第627話 令和3年1月22日(金)「運命の朝」松田美咲

 運命の朝を迎えた。

 今日は志望校の推薦入試が行われる。

 わたしはこの日のために頑張ってきた。


 早起きの習慣もそのひとつだ。

 東京の志望校までは車で向かう。

 万が一に備えて時間には余裕を持って出発する予定だ。

 そのため年が明けてからは生活のリズムを完全に朝型に切り替えた。


 両親はプレッシャーを与えない範囲で気遣ってくれている。

 今日も普段と変わらない雰囲気の中で朝食を済ませた。

 わたしは制服に着替え支度を調える。

 優奈や彩花たちからもらったお守りを身につけ、最後に写真立てを見つめた。

 そこには友人たちと写った写真が飾られている。

 この学校に入学したことが間違いではなかったと証明するために、いまから試験に立ち向かうのだ。


「……必ず合格します」


 写真に向かってそう誓う。

 わたしは顔を上げて部屋を出た。


「おはようございます、お嬢様」


 玄関の門をくぐると、横付けされた黒塗りの乗用車の前に立った鹿取さんが柔らかな声で頭を下げた。

 彼女は長年我が家の運転手を務めている女性だ。

 母よりも高齢だと聞いている。

 あと数年で還暦を迎えるはずだ。

 顔は歳相応だが、身体を鍛えているせいか若々しく見える。

 立ち居振る舞いは洗練され、身だしなみも清潔感があり、超一流のホテルでも重宝されそうな人だ。


「おはようございます。今日はよろしくお願いします」とわたしも丁寧に頭を下げる。


 鹿取さんはわたしが生まれる前から松田家に仕えている。

 おそらく使用人の中でもいちばんの古株だろう。

 彼女が怒ったところを見たことがないくらい穏やかな人だが、どこか凛とした居住まいがあった。

 合気道を嗜んでいるそうで、昔から彼女の前では駄々をこねてはいけないと子どもながらに感じていた。


 後部座席のドアを開けてもらい、わたしは車に乗り込む。

 車のことには詳しくないのでベンツということくらいしか分からない。

 車内は暖かく、ゆったりしたシートに座るとわたしはフッと息を吐いた。


「それでは出発します」と運転席に乗り込んだ鹿取さんが告げた。


 周囲を確認した鹿取さんはほとんど振動を感じさせずに車を発進させる。

 彼女に任せておけば大丈夫。

 何度も下見をしたと聞いているし、運転の腕は一流だ。

 わたしは改めて持ち物を確認し、この時間をどう過ごすか考えた。


 試験開始ギリギリまで勉強に時間を割くというのももちろんありだろう。

 それが点数に繋がるかどうかはともかく、ほかの余計なことを考えずに済むというのが大きい。

 不安を感じて自分の力が発揮できない事態はもっとも避けなければならないことだ。


 一方、リラックスして本番に備えるという考え方もある。

 大事な時であっても集中力はそんなに長続きしないものだ。

 オンとオフを切り替え、試験中だけ高い集中力を保つことができればベストである。

 家庭教師からはそんなアドバイスを受けていた。

 これまで自分がやってきたことを信じ、試験本番は集中力の維持に努めた方がいいと。


 わたしは後者を選択し、車中での勉強を見送った。

 車窓に流れる景色を見て過ごすことも考えたが、もの思いにふけっていると不安が頭をもたげてくるかもしれない。


「鹿取さん、少しお話をしてもいいかしら?」


「差し支えありません、お嬢様」


「鹿取さんも受験を経験されたと思います。いかがでしたか?」


 中学受験をしなかったわたしにとってこれが初めての受験だ。

 習い事では大きな試験を受けたり、大勢の前で発表をしたりしたこともあるが、それらは失敗したとしても次の機会が巡ってくる。

 受験の成功失敗は本人が考えるほどその後の人生に影響を与えないかもしれないが、渦中の当人にとってはそんな風に考えられない。

 勉強はやるだけのことはやったが、不安や緊張を完全に克服することはできなかった。


「遠い昔のことですね」と笑った鹿取さんは、「自分が解けない問題はほかの受験生も簡単には解けないと思って臨んでいましたね」と語った。


「成績は良かったのですか?」


「そう見えないかもしれませんが、学生の頃は優秀だったのですよ」


 わたしは言葉に詰まる。

 彼女のことを優秀な人だと認識はしていたが、その学生時代を具体的に想像したことはなかった。

 運転手という職業からのバイアスがわたしの目を曇らせていたようだ。


 鹿取さんはわたしの様子に気づいたようだ。

 変わらぬ優しい声で「気にすることはありません。若いうちはそんなものです」と慰めた。

 そして、「誰もが様々な経験を積み重ねながら生きています。それが人生というものです。しかし、目の前のひとつひとつのことにどれだけ真剣に取り組んだかは人によって異なります。目先の結果よりも長い目で見ればそれが大きな差に繋がると私は思っています」と彼女の人生訓を教えてくれた。


「雇われ運転手が大層に語ってしまいましたね」と鹿取さんは照れるが、わたしの脳裏には友人たちの姿が浮かんでいた。


 必死にダンスにうち込んでいた彼女たちは満足した顔でダンス部を引退した。

 1年ほどの部活動だったが、やり遂げたという思いがあったのだろう。

 わたしもこれまで習い事や勉強など多くのことに挑んできた。

 その中であれほどの顔をしたことはあっただろうか。


「わたしは……」


 そう口を開いてから今日の試験に向けて努力してきた日々を思い返す。

 本格的に受験勉強を始めたのは昨春の一斉休校からだった。

 想定外の勉強以外の様々な不安が押し寄せる中で自分なりに全力は尽くしたと思う。

 無理をすればもっとできたかもしれないが、それを1年続けられたかは疑問だ。

 大切なことは今日まで失速することなく走り続けてきたことだろう。


「わたしはこの中学3年間を後悔することはありません」


 優奈と知り合った中1、激動だった中2、学級委員と勉強を両立させた中3。

 そのどれもがいまのわたしを形作っている。

 それぞれの体験があったからこそ、いま胸を張って試験に臨めるのだ。


「奥様も若い頃はそういうお顔をよくされました。さすが親子ですね」


「そうなのですか?」


「不妊治療に大層ご苦労されていらっしゃいました。それでも覚悟をもって挑み、ついにお嬢様をお迎えできたのですよ」


 いまの母は持病もあってどうしても弱々しいイメージがつきまとう。

 不妊治療は大変だったと話には聞くが、そんな凜々しい母の姿は父と鹿取さんくらいしか知らないかもしれない。

 わたしは胸に手を当て母の顔を思い浮かべる。


「間もなく到着します」と不意に鹿取さんが告げる。


 わたしは手を当ててまま大きく息を吐く。

 大丈夫だ、わたしならできる。

 そんな自信が湧いてくる。

 スーッと頭が冷静になり澄み渡る。

 いまならどんな問題だって解けそうだ。

 一刻も早く試験を受けたい。

 わたしはワクワクした気持ちで志望校に乗り込んだ。




††††† 登場人物紹介 †††††


松田美咲・・・中学3年生。資産家の娘。多様な経験を積ませるという両親の教育方針により中学までは公立に通っている。


笠井優奈・・・中学3年生。美咲の親友。ダンス部を創部し部長を務めた。


鹿取・・・松田家の運転手。若い頃は一流企業でOLとして働く傍ら、休日はレーサーとして活動していた。

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