第363話 令和2年5月3日(日)「悔恨」近藤未来

 虫の知らせなんてものは信じていない。

 夜になっても蒸し暑さを感じたからというのは後付けの理由だったかもしれない。

 私は自分の部屋の引き戸を開けた。


 悲鳴が喉元まで出かかった。

 そこに、ほとんど幽霊のような顔をした亜砂美が突っ立っていたからだ。


「どうしたの、顔が真っ青じゃない」


 私は動揺を隠すために怒鳴るような勢いで問い質した。

 焦点がぼやけていた亜砂美の目がようやく私を捉える。


「ほら、中に入りなさい」と私より長身の亜砂美の手を取り、部屋の中に引き入れた。


 彼女は逆らうことなくフラフラとついて歩く。

 亜砂美と初めて会った頃のことを思い出す。

 まだ小学生だった彼女はいつも心ここにあらずといった顔をしていた。

 両親が離婚したばかりでショックを受けていたのだろう。

 その後、少しずつ自分を取り戻していった。

 あれから数年が経ち、最近はそんな素振りがなかったのに何があったのか。


「それでどうしたの? ちゃんと話しなさい」


 私は彼女の目を見つめ、口を開くのをじっと待つ。

 茫然自失といった様子の亜砂美にしばらくは何の変化もなかった。

 それが10分ほど経って、突然声を上げて泣き始めた。


「あの女が……」


 泣きながらかすれる声で私に伝えようとする。

 私は声を出さずに頷いて続きを促す。


「……私を、連れ戻すって」


 そこまで言って亜砂美は私に抱きついてきた。

 私の左肩に顔を埋めたので、彼女の長い髪が私の顔に触れる。

 いまは私と同じシャンプーを使っているのに、なぜか亜砂美の髪の方が良い香りに感じる。

 私も彼女の身体に手を回し、その背中をさすってあげた。


 落ち着くまでにかなりの時間を要した。

 立ちっぱなしで足が疲れたほどだ。

 彼女は大柄だし、私に体重を掛けていたというのもある。

 いつもだったらキツく文句を言うところだが、さすがにいまは我慢した。


「少しは落ち着いた?」


 絨毯の上にふたりで腰を下ろした。

 話の前に何か飲み物でもと思ったが、台所へ行こうとした私の部屋着の裾を亜砂美はつかんで離そうとしなかった。

 仕方がないので先に話を聞くことにした。


 泣き止んだ亜砂美は不安そうに頷く。

 彼女は大人っぽいが、いまは年相応かもっと幼く見える。


「電話が掛かってきたんです。近いうちに迎えに行くからって……」


 私は自分の顔が強張っていることを自覚する。

 息を潜め、奥歯を噛み締めながら亜砂美の話の続きを聞いた。


「いま一緒に暮らしている男の人が、娘がいると聞いて引き取りたいって言い出したそうです。急ぐのは10万円支給の話があるからみたいです」


「ああ」と声が漏れてしまう。


 彼女の母親は一応働いてはいたが、男と遊ぶことを優先し、生活費には雀の涙程度しか残さなかった。

 降って湧いたようなお金に執着するのは予想すべきだっただろう。


「その相手の男ってどんな人か分かる?」


「何かビジネスをしているって言っていましたが、あの女の言う事だから……」


 亜砂美の母親は顔立ちやスタイルはひと目を引くレベルだ。

 だが、少しつき合えば彼女のだらしなさが見えてくる。

 それを知った上でつき合う男なんてろくなものじゃないだろう。

 本当に誠意があるのなら母親とともに我が家を訪れるのが筋だ。

 とはいえ正式に養女にした訳ではないので親権は向こうにある。


「お祖母様に相談するしかないでしょう。話し合いで済めばいいけど、それが無理なら施設に避難することを考えなければいけないわね」


 亜砂美にとってはようやく手に入れた平穏な暮らしだ。

 貧しく、いつどんな危険に遭うか分からない怯えた暮らしからやっと抜け出せたのに……。


 亜砂美は思い詰めた表情で私の言葉を聞いた。

 これまで何度も覚悟をしてきたのだろう。

 本当にギリギリの生活が続いていたのだから。

 私は己の精神の安定と欲望のために彼女を利用した。

 その見返りとしてわずかばかりの施しを与えた。

 今回彼女を引き取ったことは、儚い希望を与えたに過ぎないと思い知った。


 私は胸がズキズキと痛んだ。

 それが彼女の痛みに比べれば些細なものだとしても、歯を食いしばらなければ耐えられないものだった。。


 私は座ったまま彼女の身体を抱き寄せる。

 肉体という枷があるから様々な不幸を呼び込むのだ。

 いっそ、ふたりで……。


「お姉様」と呼ぶ声が私を現実に引き戻す。


 黙り込んだ私を心配したようだった。

 私は息を吐き、抱き締めた腕に力を込めた。


「お祖母様に相談しましょう。あとのことはそれからよ」


 お祖母様はすでに就寝の準備を整えていた。

 常であれば話は明日になさいと言われただろうが、私たちの顔を見て部屋に招き入れてくれた。

 お祖母様は敷かれた布団の横、畳の上に正座をする。

 私と亜砂美もその正面に正座してお祖母様と向き合った。


 亜砂美が私にしたのと同じ話をお祖母様に語った。

 普段と変わらぬ表情で聞いていたお祖母様は聞き終わると「そうですか」と穏やかな声を発した。

 そして、すっと目を細め、「亜砂美さん、あなたはもう近藤家の身内です。心配することはありません」と口にした。


 亜砂美は感極まった顔で声を出さずに泣いていた。

 それを横目で見ながら、私は「大丈夫なのでしょうか」と尋ねずにはいられなかった。


 お祖母様は私に視線を向けた。

 決して睨んだ訳ではない。

 それなのに小柄なお祖母様の身体が大きく見えた。

 私はその重圧に耐えるように唾をゴクリと飲み込む。


「亜砂美さんを引き取るという話が出てから、お世話になっている弁護士の方と協議を続けてきました。今回のような事態への対応も考えています」


 目を輝かせて喜ぶ亜砂美の隣りで、私は殴られたかのような衝撃を受けていた。

 亜砂美の話を聞いた時よりもショックは大きかったかもしれない。

 賢しらに亜砂美の保護者を気取っていたところで、子どもの私にできることなどほとんどない。

 それを突きつけられた気分だった。


 厳格で、堅物で、時代遅れだと祖母のことを内心で罵っていた。

 その大嫌いな祖母に頼らざるをえない無力さ。

 亜砂美のことを安心するよりも自分のプライドが傷つけられた痛みに悶えそうになってしまう。


 私は声を絞り出して「ありがとうございます」と頭を下げた。

 祖母の目は私の心の裡を見抜いているだろう。

 それでも決して何も言わない。

 それが無性に悔しかった。




††††† 登場人物紹介 †††††


近藤未来・・・高校1年生。両親が離婚後に母方の祖父母に引き取られた。厳しい祖父母に反発し、一刻も早くこの家を出たいと望んでいる。


久藤亜砂美・・・中学2年生。両親が離婚後、母とともにボロアパートで生活していた。極度の貧困と母の自堕落な性格に嫌気が差していたが、身の危険を感じるようになって未来に助けを求めた。

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