令和元年9月

第118話 令和元年9月1日(日)「可恋のいじわる」日々木陽稲

 朝。

 目覚めると、可恋がわたしの髪を撫でていた。

 可恋の指先の感触が心地いい。

 いつもより近い距離だから、なんだか可恋に包まれているような気になる。


「目が覚めてるでしょ」とわたしの耳元で可恋が笑った。


 学校ではめったに見せない自然な笑顔。

 わたしはパッチリと目を開き、微笑みを返す。


 わたしが目覚めても可恋はわたしの髪をいじり続けた。

 こんな可恋は珍しい。

 可恋と親しくなる前は、彼女の寂しさや人恋しさが時折伝わってきた。

 いまは……しいて言えば不安だろうか。

 それを忘れたくて甘えたがっているように感じた。

 わたしはそっと手を伸ばし、可恋の頭を撫でてあげる。

 可恋はそれを受けて入れてくれる。

 わたしが「お返し」と言うと、可恋は「ありがとう」と囁いた。


 朝の支度を終えてジョギングに向かう。

 純ちゃんの家まではふたり並んで歩く。


「今日のお昼はわたしが作ってあげる」とわたしは意気込んで言った。


 昔のわたしとは違う。

 料理の腕も上がった。

 可恋のお手伝いはしているが、わたしが腕を振るう機会はこれまであまりなかった。

 可恋はちょっと疑わしそうな目でわたしを見て、「大丈夫かなあ」と不安がってみせる。


「知ってるでしょ。もう上手くできるようになったの」と自慢げに胸を張る。


「はい、はい。分かった、分かった。それじゃあ、頼むことにするよ」と、まるで子どもを宥めるように可恋が言う。


 それに構わず「何が食べたい?」と聞くと、「うーん……カップ麺?」と可恋がからかう。


「もー、真剣に答えてよ!」


「ごめん、ごめん。そうだね……北京ダックとか?」


 わたしは立ち止まって両手を腰に当て、「可恋のバカ!」と叫んだ。


「ごめん、謝るって。パッと思い付かなかったから、つい、からかっただけだって」


「すぐにからかうのは可恋の悪いところだと思う」とわたしが拗ねると、「そうだね、ひぃながあまりにも可愛いから出来心で……。これからは気を付けるよ」と謝ってくれるが、可恋の目は笑ったままだ。


 可恋は立ち止まったわたしの手を取り、「ほら」と言って歩き出す。

 わたしは手をギュッと握ったまま可恋について歩く。


「ひぃなは何が食べたい?」と可恋に聞かれ、わたしは考える。


 自分が作れて、作ったら自慢できて、美味しいと言ってもらえそうなものってなかなか難しい。


「作ることは考えなくていいから、単純に食べたいものを言ってみて」と言われ、「うーん……、そう……、オムレツ……、オムライスがいいかな」と頭に浮かんだ食べ物を挙げた。


「いいね。で、作れる?」と聞かれ、「無理」とだけ答えて口を閉ざす。


「オムレツの中のチキンライスはどう?」


「それなら作れそう」


「じゃあ、ひぃなはチキンライスと、あとは副菜で……野菜と鶏のスープを作ってくれる? オムライスの仕上げはわたしがするから」


 可恋の提案にわたしは頷いた。

 本当はひとりで作りたかったけど、少しだけなら可恋に手伝ってもらっても――これが本当に少しだけと言えるかどうかは別として――わたしの料理を食べてもらうことになるはずだ。




 ジョギングを終えたわたしは、純ちゃんと可恋のマンションに戻った。

 ダイニングで可恋のお母さんの陽子先生が新聞を読んでいた。


「おはようございます」と挨拶すると、手招きされた。


「おはよう、陽稲ちゃん。陽稲ちゃんがいると癒やされるわぁ」と近付いたわたしの頭を撫でる。


「可恋は可愛げがないからね。誰に似たんだか……」と陽子先生が嘆くので「可恋はとっても可愛いです!」と精一杯反論する。


 可恋の可愛さを熱弁した後、シャワーを浴び、キッチンで朝食作りだ。

 陽子先生の好みで朝は必ずパン。

 サラダを皿に盛り付け、食卓に運ぶ。


「今日は午前中は家で仕事をするから、可恋が帰ってきてからみんなで食べましょう」と陽子先生が言った。


 休日でもお仕事に出掛けることが多く、週の大半は可恋とすれ違いになる。

 そんな貴重な時間に、わたしが一緒にいることを気にしたこともあったけど、可恋も陽子先生もそういう気遣いは不要だと言う。

 ふたりとも言うべき時ははっきりと意思表示するタイプだから、余計な気を回さなくていいと言われた。


「お昼はわたしがメインで作るので、楽しみにしてくださいね」とわたしが微笑んで伝えると、「それは楽しみだわ」と喜んでくれた。


 陽子先生とお話しする時間はわたしにとっても貴重だ。

 今週、可恋が精神的に不調だったことを伝える。

 この前の週末、陽子先生の手伝いに行った影響だと可恋は話していた。


「あの子もまだまだ視野が狭いわね。中学生だから仕方ないことなんでしょうが」とわたしの話を聞いた陽子先生が苦笑する。


「そうなんですか?」


「確かに人生を大きく左右する出来事ではあったけど、それでもそれだけのことよ。人の生き死にに関係すること以外は、たいていはやり直しがきく。何がゴールなのか理解していればね」


 そう語る先生の顔はまさに教育者という感じだった。


「陽稲ちゃんはファッションデザイナーを目指しているのでしょう?」


「はい」と神妙な顔を頷く。


「ファッションデザイナーを目指すと言っても、そのゴールは自分の考えた服を多くの人に届けて喜んでもらいたいのか、華やかな舞台に立ち脚光を浴びたいのかで異なるわ。もちろん、両方を目指していいのよ。ただ、それが叶わない時に何をゴールとするかが重要なのよ」


 陽子先生の言葉はわたしにもよく分かった。

 わたしにだって欲はある。

 単純に服が好き、多くの人にわたしの服を着てもらいたいというだけでなく、名声だって欲しいし、お金だって欲しくない訳がない。

 ファッションデザイナー以外にだって、可恋のことや、家族のこと、友だちも含めてみんなで幸せに暮らしたいと思う。

 可恋は優先順位を決めて、限られた時間を割り当てている。

 いまのわたしはそんな優先順位なんて考えたこともないけど、いつかそういう時が来ることは覚悟している。

 たとえ一つの道が閉ざされても、自分に向き合ってゴールを見直すことができれば、違った道が見つけられるのかもと陽子先生の言葉から感じた。


「ゴールを決めるのは自分自身。それを見失わなければ、他人から不幸に見えたって幸せに生きられるわ。そう、命さえあればね」


 陽子先生はさらっと言ったが、その最後の言葉にわたしは歯を食いしばるような思いを感じた。




 可恋が帰ってきて、みんなで朝食だ。

 わたしは意識して重い空気を振り払う。

 いつもは先にシャワーを浴びる可恋が、母親を待たせるのは悪いと食事を優先した。


 朝食は可恋が事務的な報告をして、時々陽子先生が助言を与えるという感じだ。

 母子の会話っぽくはないけど、可恋は嬉しそうだ。

 母親のことを鬱陶しがる可恋も、こうして母親と相対するとじゃれつく子犬のように見えてしまう。

 わたしはそれが微笑ましかった。


 食事が終わると、陽子先生は自室に戻りお仕事、純ちゃんはスイミングスクールへ行った。

 可恋はシャワーの後、洗濯をサッと済ませてリビングのソファーに寝そべって読書を始めた。

 わたしは掃除に精を出す。

 別にわたしがやらなくても業者に頼むからと可恋は言うが、気持ちの問題だ。

 最後のお風呂掃除のついでにシャワーを浴びて着替える。


 エプロンを着ける傍ら、お姉ちゃんに連絡する。

 いつも頼ってばかりで悪いと思うものの、わたしはレシピ通りにしか作れないので頼らざるを得ない。

 材料を教えてもらい、それがあるかどうか可恋に確認する。

 作る手順をお姉ちゃんに教わり、それをメモに記す。


 まずはキッチンにわたし専用の踏み台を置く。

 これがないと作業が捗らない。

 しっかり手を洗い、材料を準備し、次に野菜用の樹脂製まな板を濡らしてから綺麗な布巾で拭く。

 その上で、タマネギ、キャベツ、ニンジンなどを適当な大きさに切っていく。

 タマネギを切るのは苦手だが、チキンライスにもスープにも入れるので頑張るしかない。

 野菜を切り終わるとまな板を洗って片付け、肉用のまな板を取り出す。

 可恋が鶏のスープにしたのは昨日鶏もも肉を買ったからだ。

 これも両方で使うので、スープ用には気持ち大きめにカットしておく。


 さて、調理の開始だ。

 この家のキッチンは広い。

 IHコンロは3口で大きく、可恋は「わたししか使わないのに贅沢すぎるよね」と言っていた。

 お姉ちゃんはもの凄く羨ましがっていた。

 調味料を計量して準備し、メモを再確認しておく。

 わたしは目分量なんてできないし、手順を忘れて調理中に慌てることもある。

 何ごとも準備は大切だ。


 フライパンを熱して油を入れる。

 いつの間にか背後に可恋が立っていた。

 わたしの手際をじっと見ている。

 試験のようで緊張するが、何かあったら助けてくれると思うと安心感もある。

 鶏肉とタマネギを入れると、ジューッとフライパンが音を立て、香ばしい匂いが漂ってきた。

 火が通ってきた辺りでケチャップを入れようとしたら、「火を弱めて」と可恋が口を出した。

 メモに書いてあったことを忘れていた。

 急いで火を弱め、それからケチャップやスープの素を入れてかき混ぜる。

 塩こしょうなどの調味料で味を調える。

 粗熱を取ったご飯を入れたボールに手を伸ばすと、可恋が持ってくれた。

 三人前なので結構な量だ。

 ご飯を入れて頑張って混ぜる。

 程よく混ざったところで火を止める。


「こっちは後やっておくから、ひぃなはスープを作って」と可恋は言ってわたしからフライパンを取った。


「うん」と頷き、わたしはスープの準備に取りかかる。


 鍋を火に掛け、最初にしょうがを炒める。

 次に、タマネギ、火が通ったら鶏肉を入れていく。

 他の野菜も入れてサッと炒め、お酒を加えた。

 アルコール分が飛んだら水を注ぐ。

 沸騰したらダシの素を入れて少し煮込み、味を見ながら塩こしょうを足す。

 可恋にも味見してもらって、オッケーが出たら小口に切ったネギをぱらりとふって完成だ。


 可恋はわたしがスープを作っている間に玉子の準備をしていた。

 下ごしらえした溶き卵をフライパンに入れて、オムレツを作る。

 それをチキンライスの載った皿に盛り付け、パカッと割ってケチャップをかけるとオムライスの完成だ。

 フライパンを軽々と扱う可恋の姿は惚れ惚れする。


 わたしは急いでテーブルを整え、スープを並べていく。

 陽子先生を呼んでいる間に、可恋はオムライスを並べていた。

 可恋はいつものように熱いお茶を淹れる。

 わたしと先生の分は冷たい麦茶だ。

 テーブルの真ん中には昨日の帰りがけに買っておいたリンドウの花を飾った。


 いつものように可恋と陽子先生は向かい合って座る。

 わたしは可恋の横の席に着く。

 いただきますと口を揃え、先生は「ご馳走ね」と微笑み、スプーンでオムライスを一口食べた。


「とても美味しいわ」と褒めてくれた。


「華菜さんのレシピは素晴らしいね」とオムライスを食べた可恋がお姉ちゃんを絶賛する。


 それは間違ってはないんだけど、わたしは「可恋のいじわる」と一言文句を言ってから食べ始めた。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・中学2年生。適当に作ると訳の分からないものができてしまうので、レシピ通りに作るように厳命されている。


日野可恋・・・中学2年生。名前の付いた料理より冷蔵庫の余り物で適当に作るのが得意。


日野陽子・・・可恋の母。某有名私立大学教授。本人曰く、一通りの料理は作れるそうだが、可恋はレトルト買って来て作ったことにしているのではと疑っている。


安藤純・・・中学2年生。主に力仕事的なお手伝いしかできない。


日々木華菜・・・高校1年生。レシピの探求に余念がない。のだが、夏休みは宿題の影響であまり新しいレシピを増やせなかったと嘆いている。

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