第18話 令和元年5月24日(金)「モデル」高木すみれ

「暑いね」という言葉が教室に飛び交っている。

 じっとしていても汗が噴き出すような暑さになってきた。

 あたしは夏服の半袖シャツを着てきたので少しはマシ。

 その代わり、二の腕のお肉のたるみが《いやーんな感じ》で、誰もあたしのことなんて気にしていないと分かっていても、ついつい両手で押さえて隠そうとしてしまう。

 腕を組むような感じだから余計に暑くなっちゃう。


 一緒にいる森尾さんと伊東さんは長袖のまま。

 暑そうに机に突っ伏している。

 ちょっとだらけすぎ。

 いくら暑いからといってこれじゃあね……。

 これだからオタクは女子力低いって言われるんだよ。


 教室内を見回すと、暑い暑いと言いながらも他の女子たちはそれなりにシャキッとしている。

 机の上に座り、足を広げている笠井さんは……あれはあれで狙ってる感じだしね。


 みんなの女子力の高さに呆れていると、日野さんと目が合った。

 まったく暑さを感じていないような涼やかな顔つき。

 その日野さんに手招きされ、あたしはふらふらとそちらへ向かう。


「暑いですね」というあたしの挨拶に、「暑いよねー」と日野さんの前に座る日々木さんが同意してくれる。

 日野さんは半袖だけど二の腕にはしっかりと筋肉がついて、たるみなんて全く感じさせない。

 日々木さんは長袖姿で下敷きを団扇代わりにパタパタさせている。


「暑い方が好きだから」と背筋をピンと伸ばした日野さんが微笑む。

 ほんと絵になるよ、この人。日々木さんの妖精のような愛らしさも魅力的だけど、日野さんの凛とした気品の高さも捨てがたい。

 最近あたしはこのふたりの絵ばかり描いている。

 あたしの芸術家魂に火をつけたふたりだ。


「高木さんって……」と日野さんが声のトーンを落として言った。

 聞き漏らさないようにあたしが近付くと、「インターネットに詳しい?」と訊かれた。

 ひそひそと話すような内容だとは思わなかったものの、日野さんに合わせて小声で「詳しいってほどじゃないですよ」と答える。


「詳しい知り合いっている? 信頼できる人で」


「そうですね……あたしの叔母はそれなりに詳しいと思いますよ。知り合いも多いので、たいていのことは分かるんじゃないでしょうか」


「ちょっと相談したいことがあるんだけど」


 日野さんの様子を見ると、ここでは話せない相談のようだ。

 どこか人気のない場所、あるいは学校のすぐ近くにある日野さんの自宅が思い浮かんだけど、あたしはこれはちょうど良い機会だと思った。


「もし良かったら、うちに来ませんか? 実はあたしもお願いしたいことがありまして……」


「お願い?」と日野さんか首を傾げる。


「あのですね……ここだけの話なんですけど、あたし、おふたりの絵を描いていまして……」


「え? どんなの?」と日々木さんが食いついてきた。

 そういえば日々木さんとはノートのコピーのことを他のクラスの生徒たちに知らせて回った時に話す機会があって、つい絵のことをペラペラと話してしまった。

 彼女が聞き上手なので思いの丈を熱く語り過ぎてしまい、後で猛烈に反省した。


「スケブにデッサンをですね、色々と描いたりしています」と説明すると「見たい」と言ってくれた。

 一方、日野さんは冷静にあたしのお願いの続きを促す。


「おふたりにモデルをお願いしたいのです」とあたしが思い切って言うと、「やるよ!」と日々木さんが即答してくれた。

 あたしは感激して「ありがとうございます。ありがとうございます」と両手を合わせてこの女神様に感謝の祈りを捧げる。

「大げさだよ」と日々木さんは笑うけど、あたしは天にも昇る心地だった。

 だって、あの日々木さんがモデルを引き受けてくれたのだから。


「可恋もやろうよ」と日々木さんが日野さんに言ってくれる。

 あたしは日々木教の信者として一生ついていこうと心に誓った。「わたしも服のデッサンを描いたりするんだけど、なかなか上達しないの。高木さん、コツとか教えてね」という日々木さんに「あたしの持てる技術すべて差し上げます!」とかなり本気で答えた。


 乗り気になってくれた日々木さんを見て、仕方ないなあという顔で日野さんが「私もやるよ」と言ってくれた。

「ヌードじゃないよね?」と続けた日野さんの言葉にあたしは固まってしまう。

「ヌードじゃないです」の一言がとっさに出て来なかった。

 心のどこかでそれを期待していたからかもしれない。


 しどろもどろになるあたしに対して、「え! ヌードなの?」と日々木さんが驚き、日野さんが「声が大きい」とたしなめる。


 いくら空気を読むのが苦手なオタクでも、いま空気が激変したことには気付く。

 折角、モデルを引き受けてくれたのに。

 ヌードなんて無理に決まっているのに。

 なんであたしはダメなんだ。

 俯き、唇を噛む。

 コミュ力のあるオタクなんて自称していても、現実はこれだ。

 あたしは後悔の波に押しつぶされそうになって、泣かないようにするのが精一杯だった。


「わたしはヌードでもいいよ」


 日々木さんがいたわるように声を掛けてくれる。

「ひぃな……」と日野さんが心配そうに呟くけど、「高木さんがどれほど絵のことを真剣に想っているか伝わったから。高木さんが必要だと思うのなら、わたしは平気」と日々木さんはキッパリと言った。


 あたしは思わず顔を上げ、日々木さんの柔らかな笑顔を見つめる。


「可恋は脱がなくていいから」と言った日々木さんがあたしを見て「いいよね?」と確認する。

 頷くと、「だって」と日野さんに笑い掛けている。


 困った顔の日野さんに、「ファッションモデルがヌードを恥ずかしがってちゃいけないんだよ」と日々木さんが指を立てて教える。


「ひぃながなりたいのはファッションモデルじゃなくてファッションデザイナーでしょ」という日野さんの言葉にも「似たようなものよ」とカラカラと笑って答える。


 日野さんはわざとらしく大きなため息をついて、「モデルはちゃんとします。ヌードうんぬんはその場の状況次第ってことで」と引き受けてくれた。

 あたしは「ありがとうございます。ありがとうございます」と何度も頭を下げた。

 一時はモデルそのものが断られると思ったのに、こんなことになるなんて。

 こらえていた涙がボロボロと零れ、ハンカチを取り出してそれを拭う。


「急だけど、明日でいい?」


 あたしが落ち着くのを待って、日野さんがあたしと日々木さんにそう確認した。

 確かに、急だ。

 驚いていると、「もうすぐ生理なの」とサラリと説明する。

 この土日を逃すと、次の週末はタイミング的にNGになりそう。

 そうなるとモデルの件はかなり先になってしまうし、元々は日野さんの相談に便乗したお願いだった。

 面倒事は早く済ませたいといった雰囲気も日野さんから伝わってくる。


 思えば、あたしの方も明日が良かった。

 週末は両親のどちらかは家にいることが多いけど明日は法事があって揃って外出する。

 弟さえ追い出せば問題ない。

 部屋の片付けだけは帰ったら速攻でしないとだけど。


「明日で大丈夫です」とあたしは答えた。

 日々木さんも頷いて、集合時間などを決め、あたしは自分の席に戻る。

 いろんな気持ちが渦巻く。

 念願だったモデルを引き受けてもらった感謝、あたしの絵に描ける想いを理解してもらえた喜び、どうやってふたりに伝えようか思い悩んでいたことからの解放感、ちゃんと描けるのかといった不安。

 それでも頭の中を占めていくのは、どんな絵を描きたいか、どんなポーズを取ってもらうかという明日への期待だった。

 あたしは授業そっちのけで、そればかり考えていた。

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