第66話 令和元年7月11日(木)「覚悟」日野可恋

 今日は今年初めての水泳の授業。

 先週からの予定が事件発覚で報道陣が押し寄せたり、夏とは思えない梅雨寒の影響があったりして延期が繰り返された。

 今日だってプール日和とはとても言えない天候だ。

 昼前でも肌寒く、雨が降り出しそうな曇り空。

 昼過ぎから雨の予報があり、水泳の授業時間を消化するために強行した印象だ。


「ひぃなは入りたかった?」


 クラスメイトの様子を見ながら、私は隣りに座るひぃなに尋ねた。

 彼女は上下赤のジャージ姿だ。


「お母さんがまだ入らないようにって」


 少し残念そうな表情で答えた。

 夏休みまであと一週間。

 時間割を変更して水泳の授業時間を確保するらしいが、来週は雨の予報が続く。

 ひぃなは来週にはプールに入れると楽しげに語るが、プール全面禁止の私からすれば見学の時間をどう過ごすかの方が切実だ。


「みんな風邪引かなきゃいいんだけど」


 ひぃなが心配するように、プールから上がった生徒たちは寒そうに震えている。

 風邪を引いたら学校を訴えられないものかと考えていたら、「何か悪いこと考えてる?」とひぃなに指摘された。


「心配してるだけだよ。それにしても、安藤さんの泳ぎは見事だね」


「純ちゃん、凄いでしょ!」


 我が事のようにひぃなが自慢する。

 学校のプールだから全力で泳いでいる感じはしないが、それでもその泳ぎは美しくて力強い。

 トップアスリートの持つ筋肉の躍動のようなものが感じられて惚れ惚れする。


「水を得た魚だね、まさに」


「本当に泳ぐことが好きだからね」


「水泳のことを話したりするの?」


「スイミングスクールのスケジュールについてはこまめに確認してるけど、それ以上は聞いても分からないから」


 私が真剣に安藤さんを見ていると、「何か気になることでもあるの?」と聞かれた。


「あるといえばあるかなあ。私も競泳については素人だから、正しいかどうか分からないけど」


「純ちゃんに言わないの?」


 安藤さんは口数がとても少なく、コミュニケーションを取りにくい。

 一方的に言うだけなら容易いが、コーチからどんな指示を受けているのかやこちらの意図が正しく伝わったかを確認しないと足を引っ張ることになりかねない。

 意思疎通だけならひぃなに間に入ってもらった方がスムーズに行えるが、専門的な話だとひぃなの手助けは得にくい。

 なかなか難しいなと思いあぐねていると、ひぃなから「純ちゃん、夏休みに入ったらすぐに東京で合宿なの」と教えられた。


「分かった。それまでに時間を取って話してみよう」


 私がそう言うと、ひぃなが嬉しそうに頷いた。

 ひぃなの護衛という点では彼女の貢献は計り知れない。

 彼女の通うスイミングスクールを見学して、可能ならコーチから話を聞いてみるのもいいなと私は思った。


 その後はひぃなと夏休みの予定を話し合う。

 長い休みだけど、あれこれと予定が入っている。

 これまで夏休みはたっぷりと読書に時間を割いていたが、この夏は少し忙しくなりそうだ。




 放課後、スマホを確認すると母からメッセージが届いていた。


『夕食までに帰る。そのあと話があるから』というシンプルなものだった。


 朝、母がメモを残して行くことはよくあるが、こうしてメッセが届くのは珍しい。

 何の話か首を捻りながら母の帰宅を待った。


 母の様子は普段通りだった。

 話に関しては食べてからとだけ言って、相変わらず本気か冗談か分からない会話をしてくる。

 夕食を済ませ、後片付けを終えたら、母が自分の前の椅子に座るように言った。

 怒った様子もなく自然体のままだ。


「志水さんに会って、話を聞かせてもらった」


 席に着くなり、母が切り出した。


「一言でいうと、判断が甘い。大人を舐めすぎている」


 母の声は淡々としているのに、私の心にはグサグサと突き刺さる。


「軽い気持ちでやったことが取り返しのつかない事態を引き起こすことはよくあること。今回はあなたひとりのミスでは済まされない。陽稲ちゃんたちにまで巻き添えになったのよ」


「私なりにリスク回避はしたつもりだけど……」


「陽稲ちゃんは目立つ。ジャーナリストなら瞬く間に名前や家は調べられる。彼女の家族を経由して、あなた抜きで簡単に接触されるわ」


 言葉を返せない。


「志水さんはあなたが被害者の生徒と近しい関係にあると気付いていたわ。あなたの周囲の生徒をマークすれば被害者の生徒にたどり着くことも可能だったでしょう」


 相手を甘く見ていたということか。


「プロフェッショナルを甘く見るものじゃない。一見、自分の方が上回ってると思っても、そう見せているだけかもしれない。本当に上回っていても、すぐに逆転してくるかもしれない。中途半端な気持ちでやることじゃないわ」


「私の判断ミス」と素直に反省する。


「そうね。志水さんはなかなか見所があるから、いろいろと教わるといいわ。今回はラッキーだった。この幸運を生かして、同じミスをしないこと」


 教師モードになっている母に「はい」と頷く。

 その上で、私は教えを請うた。


「今回は新しい人脈ができればラッキーという軽い気持ちでやってしまったけど、本気で人脈を得ようとするならどんな方法がいい?」


「私の人脈を利用すればいいじゃない」


「でも、せっかく築いた人脈を私が勝手に使うのは……」


「そんな風に遠慮してどうするのよ。使えるものは何でも使う。文化祭の時はうちの大学とコラボなんて荒技をやったじゃない。同じことよ」


「あれは他に良い手が浮かばなかったから」


「常に最善の策を目指しなさい。それが最高のリスク管理よ」


「はい」


 同じ失敗を繰り返さないために母の言葉を脳裏に刻み込む。


「あなたがする程度のことなら私が利用して研究に活かすから。甘く見ないこと」


 まだまだ私と母とではスケールの大きさが違いすぎる。

 釈迦の手のひらの上な感じが強く、いつかそこから抜け出せるのか怪しく思う。


「いままでの感覚は捨てなさい。ひとりじゃないの。陽稲ちゃんを守るのでしょ?」


 私は頷く。


「私もあなたが生まれた時にそうしたわ。最後は覚悟の問題よ。まだまだ覚悟が足りないわよ」


 覚悟とはこれぐらいでいいかという甘えを捨てることだ。

 まだ14歳とはいえ、時代によっては元服するような年齢でもある。


 私はひとつ息を吐き、目を細め、気持ちを高める。

 私は大丈夫。

 もっと成長できる。

 もっと強くなれる。

 私ならできる。


「必ず、ひぃなを守る」


「よろしい。それなら、大人に対する生意気な態度も改めなさい。相手を利用する時に足かせになる。できるよね?」


 失礼だからではなく、相手を利用しにくくなるからというのが母らしい。


「もっと考えて行動する」


 母は「するな」とは言わない。

 常に問われるのはやり方、アプローチの方法だ。

 偶然の成功ではなく、必然の成功のために何をするのか。

 真面目な時の母は大好きだけど、要求されるレベルが高く疲れる。

 でも、だからこそ、母の高みを目指したくなるのだ。




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・2年1組。学級委員。ひぃなとゆっくり話す時間もないほど忙しい。


日々木陽稲・・・2年1組。運動は苦手だけど水泳は好き。浮くだけだけど。


安藤純・・・2年1組。パリ五輪を目指す水泳界のホープ。


日野陽子・・・可恋の母。某有名私大教授。シングルマザー。娘が成人するまでに同性婚を合法化できないか真剣に考えている。


志水アサ・・・フリージャーナリスト。アラサー。日野教授へのインタビュー記事を執筆中。

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