第454話 令和2年8月2日(日)「可恋のいない1日」日々木陽稲
スポーティなウェアに身を包んだ可恋はとても格好いい。
スーツ姿も素敵だが、やはりこれがいちばん似合っている。
胸元を除けば男性っぽくて、本人にとってもリラックスした服装なんだと思う。
……だからこそ女性っぽい服を着て緊張感を持った方が良いんだけど。
「それじゃあ行ってくるね」
そう、わたしに微笑んだ可恋はサングラスとマスクを装着する。
見送るわたしは「気をつけてね」と笑顔を向けた。
胸の内にはいろいろな感情が渦巻いている。
一緒に行きたかったという気持ちは強く心に残っている。
長く息を吐いてそれを拭い去ろうとしたものの成功したとは言えなかった。
新型コロナウイルスの感染者数が一向に減らず、可恋と買い物に行くという約束はいまだ叶えられていない。
こればかりは仕方がないと諦めているが、それなら家の中でふたりきりで過ごす時間を増やしたかったのに今日はそれも叶わなかった。
……可恋は忙しすぎるのよ。
仕事、研究、勉強と中学生とは思えない多忙さだ。
ゆっくりと話す時間もままならない。
わたしも可恋に頼らずに勉強や学級委員の仕事を頑張ろうとしているので遊びに行こうと言える状況ではなかった。
一応、受験生でもあるしね。
玄関で立ち尽くしていたわたしはそこにある姿見に映る自分の服装を見た。
可恋に合わせた訳ではないが、普段よりもカジュアルな恰好をしている。
白のタンクトップに黒のタイトスカート、その上から大きめのカーキ色のジャケットを羽織っている。
髪は可恋が丁寧に結い上げてくれた。
今日の可恋と並べばお似合いなんだけどなと、また息を吐いてしまう。
可恋は
東京オリンピック代表内定の舞さんのトレーニングメニューについて実際に行いながら改善点を提案したいと意気込んでいた。
当然わたしも行きたいと直訴した。
可恋によると大学は不特定多数の人間が容易に出入りできる場所であり、今日の目的だと可恋だけではわたしの警護ができないと説明した。
純ちゃんがいればOKが出たのに、彼女は競泳の練習があるのでつき合ってもらえなかった。
「ひぃなは元から完璧な美少女って感じだったけど、最近は柔らかさが加わってさらに魅力的になったから警戒レベルをもっと上げないといけないのよ」
可恋は真顔でそう話すが、それで自分の行動がますます制限されてはあまり有り難みがない。
ひとりで外出するなとは小さな頃から親やお姉ちゃんに口が酸っぱくなるほど言われてきた。
心配されているのが分かるのでできるだけそれを守ろうとしているが、最近の可恋は過保護振りに磨きがかかっているように感じる。
それを口にすると、可恋は「アメリカだったら銃で武装してもらうんだけどね」と残念そうに言った。
いや、わたしに銃なんて無理だよ! 怖いよ! ましてやそれを人に向けるなんて絶対に嫌だよ! と声を大にして力説したが、彼女は「アメリカに行ったら射撃訓練場で練習しよう。ひぃなでもできるようになるよ」と分かってはくれなかった。
1日お留守番かと思っていたら、別の用事で外出することになった。
須賀さんに頼まれ、1年生の子と英語で話すことになったのだ。
可恋は須賀さんと笠井さんがずっと付き添うことを条件にOKした。
約束の時間になったので下に降りるとちょうどふたりが迎えに来たところだった。
須賀さんは「今日はありがとう。わざわざ時間を取ってもらって」と恐縮している。
笠井さんも感謝の言葉を述べるが、その顔からは可恋の方が良かったという思いが伝わってきた。
わたしはスポーツのことに疎いし、英語だって可恋が上だ。
当然の反応だと思っていたら、それに気づいた須賀さんが笠井さんを肘で突いた。
「1年生だから日野さんだと話しにくいかも……」と彼女はわたしを気遣ってくれる。
確かに可恋は下級生から”怖い先輩”と呼ばれ恐れられている。
だが、それは可恋が意図的に流した噂でもある。
実際の可恋は……きっとどこかに優しいところがあるはずだ。
少なくともわたしには優しい。
周りの評価は「日々木さんにだけ優しい」だったりするが……。
マンションから出ると強い日差しが降り注いでいた。
まだ午前中なのにジリジリと灼けるような太陽光だ。
梅雨が明けた途端にこれだからウンザリしてしまう。
紫外線はわたしにとって天敵なので、対策は徹底している。
肌はまったく露出させず、日焼け止めをたっぷりと塗り、日傘、サングラス、サンバイザーを準備した。
そこにマスクまで着けるのだから、誰だか分からないだろう。
「陽稲ちゃん、ヤッホー!」
マンションは学校の正門前に建っている。
今日は日曜だが部活に来ていた都古ちゃんがわたしを見つけて声を掛けてきた。
彼女の肌は真っ黒に焼け、薄着のランニングウェアが健康的だ。
「こんにちは。よくわたしだって分かったね」と不思議に思ったが、都古ちゃんだけでなく須賀さんたちも「分かるよ」と笑っていた。
都古ちゃんが「陽稲ちゃんは変わっているからな」と朗らかに言い、須賀さんが「服装が個性的だから」と慌ててフォローした。
笠井さんは大笑いするのを堪えているような顔だった。
都古ちゃんと別れ、近くの公園まで歩くと、ふたりの1年生が待っていた。
まだ幼さが残る顔立ちに初々しさを感じた。
須賀さんに「劉さんと沖本さん」と紹介され、ふたりは緊張気味に頭を下げる。
『こんにちは、日々木陽稲です。よろしくね』とフランクに英語で話し掛けると、劉さんの顔がほころんだ。
一方、沖本さんは「心臓バクバクです」と自分の胸に手を当てて大げさなポーズを取る。
緊張していると言う割に、楽しげな雰囲気を漂わせている子だった。
どうやら人の懐に飛び込むのが上手いタイプのようなのでお手並み拝見と彼女の自己紹介を見守った。
「
「さつきハ、ソノ中デ日本語ガイチバン下手ダヨネ」
「そんなことないよ! 方言出てへんですよね?」と沖本さんは身を乗り出して先輩たちに尋ね、「メッチャ出てる」と笠井さんからツッコまれていた。
『英語で意思疎通ができなくて困ることはある?』
『難しい話は英語で考えてしまうので、それを日本語に翻訳しようとして言葉が出て来ないことがある』
劉さんはわたしの質問に真摯に答えてくれた。
わたしも日常会話はともかく考えることまでは英語ではできない。
可恋は慣れの問題と軽く言ってのけるが、そんなに簡単なら誰も苦労はしない。
可恋はわたしの方が語学の能力は高いとおだててくれるので、そのお蔭で自信を持って英語を使うことができている。
わたしは可恋の真似をして劉さんを褒め、あなたならすぐに日本語で考えることができるようになるよと持ち上げた。
公園の日陰に座り込んでお喋りだけで時間が過ぎていく。
劉さんはインターナショナルスクールの時の友人とSNS等でやり取りは続けているそうだが、実際に会って話す機会はなくなったと少し寂しそうに話してくれた。
親とは英語で会話しているとはいえ、気の置けない同世代との他愛ない雑談みたいなものができないのは辛いだろう。
ただ時折見せる沖本さんとの掛け合いは本当に楽しそうだった。
これを見る限り彼女が日本語をマスターするのは時間の問題だ。
「日々木サンヲ持ッテ帰リタイデス!」
わたしが帰る時間だと告げると、劉さんが笠井さんたちにそう頼み込んでいた。
すっかり懐かれたものだ。
キャシーのスラングだらけの英語と違って平易だし相手への気遣いもある。
だからわたしも彼女との英会話を楽しんだ。
「悪いことは言わない。死にたくなければ、そんなことを口にしちゃダメよ。日野さんに八つ裂きにされちゃうから」
須賀さん、そんなに真剣に説得しなくても……。
劉さんは「八ツ裂キ?」と首を傾げた。
笠井さんが「身体を8つに切り分けられること」と教えたあと、「日野なら8つでは済まないだろうな」と笑う。
可恋はそんなに怖くないよと訂正しようと思ったものの、それは怒らせなければという条件付きだと気づき、結局わたしは笑って誤魔化すことしかできなかった。
しかし、この覆面状態では笑ったかどうかも伝わらない。
なんだか可恋の噂を拡大するのに加担したような気分で、わたしはがっくりと項垂れる。
帰りは4人全員に送ってもらうことになった。
このあと4人で自主練を行う予定だと聞いている。
わたしがひとりで帰れば早いのだが、可恋の言いつけがあるので須賀さんも笠井さんもそれをしっかり守ってくれた。
可恋のマンションにたどり着くと、意外な事実が判明した。
劉さんもこのマンションで暮らしていると発言したのだ。
須賀さんと笠井さんは可恋の家に来たことがあるので、このマンションがかなり高級であることを知っている。
インターナショナルスクールに通っていたので経済的に恵まれているだろうとは思っていたが、このマンションに住んでいると聞くとかなりのお金持ちというイメージがついてしまう。
「もっと良い中学に行けたのにな」という笠井さんの言葉はもったいないと惜しむ気持ちからだろう。
それに対して劉さんは「ドコデ勉強スルカヨリ誰ト勉強スルカガ大事」と真っ向から反論した。
彼女の両親は沖本さんと学びたいという彼女の気持ちを酌んでこの公立中学に進学させたのだ。
何が正しいかは分からないけど、いろいろな考え方があると感心する。
「そうだよね」とわたしは思わず劉さんの手を取った。
可恋も昔、同じようなことを言っていた。
だからわたしと同じ臨玲に進学することを選んだ。
須賀さんも納得するようにうんうんと頷いていた。
もちろん新たな出逢いも大切だけど、得られた縁は掛け替えの無いものだと思う。
昼ご飯を作りに来てくれたお姉ちゃんと午後は掃除に精を出した。
わたしは居候の身の上なのでこれくらいは頑張らないとね。
可恋は早ければ夕食前に帰ると言っていたが、舞さんから食事に誘われて断れなかったと連絡が来た。
そうなると予測していたわたしはお姉ちゃんとふたりで夕食を摂った。
お姉ちゃんが帰ってからお風呂に入る。
湯船の中で気持ちを整理する。
可恋を笑顔で迎えるために。
可恋が帰宅したのはわたしがリビングで髪を乾かしている時だった。
わたしが出迎えようとするのを手で制して、「遅くなってごめん。シャワー浴びてくる」と浴室に駆け込んでいった。
可恋の入浴時間はいつも短い。
今日もあっという間に戻って来た。
わたしは精一杯の笑みを浮かべて「おかえり」と言った。
部屋着姿の可恋は頷いただけで、無言のままわたしのところまで一直線に歩いて来た。
呆然としたわたしは左手に持ったドライヤーからの熱風が顔に当たり、そちらに気を取られた。
その瞬間、上からのしかかるように可恋がわたしを抱き締めた。
「どう……したの?」
ドライヤーの音量に負けて可恋の耳に届いたかどうか分からなかった。
彼女は器用に抱きついたままわたしの手からドライヤーを奪い電源を切った。
部屋は突然静寂に包まれ、わたしの心臓の鼓動が可恋に聞こえるのではないかと思った。
「抱き締めて欲しそうな顔をしていたから」
可恋がわたしの耳元で囁く。
隠そうとしても可恋にはいつもバレてしまう。
なら、隠す必要はない。
「可恋のバカ」
わたしは可恋の胸元に顔を押しつけ、ギュッとしがみついた。
人には見せられない顔になっていそうだ。
幸い、いまのこの顔は可恋にも見られることはない。
わたしが落ち着くまで可恋は体勢を保ち続けた。
わたしは落ち着いてからもしがみつくのをやめなかった。
「……そろそろいいかな?」
「良くない」と答えたものの、わたしは手を離した。
可恋の身体が離れ、わたしは慌てて顔を伏せる。
可恋はすかさずティッシュの箱を取ってくれた。
わたしはたくさん紙を出しては顔を拭いた。
「着替えて来る」と中腰だった可恋がすくっと立つ。
「汚してごめんね」と謝ると、片手を挙げて「気にしないで」と可恋は言った。
可恋は自分の部屋に入った。
それを見てからわたしは立ち上がり顔を洗いに行った。
洗面所から戻ると可恋が座って待っていた。
わたしは可恋の前に腰を下ろすと髪の乾き具合を確認する。
髪の手入れが終わるのを待ってから可恋が口を開いた。
「臨玲の近くに部屋を借りようと思っているの。道場のことを考えてここは残すけどね」
引っ越しではないと分かり、ホッとする。
可恋は「時間はお金で買うものだから」とその利便性を説明した。
経済的に恵まれた可恋にとってお金は普通の人ほど貴重ではない。
だが、可恋は時間には恵まれているとは言えない。
「そこで、物件探しだとか、内装だとか、ひぃなにも考えてもらおうと思って」
「……いいの?」
可恋はシンプルな内装を好むので一緒に暮らすようになってからもわたしは手を出さなかった。
可恋は「受験勉強で忙しかったら私がパパッとやっちゃうけどね」とニヤリと笑う。
「……やる」
可恋はずるい。
わたしが喜ぶことを知りすぎている。
でも、嬉しかった。
いつもは9時に寝てしまう可恋が今日は少しだけ夜更かしして、ベッドの上でいろいろと語り合った。
運動会、修学旅行、文化祭のこと。
高校受験。
進学予定の臨玲のこと。
どんな謝罪の言葉よりも他愛のないお喋りの方が、心が浮き立ち、前向きになり、幸せに包まれる。
そして、こうして思いを共有できる相手がいることが何よりも尊い。
わたしにとって今夜は特別の夜だった。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・中学3年生。ロシア系の血を引く美少女だが肌が弱く紫外線は大敵。夏の屋外は極力避けたい場所。
日野可恋・・・中学3年生。幼少期から空手を習い、トレーニングに関しては一家言ある。
キャシー・フランクリン・・・G8。昨夏来日した黒人アスリート。先日、可恋が舞に彼女を押しつけることに成功した。
須賀彩花・・・中学3年生。ダンス部副部長。面倒見が良く後輩に慕われている。
笠井優奈・・・中学3年生。ダンス部部長。カリスマがあって後輩からの人気は高い。口は悪い。
劉
沖本さつき・・・中学1年生。ダンス部。4年ほど前に関西から引っ越してきた。学校の違う可馨ともすぐに仲良くなった。
宇野都古・・・中学3年生。陸上部。陽稲とは1年の時から仲が良い。
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