第359話 令和2年4月29日(水)「ナイフ」宮川亜季

 あれは3月の末、登校日が終わった直後のことだ。

 わたしはアサミに呼び出されて待ち合わせ場所に出掛けた。

 うらぶれた人通りの少ない場所で、夜になっても灯りの点いた家がぽつりぽつりとある程度。

 だから、よくグループのメンバーで集まっていた。

 休校中はアサミが忙しいと言って招集をかけることはなくなったが、たまにここでマツリたちと会っていた。


 まだ明るい時間だった。

 すでにマツリは来ていた。

 最近、化粧の動画ばっか見ていると言う通りかなりケバケバしい顔だ。

 元が元だし、まあ頑張れよって感じでわたしは見ていた。

 同じソフトテニス部なので一緒にいる時間は長いが、一緒にいて楽しい相手じゃない。

 自分のことは棚に上げて他人の悪口ばかり言っている子という認識だった。


 次に姿を現したのはハルカだった。

 いつもはアサミと一緒に来ることが多いので、ひとりでやって来たのは珍しい。

 それに他の子たちより先に来るのもあまり記憶にない。

 わたしはハルカが大の苦手だ。

 彼女はグループのメンバーだけど、アサミ以外と話そうとしない。

 そして、何よりその暴力的なところが……。


 無言で近づいてきたハルカはいきなりマツリのお腹を殴った。

 なんの躊躇いもなく、思い切り。

 ぎゃっ! という何かが押しつぶされたような悲鳴を上げて、マツリはお腹を押さえてしゃがみ込んだ。

 右手を地面に着き、地べたに腹ばいに倒れ込むのをなんとかこらえていた。

 その顔はわたしからは見えない。

 言葉にならない呻き声が聞こえるだけだった。


 わたしは身がすくみ、逃げ出せなかった。

 持っていたポーチをお腹に当て、それを両手で押さえてお腹を守る。

 ハルカは無言でマツリの右手を軽く蹴った。

 支えを失ったマツリは額を地面に着けた。


 それを確認したハルカはこちらを見た。

 つまらなそうな顔付き。

 キレた時のハルカは、漏らしてしまうんじゃないかと思うほど怖い。

 いまはそんな感じはしない。

 それでもわたしの身体は震えていた。


「……な、なんで」とわたしの口からかろうじて言葉が出た。


「裏でいろいろしてるそうじゃん」


 その言葉で背筋が凍りついた。

 裏アカのことがバレた!


「ご、ごめん! 謝るから!」と叫んだわたしの額をハルカが鷲づかみにした。


 大柄だけど所詮は女だと侮っていたかもしれない。

 ハルカの握力は凄まじかった。

 ギリギリと締め付けられ、頭が割れるように痛い。

 痛すぎて悲鳴すら上げられない。

 何も考えられない中、涙か鼻水か涎か分からないが顔から液体が飛び散るのを感じた。


 ジリジリと身体が沈み込んでいく。

 立っていられない。

 両手で必死にハルカの右手をつかむが、その力はまったく弱まることはない。


 ――小さい頃に受けた暴力がフラッシュバックする。


 わたしの口から勝手に悲鳴が飛び出した。

 それを聞いてハルカはわたしを地面に投げ飛ばした。

 身体を打ちつけられた痛みより、解放された安堵感が湧き上がる。

 しかし、ズキズキした頭の痛みは治まらない。


 ハルカはわたしの頭を踏みつけた。

 それほど体重はかけていないようで、さほど痛みはない。

 おそらく屈辱を与えているのだろうということはなんとなく理解できた。


「今回は警告だってさ。次は二度と表を歩けなくしてやるって」


 それだけ言ってハルカは歩き去った。

 一度もこちらを振り返らずに。


 ハルカがいなくなってしばらくして、先に起き上がったのはマツリだ。

 彼女は「いてぇ……」と呻きながら、お腹を押さえながら近くの段差のところに腰掛けた。

 ハルカが戻って来る気配がないのを確認して、わたしも身を起こす。


「絶対、アイツの仕業だ!」とマツリは顔を歪めた。


 グループは8人の大所帯だが、裏アカはアサミ、ハルカ、マホを除いた5人で作った。

 LINEだと間違う危険があったのでわざわざ別のSNSを利用していた。

 トラブルがあってユーカをハブって以降、マツリとわたしのふたりだけが利用している状況だった。


 ユーカへの罵詈雑言を並べ立てるマツリに、「ユーカだったらもっと早くチクったんじゃ」と反論したが、「絶対アイツに決まってる」とマツリは譲らない。

 わたしとしては誰が密告したかはどうでもよかった。


「復讐してやる!」と喚くマツリを冷ややかに見つめてわたしは立ち上がる。


「待てよ! 今度はアイツがアサミたちの悪口を言ってたってチクろうぜ」


「証拠はどうするの?」


 前回ユーカをチクった時は録音という決定的な証拠があった。

 アサミはバカじゃない。

 このタイミングで密告しても簡単には信じないだろう。


「証拠なんかどうにでもなるだろ。ふたりで口裏合わせれば」


「アサミは利用されたと知ったらそれこそぶち切れるよ。わたしはやめとく。裏アカも消すから」


 わたしはマツリを置いて歩き始めた。

 アサミとハルカは向こう側の人間だ。

 わたしやマツリはからかったり、馬鹿にしたり、無視したりはしてもそれ以上はしない。

 こんなのは誰でもやっていることだ。

 だけど、アサミやハルカはマジでヤバい。

 犯罪だって平気でやりかねない。

 そんな連中を敵に回したくはなかった。




 それから1ヶ月が経った。

 グループ内で会う機会はめっきり減った。

 それでもLINEグループでのやり取りは続いている。

 それしかやることがないのだからしょうがない。


 クラスが別れたので新しいグループができていれば、こんなグループからはさっさと離れたかった。

 しかし、始業式のあともずっと休校が続いている。

 1年生の間はこのグループ内がすべてという状況だった。

 ソフトテニス部にも入っているが、そこでもマツリやユーカという同じグループメンバーと一緒に行動していた。

 小学生時代の友だちはいるにはいるがかなり疎遠になっている。

 もう関わり合いたくないと思っていても、このグループから追い出されたらまったく会話すらできなくなってしまう。


 とはいえ刺激が少ないせいかLINEで盛り上がることもあまりない。

 たまにテレビや動画の話題で会話が弾む程度だ。

 疑心暗鬼のせいか、どうしても当たり障りのない言い方をしてしまう。

 それはわたしだけではないようで、空気を読んでいないのはトモコくらいだろう。


 わたしは寝転がっていたベッドから立ち上がる。

 枕元に置いてあった小さなナイフを胸元のポケットに入れる。

 片手にスマホを握ったまま自分の部屋のドアの鍵をそっと音を立てずに開ける。

 右手で胸ポケットを押さえたまま、静かに廊下に出る。

 息を潜め、辺りをうかがいながらトイレに入る。

 鍵を閉め、ふーっと息を吐く。


 用を済ませ、水を流したあと、しばらく待ってから鍵を開けトイレから出る。

 もちろん誰もいないことを確認してからだ。

 いつでもナイフを取り出せるように意識しつつ自分の部屋に戻る。

 自分の部屋の鍵を閉めて、ようやくホッとする。

 こんな生活がずっと続いている。


 わたしは幼い頃に父親から暴力を受けた。

 殴る蹴るの乱暴。

 その時、父はかなり酔っ払っていた。

 母はその場にいなかった。

 帰ってきた母が悲鳴を上げたほどわたしはボロボロだった。


 父はよく覚えていないと言ったが、謝りはした。

 その後二度と暴力を振るわれていないので、世間で言うような虐待ではないのかもしれない。

 しかし、心の傷は癒えなかった。

 父親とはギクシャクした関係がずっと続いている。


 母はわたしに「誰にも言っちゃダメよ」と言った。


 わたしには弟がいる。

 小さい頃は、両親への不満を弟にぶつけていた。

 その弟はいまやわたしより遥かに大柄で、力ではまったく敵わなくなった。


 父は在宅勤務で家にいて、弟も学校が休校で家にいる。

 母はパート勤務なので、昼は帰ってきて一緒に食事をするがそれ以外はずっと外出している。


 身の危険が迫っている訳ではないと頭では分かっている。

 だけど。


 わたしは胸ポケットからナイフを取り出し枕元に置く。

 こんなちっぽけなナイフひとつで身を守れるはずなどない。

 ハルカに暴力を振るわれた時もポーチに入れていた。

 たとえ取り出せたとしても火に油を注いだだけだっただろう。


 誰かに守って欲しい。

 それなのに、男の人は怖い。

 いまはアサミたちの機嫌を取るしかない。

 でも、アサミやハルカも恐ろしい。


 わたしの居場所はどこにもないのかな。




††††† 登場人物紹介 †††††


宮川亜季・・・中学2年生。1年の時、アサミグループのメンバーだった。ソフトテニス部所属。周りからおとなしいと思われている。


久藤亜砂美・・・中学2年生。1年の時、グループのリーダーだった。


小西遥・・・中学2年生。アサミの親友。しかし、休校以来会う機会が激減している。


内水魔法まほ・・・中学2年生。いじめが表沙汰になった時に首謀者扱いされた。それ以後アサミに目を掛けられている。


平林茉莉・・・中学2年生。1年の時、アサミグループのメンバーだった。ソフトテニス部所属。


鈴木優海香・・・中学2年生。1年の時、アサミグループのメンバーだった。ソフトテニス部所属。


尾形友子・・・中学2年生。1年の時、アサミグループのメンバーだった。情報通として知られる。


浅野スバル・・・中学2年生。1年の時、アサミグループのメンバーだった。

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