第659話 令和3年2月23日(火)「信者」保科美空
「どうしてわたしはそこにいなかったのぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
心の底から湧き上がる魂の叫びをあたしは聞いた。
両手の拳を握り締め、バトルアニメだったら戦闘力がグングン上がっていくシーンみたいだ。
声の主、
道場内にいる中高生は若干……どころかかなり引いている。
「日野さんの勇姿を見れなかっただなんて、わたしは、わたしは……信者失格だ!」
信者なんだ……って思っていると顔を上げた神瀬さんと目が合った。
彼女とは学年はひとつしか違わないが、もの凄い圧を感じてしまう。
思わず1歩下がってしまったが、神瀬さんはグイグイとこちらに身を寄せてきた。
「どうして教えてくれなかったの! ……いえ、ごめんなさい。そうよね、そんな義理はないよね。うちの親だってご迷惑を掛けるからって教えてくれなかったのだし」
可哀想なくらいに落ち込んでいる。
かと言って、この状況で何と声を掛けていいものか分からない。
「形の試合ではなく、組み手でしたから……」と慰めにもならない言葉を口にすると、「それが貴重なのよ! 次はいつ目にすることができるか分からないのよ。もちろん、日野さんの形も生で見たくて見たくて夢に見るほどなんだけど……」と彼女は祈るように両手の指を組んだ。
そして、「映像は残っていないの?」と縋るように言った。
わたしは首を横に振る。
事前に撮影禁止の通達があったほどだから、そういう申し合わせをしていたのだろう。
「ああ! わたしもこの道場に移籍した方がいいのかもしれない。ねえ、どう思う?」
今日は祝日なので道場内にはそれなりの人数がいた。
突然現れた神瀬さんに呆気に取られみんな練習の手を休めていたが、いつの間にか再開していた。
彼女につかまったあたし以外は。
「休日だけ遠方から稽古に参加する人もいますよ。ただ日野さんは休日に顔を見せることは少ないですが」
うちの道場の師範代は女性への指導に定評があるという話で、関東一円に門下がいる。
最近はオンラインでの指導も行っているそうだ。
休日は普段あまり見かけない人が稽古に参加しに来ている。
「休日は部活があるからなあ……。今日は強引に抜け出してきたけど」
神瀬さんは大学付属の中高一貫校の空手部所属だ。
伝統があり、かなりの強豪校である。
実力者だから少々の我がままは許されているのかもしれないが、休日に毎回ここに来るのは無理があると思う。
「いっそキャシーさんみたいにこの道場にホームステイするとか……。いや、本命は日野さんと同居」とまで言ったところでキャーと黄色い声を上げてあたしの肩をバンバン叩いた。
どうやら照れているようだ。
あたしも鍛えているが、彼女はあたしより大柄なので結構痛い。
体幹のトレーニングくらいのつもりで、バランスを崩さないように耐える。
「絶対に親が許してくれないのよね。今日だって『なんで教えてくれなかったのよ!』って怒って渾身のハイキックを繰り出したのに簡単に返されちゃったから……」
神瀬さんは形の選手ではあるが体重が乗ったハイキックは破壊力がありそうだ。
あたしでも受けきれるかどうか分からない。
だが、彼女の家は空手道場を経営していて両親揃って経験者だと聞いている。
実力行使は難しいようだ。
「
自分が事前の連絡もなしにやって来て練習の妨げになったことは棚に上げ、神瀬さんはあたしに顔を近づけて情報を得ようとした。
あたしは名前を覚えてもらっていたことが嬉しくてペラペラと話し始めた。
「強かったです。特に大島彼方さんはキャシーさん相手に連戦連勝でした」
あたしも昨日はふたりと手合わせをさせてもらった。
大島さんは何をやってもこちらの手の内を読まれているようで、まったく手も足も出なかった。
小谷埜さんは攻めが鋭く、少々不利な体勢でも強引に仕掛けてくる人だ。
うちの道場は基本重視なので、小谷埜さんのような実戦的な空手との対戦は有意義だった。
実際の試合ではああいうタイプの人は多い。
だが、最近は試合の機会があまりないのでいい経験になった。
もう少し粘れたら良かったのだけど……。
「そういうことも大切だけど、ほら、日野さんの魅力に目がくらむとかそういう可能性って高いじゃない。あれだけ素敵なのだから。……大丈夫だった?」
「……」
あたしが言葉に詰まると、目をキラリと光らせ「何かあったのね!」と詰め寄ってくる。
組み手の対戦の時よりも迫力があって怖い。
「大島さんが日野さんを歳上だと思って『お姉様』って呼んだだけですよ」
慌てて弁解すると、「お姉様!」と神瀬さんは大声を出した。
至近距離で言われたので耳鳴りがするほどだ。
「それで、日野さんはどんな反応だったの?」
神瀬さんに早口でまくし立てられ、あたしは「苦笑していましたよ」と言うのが精一杯だ。
しかし、神瀬さんは「その苦笑は満更でもなさそうだったの? それとも嫌がっていたの?」と矢継ぎ早に問い掛けてくる。
「そこまでは分かりません」と言っても聞く耳を持たない。
「わたしもお姉様と呼ぶべきかしら。ねえ、どう思う?」
どう思うと聞かれても、どう答えていいか分からない。
第一、神瀬さんの姉は東京オリンピックの代表内定者なのだから、そちらをお姉様と呼ぶのが筋なのではないだろうか。
「はぁー」とつい今し方までハイテンションだった神瀬さんが急に溜息を吐いた。
肩を落とし、見るからに意気消沈している。
あたしはまったく経験がないが、片思い中の友だちにこんな感じになる子がいた。
「日野さん、今日は来ないと思いますから家まで会いに行くのはどうでしょうか」
東京からわざわざここまでやって来たのだから、顔だけでも合わせて帰ればいいのにと思ってしまう。
日野さんだって鬼じゃないのだから会わずに追い返したりはしないだろう。
だが、神瀬さんは力なく首を振った。
「突然押しかけるなんてできないよ。服もこんなだし……」
スポーツウェアはとてもよく似合っていると思ったが、本人は気に入っていないようだ。
さらに「キャシーさんもいないし……」と呟いた。
土日に満足するまで戦い抜いたキャシーさんは今日は東京の自宅に帰っている。
日野さんから対戦する条件として勉強の遅れを取り戻すことを挙げられていたので、しばらくはこちらに戻って来ないかもしれない。
あたしでは恋愛の相談に乗れないので、できることはひとつだ。
勇気を振り絞って声を掛ける。
「稽古しませんか? 組み手の相手になって欲しいです」
神瀬さんは吹っ切ったような顔を見せ、「いいわ。相手になりましょう」と笑った。
††††† 登場人物紹介 †††††
保科
日野可恋・・・中学3年生。空手・形の選手。大会への出場経験は乏しいが神瀬結から憧れの目で見られている。組み手の腕もそれなり。
キャシー・フランクリン・・・G8。15歳。空手・組み手の選手。自宅にいるとフラフラと都内のあちこちの空手道場に顔を出すので、緊急事態宣言下では美空たちの道場にホームステイをしながらオンライン等でインターナショナルスクールの授業を受けていた。G8は2年目(1年留年)なのでなんとかついて行けているようだ。
大島彼方・・・高校1年生。空手・組み手の選手。小笠原出身で現在は都心の高校に通っている。変則的な空手を身につけている。
小谷埜はじめ・・・高校1年生。空手・組み手の選手。中学時代は全中にも出場した。現在はフルコンタクトに転向。彼方と仲が良い。
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