第410話 令和2年6月19日(金)「ベスト」横山一花

 朝、布団から出たくなかった。

 学校に行きたくないという気持ち半分、あとの半分はこの寒さだ。

 6月に入りこれぞ夏って日が続いていたのに昨日から急に気温が下がった。

 夕べは薄い毛布だけでは眠れずに、しまい込んでいた布団を出して寝たほどだ。

 そして、目が覚めてもその布団にしがみついてしまった訳だ。


 そうは言ってもいつまでも寝ている訳にはいかない。

 あたしはガバッと跳ね起きると、ひとつ長い息を吐いた。

 休めば何を言われるか分からない。

 欠席したクラスメイトをコロナなんじゃないのと笑っていた子たちの顔が浮かぶ。


 今日で分散登校も最後だからと自分に言い聞かせる。

 1年の時に仲が良かった悠美と同じクラスになって手を取り合って喜んだのに、この分散登校では別のグループに分かれてしまった。

 そのせいでいまのクラスに馴染めていない。


 分散登校中は午前の登校でも朝の開始時間が遅めなので、少しだけ時間に余裕がある。

 親友の悠美はそれでもいつもギリギリらしいけど。

 しかし、今日は湿度が高いので髪が撥ねまくって鏡の前で時間を費やしてしまった。

 短くすれば楽になる。

 でも、やっぱりオシャレはしたい。

 そんな心のせめぎ合いを抱えたまま、あたしは撥ねる髪と格闘した。


 制限時間を迎え、これでいいかという妥協を受け入れた。

 諦めとも言う。

 いざ出掛けようとした時に、このままでは寒いと気づく。

 つい数日前には暑い暑いと零していたのに、半袖一枚では風邪を引いてしまいそうだ。

 教室の窓は換気のために頻繁に開けるので、今日は上にもう一枚必要だろう。


 あたしは急いでタンスを漁り、ニットのベストを取り出した。

 これはあたしのお気に入りで、普通のものより少し高級感が漂うものだった。

 休校が続いたため着る機会がなかったが、今日の気候ならちょうど良さそうだ。

 これを着るとテンションが上がる。

 鏡に映る自分が少し可愛くなったように見えた。


 自撮りした写真を悠美に送るが、まだ寝ているのか反応は返ってこなかった。

 おっと、こうしてはいられない。

 あたしは慌てて部屋を出る。

 このベストのお蔭で学校に行きたくない思いがかなり和らいだ。

 元気よく「行って来ます」と言って傘をさし家を飛び出た。


 1組の教室に入ると淀んだ空気を感じる。

 外や廊下以上に寒々しく思ってしまうのはなぜだろう。

 クラスの中心、久藤さんの周りに何人かの女子が集まっていた。


 久藤さんは美人だ。

 スラッと長身で、艶のある黒髪は腰近くまで届いている。

 整った顔立ちや切れ長の目が印象的だが、冷たさも感じさせた。


 最初のうちはあたしもその輪の中に加わっていた。

 ほかに話す相手もいないし、ひとりでいると気持ちが沈んでいくから。

 これから1年過ごす教室に自分の居場所を確保したい。

 悠美がいるとはいえ、仲良くできる相手が増えるに越したことはないと思っていた。


 だが、そこで語られる内容の多くは他人の噂話で、そのほとんどが陰口だった。

 特に同じクラスのもうひとつのグループに所属している子たちをこき下ろす内容にはついて行けなかった。

 みんなこのクラスのトップが久藤さんだということに気づいている。

 だから、彼女に気に入られるように、向こうのグループと合流しても自分のポジションをキープするために、他人を蹴落とそうとしていた。


 悠美がいなければ、あたしもそうしていたかもしれない。

 部活に入っていないあたしは、久藤さんの機嫌を損ねたら孤立してしまう可能性が高い。

 教室内の人間関係がこれから先の学校生活に大きく関わることは学生なら誰しもが理解している。


 しかし、悠美のことまで悪く言われては我慢ができなかった。

 あたしは彼女たちから距離を置くようになった。

 その結果、話し相手のいない状況となってしまったが仕方がない。

 それに、これもあと1日の辛抱だ。

 来週からは悠美と一緒にいられるのだから。


「一花さぁ、それって男でも誘ってるの?」


 そう声を掛けてきたのは内水うちみずさんだった。

 あたしのベストについて言っていることはすぐに分かった。

 どこにでもいるような感じの子だが、彼女は久藤さんと1年から一緒で忠実な犬のように振る舞っている。

 ふたりがいない時、取り巻きの女子たちは内水さんの悪口でよく盛り上がっていた。


 とはいえどれだけ嫌っていようと、久藤さんの前ではみんな内水さんにつき従う。

 久藤さん以外の女子たちがあたしの周りに集まってきた。


「別にそんなつもりは……」


 勇気を振り絞り精一杯の反論を試みたが、内水さんは蔑んだ視線をあたしに向けた。

 彼女は「手触り良さそう」と言って、おもむろにあたしのベストに手で触れた。

 その触り方が身体をまさぐられるようで気持ちが悪い。


「止めて……」と身をよじるが、内水さんは笑って「みんなも触ってみて」と口にした。


 逃げ出したいのに、椅子に座ったままのあたしの周りを囲まれている。

 ほかの子たちの手が伸びてきた。

 あたしは両手で胸元を守り、背中を丸めてギュッとかがみ込む。

 その背中だけでなく脇腹まで触られて、あたしは「嫌っ」と悲鳴を上げた。

 内水さんの手はあたしの手を押しのけて強引に胸の辺りに迫ってきた。

 あたしは必死になってその手を防ごうとする。


 その時、チャイムが鳴った。

 取り囲んでいた女子たちが自分の席に戻って行く。

 最後に残った内水さんが「残念。次の休み時間までお預けか」とあたしの耳元で囁いた。


 逃げ出したかった。

 この教室から。

 それなのに、身がすくみ力が入らず立ち上がれそうになかった。


 涙が溢れ出しそうだった。

 泣いたら誰か助けてくれるだろうか。

 先生に告げたところでちょっと注意して終わりになるんじゃないか。

 その後もねちねちとこんなことが続くのなら言っても無駄だろう。


 いま、あたしにできるのはこのベストを脱ぐことだった。


 次の休み時間、誰もあたしのところに来なかった。

 ホッとする一方、彼女たちの顔色をうかがう生活がずっと続くのかと思うと胸が苦しかった。

 実際以上に寒く感じて震えてしまう。

 あたしは両肘を両手で抱えてじっと我慢する。


「……悠美」と助けを求めるように呟いた。


 その声は誰にも届かない。




††††† 登場人物紹介 †††††


横山一花いちか・・・中学2年生。


柳田悠美・・・中学2年生。一花の親友。


久藤亜砂美・・・中学2年生。


内水うちみず魔法まほ・・・中学2年生。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る