第647話 令和3年2月11日(木)「チョコレートに思いを込めて」日々木華菜

 出迎えてくれたヒナは清潔感漂う白のコックコートにエンジ色のエプロン、お揃いの色のタイを付けていた。

 ボリュームのある赤毛の髪は色鮮やかなスカーフで完全に包み隠されている。

 顔の半分以上を覆うブランドのロゴが入った布マスクの下にはおそらく不織布のマスクをつけているはずだ。

 見えるのは鳶色の瞳が愛らしい目元だけだが、それだけでも彼女の可愛らしさがにじみ出ていると感じるのは贔屓目だからだろうか。


「よくそのサイズの制服があったね」


「今日のために仕立て直したの」とヒナはクルリと一回転した。


 この気合の入れようはさすがヒナと言うべきか。

 彼女はいまだに小学生並の身長なのでこの大人っぽいパティシエ風のコックコートがコスプレっぽく見えたが、そこは口に出さないのが賢明だろう。


 いつも快適な温度管理がされているリビングダイニングに入ると、少しひんやりと感じた。

 今日は一日がかりでバレンタイン用のチョコレートを製作する。

 チョコレートは子どもでも簡単に手作りができる反面、奥も深い。

 より良いものを作るためには一にも二にも温度管理が大切だ。


 この部屋の主である可恋ちゃんは自分の部屋で引き籠もっているそうだ。

 まだ中学生なのに彼女はNPO法人の代表を務め、大人顔負けの仕事振りと聞く。

 一方で、トレーニング理論の研究をしたり、各種の勉強にも時間を費やしたりしている。

 可恋ちゃんだから何でもできて当然のように思ってしまうが、地道な努力があってこそ、なのだろう。


「これを作ろうと思っているの」


 ヒナが見せてくれたのは可恋ちゃんに贈るチョコレートの図案だった。

 ファッションデザイナーを目指す彼女らしく、そこに描かれていたのはウエディングドレスである。

 自分でデザインしたドレスをチョコレートで作るというのはアイディアとしては素晴らしいが決して簡単なことではない。


 料理で大事なのは味だけではない。

 洗練されればされるほど見た目が重要になる。

 デザート、特にチョコレートの世界はそれが顕著だろう。

 ショコラティエという専門職がいるほどだ。


 わたしも食欲をそそるために見た目は意識している。

 ただ芸術的な飾り切りのような技術は習得していない。

 デザートも独創的な外観を追究したことはない。

 対照的にヒナはどう見せるかを最も重要視している。

 料理の飾り付けを彼女に任せると冷めてしまうくらい時間が掛かったこともあり注意が必要だが、綺麗に彩られた料理に感動を覚えたこともあった。

 日頃から意識して磨いている彼女の美的センスにはわたしも学ぶところが多い。


 まずは家から持って来たものをダイニングのテーブルの上にセットする。

 本当はすべて食材で作りたかったが、ヒナの要求が30 cm大の人型だったので断念した。

 土台に芯棒を立て、そこに頭や胴、手足などをかたどったマジパンを接着している。

 この上に直接チョコレートをかぶせてもうまくいかないと思うので、透明のフィルムをかぶせて下準備を終えた。


 次にホワイトチョコレートをテンパリングする。

 チョコ細工は様々な技法が動画で公開されている。

 ヒナはそれらを見た上で細く搾ったコルネからチョコレートを流し、1本1本線を引くことを選択した。

 かなり前からその練習を繰り返し、使ったチョコは可恋ちゃん以外の友人たちに配っているそうだ。


 身長の問題があるので、ヒナは人型をフローリングの上に置いた。

 クッションの上で膝立ちになってフィルムにチョコを落としていく。

 気の遠くなるような手作業だ。


 その間にわたしは自分用のトリュフチョコ作りをする。

 毎年何を作るか迷うものの、結局はこれになってしまう。

 妹のように奇をてらったものは苦手だ。

 見栄えも素材も変わり映えしないものだが、完成度の高さで市販品との違いを出したいと思っている。

 料理は食べてしまえば消えてしまう。

 すべては思い出の中にしか残らない。

 それでもわたしのトリュフチョコを楽しみにしてくれる人のためにわたしは作るのだ。


 ヒナの作業は塗っては乾くのを待ち、塗っては乾くのを待ちの繰り返しだ。

 ミスをすれば大きな時間のロスになってしまうので、休憩を挟みながら慎重に作業を繰り返していった。

 すぐにお昼になる。

 昼食はわたしが作り、可恋ちゃんの部屋で食べることになった。


「匂いが凄いね」と可恋ちゃんが笑って自分の部屋の空気清浄機をフル回転させる。


 チョコレートの甘い香りの中に浸っていたのですっかり慣れてしまったが、エプロンを外しても匂い立っているようだ。

 ヒナが「失敗したらこのままわたしがチョコレートの代わりになるね」と微笑んでいる。

 そういう睦言はふたりきりの時にしてよと思いながら昼食を摂った。


 午後もチョコレート作りは続く。

 ヒナのウエディングドレスはだんだんとそれっぽい形になってきた。

 手先の器用さと集中力の高さには目を見張るものがある。


「完成が近づいてきたね」


 ヒナが手を休めたタイミングで声を掛けた。

 こちらに向けた眼差しは、しかし不満そうだった。


「来年はチョコレートを糸にしてドレスを編みたいな」


「いや、無理だから」


 そうツッコミを入れながらわたしは来年という言葉に引っ掛かった。

 来年の今頃、わたしはどうしているだろうか。

 現在高校2年生のわたしは大学と専門学校のどちらに進学するかで迷っている。

 大学を選べば来年のこの時期は受験の真っ只中かもしれない。


 ヒナとこうしてふたりでチョコレート作りができるのもあと何回あるだろうか。

 一昨年までヒナは買ったチョコレートをお返しに配っていたので手作りをしたのは昨年が初めてだった。

 大好きなヒナと一緒に何かを作る機会なんて滅多に訪れない。

 一歩ずつ大人に近づくことは嬉しいことでもあり寂しいことでもあった。


 しんみりするわたしをよそに、ヒナはドレス作りに邁進する。

 フィルムで支えていても重力があるので身体のラインぴったりにドレスを着せることはできない。

 スカート部分は広がるのでいいとして、腰周りが難題だった

 ヒナは最初のデザインにはなかった大きなリボンを腰につけることで対応していた。

 それでもバランスは微妙そうで、ちょっとした衝撃を与えたらドレスが崩れ落ちそうだ。


「これ、完成してもここから動かすことができないね」


 バレンタイン当日まで保存するためミニ冷蔵庫を買ったくらいなのに、そこまで運ぶことは無理そうだった。

 ヒナが涙目でこちらを見る。

 気づいていなかったのだろうか。


「とりあえず完成させよう。その上で可恋ちゃんに見てもらえばいいんじゃない?」とわたしは提案する。


 ヒナとしては14日まで隠しておきたかっただろうが、どうしようもない。

 彼女は渋々といった態度で頷き、最後の仕上げに取りかかった。

 わたしは借りたビデオカメラでその様子を撮影する。

 万が一に対する備えだった。


「あっ!」


 デザート用のピンセットで細部を整えている最中、ヒナの口から悲鳴が上がる。

 ほんのわずかに手元が狂い、フィルムが揺らいだ。

 幸いデコレーションに影響はなかったが心臓に悪い。


「もういいよね? 可恋ちゃんを呼ぼう」


 ヒナは「もう少しだけ……」と口にしてピンセットでチョコに触れようとしたが、先端が震えている。

 わたしはビデオカメラを構えたまま身じろぎせずに立っていた。

 緊張がわたしにも伝わってくる。

 息をしただけで崩壊しそうな予感があった。


「あー、もう無理!」とヒナが大きく仰け反った。


 わたしは強張った肩の力を抜く。

 普段の調理では感じることのない重圧だった。


 恐る恐る立ち上がったヒナが可恋ちゃんを呼びに行く。

 本人は満足していないが初めて作ったとは思えない出来だけに、このままずっと飾っていたいくらいだ。

 可恋ちゃんを連れて戻って来たヒナは「壊れる前に見せたくて……」と項垂れていた。


「凄いじゃない」と絶賛した可恋ちゃんは床に置かれた土台を無造作に持ち上げた。


 わたしもヒナも驚きの声を上げるが、なぜかチョコレートは形を崩さなかった。

 可恋ちゃんは「その冷蔵庫に入れたらいいの?」と軽々と運んで行く。


「うん。でも、大丈夫かな?」とヒナが不安がると、「どうかな? 風や地震でマンションが大きく揺れたらダメかもしれないけどね」と可恋ちゃんは飄々と答えた。


 わたしが「壊れたらもったいないって思ったりしないの?」と聞くと、「どうせ食べてしまうんですし、精魂込めて作ってくれたことは分かりますから」と彼女は微笑んだ。

 ヒナの思いに引きずられてわたしは自分の考え方を見失っていたようだ。

 料理は消え物。

 すべては心に刻まれる。

 今日ヒナとふたりで過ごした時間のように。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木華菜・・・高校2年生。料理の腕は玄人はだし。将来については調理師と栄養士の間で迷っている。


日々木陽稲・・・中学3年生。ファッションデザイナーを目指し日々勉強中。見た目の重要性を訴え、形から入るタイプ。


日野可恋・・・中学3年生。料理はできるがお菓子作りは得意とは言えない。華菜さんに勝てないからと陽稲にあげるチョコレートは通販で購入した。

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