彼女が手洗いや着替えをしている間に、送ってくれた純ちゃんにお礼代わりのプロテイン入りゼリーを供与する。
彼女は9月上旬に行われる競泳のジュニアオリンピック通信大会に向けて泳ぎ込みの真っ最中だ。
ここでのタイムが高校進学に大きく影響するだけに本人以上に周りが意気込んでいる。
純ちゃん自身は泳げることを純粋に楽しんでいる。
その彼女を「頑張ってね」と送り出し、私はひぃなから今日の出来事を聞く。
「津野さんたちから遊びに行こうって誘われたんだけど……」
ひぃなは困惑した表情を見せた。
クラスの女子で集まって交流を図りたいと提案されたらしい。
学級委員としてクラスのまとまりを強めたいと願っていたひぃなには断りにくい提案だ。
「高月さんがぜひ日野さんもって言っていて、とりあえず相談するって答えておいたよ」
2年生の時も松田さんのグループと一緒にカラオケに行き、そこからお互いの距離が縮まった。
クラスの女子をまとめていく上で津野さんたちとの関係を良くすることはメリットが大きい。
2学期は運動会、修学旅行、文化祭と学校行事が目白押しだ。
実施できるかは状況次第だが、文科省も感染者が出ても極力学校を開け続ける姿勢を取っている。
若年層の重症化率の低さからいっても妥当な判断だろう。
学校行事はあると思って予定を立てておいた方が良い。
その際に学級委員であるひぃなに過度の負担を掛けないためにもクラスメイトの協力は不可欠だ。
「日時や場所は決まってるの?」と確認するとひぃなは首を横に振り、「わたしや可恋が参加するなら急いで決めるって」と答えた。
私は空いている日時を伝え、可能ならひぃなにもどこへ行くか決める話し合いに参加するようお願いした。
ひぃなは平気なの? という顔で私を見た。
「感染症対策を厳密に守ればそうリスクは高くないよ。現実にはそれを守れない人ばかりだからこんな結果になってる訳だけど」
ひぃなは頷き、すぐに自分のスマホを取り出して連絡を取った。
私はスケジュールアプリを立ち上げ、1日の予定を空けるためにパズルのように調整をどうするか考えた。
「今度の日曜日に相模原の方に行くのはどうかって」
意外と早くひぃなが顔を上げた。
その行き先を聞いて津野さんたちが前もって考えていたことが分かる。
「相模原って山の方だよね」と県内の地理に疎い私が尋ねると、ひぃなが手元の紙に県の地図を書いて教えてくれた。
女子中学生が少し遠出をするなら普通は横浜を考える。
観光地なら鎌倉や湘南などが浮かぶだろう。
あえて自然豊かな場所を提案してきたのは私に気を使ってくれたからだと思う。
「私はOKだけど、ひぃなは日焼け対策は平気なの?」
「頑張る」とひぃなはこのお出掛けに前向きのようだ。
誰が参加するかの情報だけしっかり聞いておいてと頼み、あとはひぃなに任せる。
彼女は津野さんたちとのやり取りと並行して宇野さんたちを誘う連絡も取り始めた。
その様子を眺めながら、私は電話を掛けた。
「これって誰が主導してるの? 川端さんじゃないよね?」
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・3年1組。NPO法人F-SASの共同代表。東京オリンピック代表内定の
日々木陽稲・・・3年1組。学級委員。この春から可恋と一緒に暮らしている。一時期可恋の母親の陽子先生が帰宅することもあったが最近はまた感染を警戒して滅多に帰らなくなった。
安藤純・・・3年2組。陽稲の幼なじみで競泳選手。この年代ではトップクラスの実力を誇り、推薦での高校進学を目指していた。
津野
川端さくら・・・3年1組。心花グループの一員。
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