第598話 令和2年12月24日(木)「聖夜の決意」日々木陽稲
終業式を迎え、明日から冬休みだ。
しかし、教室の中には長期休暇前特有の解放感は漂っていない。
3年生の多くにとっていよいよ受験が目前に迫ってきているからだ。
実際には生徒ひとりひとり受験に対する思いは異なる。
みんながみんな重圧の中にいるとは思わないが、この重苦しい空気に触れると追い立てられるような気持ちになるようだ。
学級委員としてクラスの雰囲気作りを考えてきたわたしでも、これには手が出せなかった。
すでに進学先が決まったわたしが口出しできることではない。
相談を受けた時にはアドバイスを送っていたものの、あとは見守るだけだ。
言葉少なに家路に向かうクラスメイトたちを送り出してから、わたしは教室を出た。
廊下では純ちゃんが待っていてくれた。
見上げるような長身の彼女は教室から出て来たわたしを見つめている。
元々口数が少なく、マスクを着けている以外コロナ禍でも変わったことがないような純ちゃんだが実際は大きな影響を受けている。
それをどこまで理解しているか分からない表情の乏しさはマスクによってより際立っていた。
わたしは小声で「ありがとう」と伝え、目で「行こう」と促す。
今日はこのあとグラウンドでダンス部のイベントが開催される。
3年生の多くはそれを見ずに帰宅するが、ダンス部OGは後輩たちの様子を見て帰るそうだ。
わたしも見て行きたかったが、後ろ髪を引かれる思いで学校を出る。
正門前に聳えるマンションに入り、いつものようにエレベーターに乗り込んだ。
可恋が待つ部屋に入ると、彼女はすでに出掛ける準備を終えていた。
わたしと純ちゃんも手洗いを終え、急いで着替えをする。
可恋はこれからオンラインイベントの生放送のために東京のスタジオのようなところへ行く。
最初は一度わたしを迎えに戻ると話していたのだが、わたしが一緒に行きたいと言うとその望みを叶えてくれた。
向こうには控室があるそうなので、本格的なおめかしは向こうですることになった。
とはいえあまり粗末な服装で出掛ける訳にはいかない。
スポーツウェア姿の純ちゃんはあっという間に着替えたのに、わたしは髪を整えるだけでその何十倍もの時間を要する。
事前に用意しておいた服を着終えた頃には予定の出発時間を過ぎていた。
「ごめん、遅くなって」と可恋に詫びると、彼女は「織り込み済み」と微笑む。
待ってもらっていたタクシーに乗り込み、一路東京へ向かった。
年末だからもっと混むかと思っていたが、幸いそれほどではなかったようだ。
時間ギリギリに到着し、わたしたち3人は控室に直行した。
そこは空調こそ効いているものの殺風景な部屋だった。
机と椅子、それに大きな鏡が据え付けられているくらいで、ほかにめぼしいものはない。
わたしは純ちゃんに持ってもらっていた大きな鞄から可恋の服を取り出した。
「これ」と差し出すと、彼女はえも言われぬ表情になった。
「時間がないよ」と促すと、覚悟を決めたような顔で受け取り、すぐに着替え始める。
別に変な服を選んだ訳ではない。
可恋のリクエストに沿ってコーディネートしただけだ。
彼女の手持ちの分では心もとなかったので、内緒で購入したものが多い。
その点がお気に召さなかったのかもしれない。
「もっと大人っぽい服装でいいなら家にあるもので間に合ったのよ」
「確かに中学生らしい服装にしてとは言ったけど、これって少女趣味って感じじゃない?」と可恋は不満顔だ。
「普通の服だと、可恋は中学生に見えないのだから仕方ないよ」
レースのついた白のブラウスにクリーム色のカーディガン。
クリスマスを意識して可愛い赤のスカートにリボンのような緑のベルトをあしらってみた。
可恋が着てもコスプレっぽくならないようにかなり頭を悩ませたのだ。
当初の予定では大阪で開かれるイベントだった。
だが、新型コロナウイルスの新規感染者数が急増し、急遽オンラインでの開催に変更された。
彼女が代表を務めるNPO法人F-SASには多くの大手企業が協賛している。
今回のクリスマスイベントはF-SAS会員である現役の女子学生アスリートに向けたものであると同時に、そうしたスポンサーへの感謝を込めたものでもあった。
可恋は競技者としての知名度は皆無なので、著名な大学教授である陽子先生の娘であること、中学生で代表を務めていることが売りになっている。
この場で求められているのはいつもの「格好いい可恋」ではなく「頑張る中学生」だった。
顔のテカリを抑えるための簡単なメイクをしていたら、時間になったとスーツ姿の大人の女性が呼びに来た。
可恋はわたしにタブレットを手渡し「これで見れるから。トイレ以外部屋から出ないようにね」と言って、女の人とともに部屋から出て行く。
服装では大人と子どもの関係だが、出て行く時の様子を見ると可恋の方が上司のように振る舞っていた。
普段は気づかないが、リアルにこういうシーンを目撃すると可恋が本当に組織のトップなんだと思わされる。
打ち合わせは済んでいたのか、可恋が控室を出て間もなくイベントが始まった。
可恋は代表という重要な立場だが、イベントの主役は協力して出演するスポーツ選手だ。
有名なバレーボールの選手で、可恋とともに代表を務める篠原さんが進行役になり、可恋はサポート役に徹している。
思っていたよりも出番が少なくてわたしはちょっとがっかりした。
わたしの横では純ちゃんが真面目に勉強をしている。
競泳の選手として才能を高く評価されている彼女には推薦の話がいくつかあった。
しかし、条件面で折り合わなかった。
彼女の家は裕福にはほど遠く、高校で競技を続けるには金銭的な問題が横たわっていた。
学費だけなら行政による援助もあるが、オリンピックを目指すような一線級の活動を続けるためにはその費用も必要となる。
遠征や合宿などの費用は馬鹿にならないそうだ。
そういった部活動の費用まで免除してくれる高校がなかった。
コロナの問題がなかったらどうだっただろう。
大会が開かれ、そこで活躍していたら……。
もしかしたら、そういった高校が見つかったかもしれない。
わたしはタブレットを横目に見ながら純ちゃんに勉強を教えることにした。
彼女は集中力があるので、本人がやる気を出せば物覚えは早い。
それでも志望校の偏差値とはまだ隔たりがあった。
今日もこうしてわたしのためにつき合ってくれたのだ。
純ちゃんのために、わたしにできることなら何でもするくらいの気持ちだった。
「お待たせ」と言って戻って来た可恋は一目散に着替えを取り出した。
「その服のままでもいいのに」とわたしが言うと、「ディナー無しにするよ」と可恋は脅してくる。
頭が勉強モードになっていたので意識が薄れていたが、今日はクリスマスイヴだ。
さすがにディナーを中止にされてはたまらない。
わたしは頬を膨らませて抗議する。
「あの服のままだったら入店させてもらえなかったかも」と大人っぽいスーツに着替えた可恋が苦笑した。
予約済みとはいえ、中学生3人だけで高級ホテルの展望レストランに足を踏み入れるのは問題がありそうだ。
わたしは持って来たドレスに着替えた。
スパンコールのついた白銀のドレスだ。
化粧を施し、髪は可恋に上げてもらう。
問題は純ちゃんだった。
ドレスを借りるつもりだったのに彼女が嫌がった。
可恋以上に堅苦しい服装を着たがらない。
特に食事の時は。
仕方なく学校の制服で行くことにした。
なんともバラバラな感じの3人だが、今夜は他人の服装に注目する人は少ないからいいだろう。
まだ暗がりが空を覆い始めた時間帯なのに、テーブルの間隔が広めのレストラン内は席が埋まりつつあった。
これも営業時間短縮要請の影響なのかもしれない。
生憎の曇り空で星は見えない。
けれども夜景へと移りつつある東京湾の煌めく様は素敵だった。
わたしはまだマスクをしたまま小声で可恋に囁いた。
「ありがとう、可恋。いろいろ無理してくれて」
突然の予定変更だったから、このレストランの予約だって取るのは大変だったはずだ。
それに感染症リスクが高い可恋なのに、今日といいこの前の映画を見に行った日といい、わたしのために外食につき合ってくれた。
「少しくらいは思い出を作らないとね」
わたしに負担を感じさせないよう努めて軽い口調で可恋は言った。
可恋と一緒に暮らす毎日が特別な思い出なのに、それに慣れてしまうとそれ以上を求めてしまう。
わたしはいまこの上なく幸せだ。
でも、この幸せは様々な幸運や可恋の努力の上に成り立つものだ。
決して当たり前のものじゃない。
「今度はわたしが可恋を幸せにするから」と胸を張って宣言すると、可恋は笑って「期待しているよ」と答えた。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・中学3年生。ロシア系の血を引き日本人離れした容姿を持つ。秘技「日本語ワカリマセーン」が通用するレベル。
日野可恋・・・中学3年生。著名な女性アスリートが出演し、会員から寄せられた質問に答えてもらうのがイベントのメインだった。その中でさり気なくスポンサーを称えるのが今日の彼女の仕事。
安藤純・・・中学3年生。競泳を続けるためには受験勉強が必要という陽稲の長きにわたる説得がようやく功を奏した。
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