第358話 令和2年4月28日(火)「早朝の公園」山田小鳩

 早朝の透徹した空気が私の心身に浸透していく感覚があった。

 爽快と叙述すべき青空なのに眺望する余裕がない。

 招集された公園にはまばらな人影があった。


「おはよう」「おはよう、小鳩ちゃん」


 先着していたジャージ姿の日野と日々木が挨拶の言葉を掛けてくれる。

 マスク姿ではあるが、ふたりの表情は明朗だ。

 もうひとり、安藤がこちらは無表情のまま私に会釈した。


 久闊を叙する間もなく、日々木と安藤はジョギングを始めた。

 日々木は「言ってくるね」と元気に手を振って駆け出す。

 日野は小さく手を振り返して見送り、やがて私に向き直った。


「これ」と紙袋を手渡された。


 中にはタブレットとポケットWi-Fiが入っている。

 日野が私に貸与してくれることになった。

 外出自粛が提唱されているが、日野は斯様に面会することを選択した。

 彼女こそ感染した際の危険性が高いはずだが、悠然と「心配しすぎても疲れるだけよ」と放言した。

 否、日野なら如何なる行動に如何ほどの危険が存するか理解しているのだろう。

 屋外で十分な距離を取りマスクを装着して会話することは問題ないという彼女の判断に反対する根拠を私は有さない。


「すぐに使えると思うから、今日も見学に来てね」


 私は昨日オンラインホームルームを見学した。

 スマホは所持しているが、回線環境が貧弱なのでこうしたインターネットを利用した制度には無知だった。

 そのため日野から協力を要請された時に二の足を踏んだ。

 そこで、彼女は以前使用していたタブレットを貸与する代償に生徒会としてオンライン上での活動をするように要求してきた。


 一斉休校以来、生徒会長として卒業式で送辞を述べた以外何もできずにいる。

 友人の乏しい私は一般生徒よりも校内の情報に暗い状態だ。

 休校中は己の無力さばかり露呈された。

 学校からの課題の内容は復習ばかりで、勉学への意欲は過去最大級に低下した。

 読書は図書館が休館中で本の入手もままならない。

 日野のように裕福であればと羨望したところで何かが好転する訳ではない。


 日野からは教科書を熟読するよう奨励された。

 彼女は「中学生レベルなら教科書を読めばそれで十分でしょ。高校生レベルなら参考書が欲しくなるけど」と公言する。

 定期テストの成績だけであれば私は学年一位を誇示しているが、総合的な学力という基準では日野と私には雲泥の差があると実感している。

 日々木は以前「可恋は普通の人の3倍の速度で勉強している」と喧伝していたが、「普通の人」ではなく成績優秀者の3倍ではないかと思い至るようになった。


 天才とは彼女のような者のことを呼称するのだろう。

 私とは別の惑星の住人だと見なすようになった。

 頭の作りが違うのだ。

 日野自身が否定しようとも、そう愚考せねば乱心してしまう。


「昨日の軋轢は大丈夫なのか?」と私は問い質す。


 昨日のオンラインホームルームでは問題点も顕露になった。

 級友のひとりが日野に反目した。

 教師が不在であれば今後も惹起しうる事態だ。

 日野は対策を周知すると話したが、それだけで対処が可能なのか疑問だった。

 他のクラスの担当者にとっては重い負担だろう。


「何か問題でも?」と日野は平然としている。


「物理的に暴力を振るわれる訳じゃないし、暴言なら録画して証拠も残せる。その辺りの対応はどうとでもなるわ」と言葉を続けた日野は、「インターネットやSNSの使い方を周知徹底することは、スマホの学校への持ち込みに関する問題提起の時に生徒会主導でやったじゃない」と説明した。


 大昔の出来事のような感覚だが、昨年の夏から秋にかけて生徒会はスマホを校内へ持ち込む許可を求めて活動した。

 日野の提案だったが、私が夢想していた生徒会活動を初めて体験することができた。

 あんな充実感を浴する日々が再訪するのだろうか。


「それよりも心配なのはいじめなのよ」と私の思考を切断するように日野が眉尻を上げた。


 私がその穏便ならぬ言葉に表情を強張らせる。

 休校中は仲が良いグループ内での会話だけが楽しみだという生徒は少なくない。

 そこで仲間外れにされると死活問題となってしまう。

 日野は「ヒマだとそういうことにうつつを抜かすのよ」と極言した。

 やりたいことがあってそれに熱中していたり、やるべきことがあって忙しかったりすれば他人に関与していられない。

 やることがないから、つまらないことに精を出すのだと日野は力説する。


「勉強した方が良いけど、他のことでも良いわ。ボクシングだとかダンスだとか好きなことに情熱を傾けていたら他人のことなんてどうでも良くなるでしょ」


 日野は実際に不良の麓をボクシングジムに通わせ、問題を起こした渡瀬のためにダンス部創部に奔走した。

 考えてみれば日野は不思議な存在だ。

 架空の物語では天才は孤高だったり他人との関与を忌避したりする。

 周囲の生徒たちを蔑視しても驚嘆しない。

 それなのに日野は自分の利益になりそうにないことにも積極的だ。


「日野はなぜ面倒事であっても関与することに躊躇しない?」


「ノブレス・オブリージュ――貴族の義務なんて言ったら格好つけすぎかしら」


 ニヤリと笑いながら彼女は即答する。

 私とは異なり自信が横溢している。

 朝陽の下、光輝燦爛な佇まいだ。


「それは母の教育の賜物だから丸っきりの嘘ではないけど、真意はもちろん別にあるわ」


 日野は流暢に弁舌を振るった。

 自分のことしか考えないごく一部の例外を除いて、家族や友人などの幸福や安全を守りたいという気持ちは誰もが持つ。

 そのために何ができるのか。

 迂遠なように見えて、関わり合いのある人たちを支援することが巡り巡って自分自身や守りたい人のプラスになるという。


「たいていの人にとって善意も悪意も表裏一体なのよ。扱い方次第で人の助けにもなるし人を傷つけることにもなる。残念なことに日本の学校教育ではその扱い方を習わないの。だけど、手取り足取り教えてあげれば喜んでみんなやってくれるわよ」


 日野は私が参加しなかった昨日のオンラインホームルーム後に開催されたWeb会議の内容を教示してくれた。

 各クラスの担当者は衝突が起きても前向きだったそうだ。

 これまで蓄積してきた日野への信頼や対処の具体策が不安を払拭した。

 日野の方が生徒会長に相応しいというこれまで何度も脳裏に浮かんだ念がまたも首をもたげる。

 そんな私の様子を見て、「あなたにはあなたにしかできない役割があるわ」と慰撫してくれた。


「いじめの件は生徒会でお願い。それとは別に3年生の学習支援も頼むからよろしくね」


 休校中に生徒会活動ができず、持て余していた感情に道筋をつけてもらった。

 生徒会長として何かやらねばと焦慮していたが、斯様にやるべきことを提示されるとこれまでを挽回する勢いで頑張ろうという気持ちになる。

 大方オンラインホームルームの担当者もそんな胸中を日野に利用されたのだろう。


「我が名に懸けて全力を尽くす」


 私は大仰に首肯する。

 日野の目的が利己的なものだとしても、それが全校生徒の利益に波及するのならば否応はない。


 ちょうど日々木が公園を一周して戻って来るのが視野に入った。

 歩くような速さにもかかわらず少し息が上がっている。


「今度は私が走ってくるね」と日野は右手を挙げ軽快に出発した。


 全力疾走をしている訳でもないのに、見る間に姿が小さくなる。

 一方、日々木はなかなかたどり着かない。


「小鳩ちゃんも走らない?」


 日々木が到着した時には日野は視界から消失していた。

 私は日々木の勧誘に苦い顔をした。

 私の意図を察知した日々木は「じゃあ歩かない?」と提案した。

 それくらいならと思い、私は頷く。


 日野を相手にすると私も全力で対峙する必要がある。

 後れを取るまいと歯を食いしばる。

 日々木相手ならば肩の力が抜ける。

 彼女には天使の様な癒やしの力と、圧倒的に高いコミュニケーション能力がある。


「天気が良いと公園の人出が増えるから、こんな早朝じゃないと走れないのよ」


 私は家に籠もりきりだったので、こんなに日差しを浴びたのはいつ以来だろう。

 外出時は寒さを感じて厚着をしてきたが、歩くと少し暑さを感じた。


「そろそろ紫外線がキツくなってきたから、わたしは朝じゃないとダメなんだけどね」


 日々木を挟んで私と安藤が並んで歩く。

 1年生の時によくあった光景だ。

 当時も日々木がひとりで喋っていた。


「都古ちゃんとは同じクラスになれたのに、純ちゃんや小鳩ちゃんと離れて寂しいな」


「日野がいるじゃない」と私がツッコむと、日々木はエヘヘと可愛く笑った。


「でもね、可恋は焦っているのよ。本人も自覚はしているみたい。登校できないかもしれないからね。ただ、可恋が自覚している以上に焦躁しているように見えるの」


 日々木は心配そうというより、日野のことを更に高いところから見守るように言った。

 その様子に私は胸を衝かれる。

 これまで日々木のことはライバル視してこなかった。

 女の子らしい優しさや包容力ばかり目にしていた。

 しかし、日野のいちばん近いところにいるのが彼女だ。

 日野の影響を受けないはずはない。


 それでも、これまでは日々木らしさを失うことはなかった。

 いまだってそうだ。

 日々木らしさ、彼女の良いところを失うことなく成長しているように見える。


「可恋はああ見えて結構繊細なの。昨日だって偉そうって言われて落ち込んでいたのよ。わたしも津野さんのことをよく知らないからうまく間に入れなかったけど……」


 日々木は眉間に皺を寄せた。

 だが、すぐに笑顔を見せ、「小鳩ちゃんも可恋を支えてあげてね」と口にした。


「日々木は日野を特別だと思う?」


「えー、そりゃあ可恋はわたしにとって特別な存在だよ」と日々木は照れながら答える。


「ごめん、そうじゃなくて、日野は特別な才能の持ち主だって思うかって意味」と私が即座に訂正すると、「うーん、可恋が特別な才能の持ち主なのは間違いないけど、それはみんなそうじゃない?」と戸惑いながら日々木は返答した。


 日々木も特別だからそう思えるのかもしれない。

 すぐ隣りを歩く私と身長の変わらない少女がとても大きく見えた。

 とても遠くに見えた。

 然れど日野の時と同じように諦めてしまっていいのだろうか。

 別世界に住む人間だと、目標にしても仕方がない存在だと思ってしまっても……。

 私は結論が出せないまま徐々に人の気配が増していく公園を歩く。

 その足取りが重いのか軽いのかも自分ではよく分からなかった。




††††† 登場人物紹介 †††††


山田小鳩・・・中学3年生。生徒会長。垢抜けない容貌だったが1年生の時クラスメイトの陽稲に手ほどきを受け見違えるほど見た目が良くなった。学業は優秀だが、自信やコミュ力は不足気味。


日野可恋・・・中学3年生。1年の3学期に転校してきた。陽稲と仲良くなってからはクラス、生徒会、学校内の改善に手を貸している。


日々木陽稲・・・中学3年生。ロシア系の血を引く日本人離れした美少女。コミュ力の高さも武器。ニコニコと微笑んでいるだけの存在と思われがちだが内面は日々成長中。ただし、身長は伸びていない。


安藤純・・・中学3年生。全国レベルの競泳選手だが現在は自宅で自主トレに励んでいる。スポーツ推薦が厳しい現状なので勉強するように陽稲から言われているが遅々として進んでいない。

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