第547話 令和2年11月3日(火)「文化的生活」日野可恋

『カレン、ヒーナ。バケーションへ行くぞ!』


 爽やかな笑みを浮かべて親指を立てているのはキャシーだ。

 忍者風のマスクを着けている。

 祝日の今日アポ無しでやって来た彼女を家に入れるかどうか迷いに迷ったが、『帰れ』と言ったらショックを受けた顔で土下座をしだしたので仕方なく受け入れた。


 キャシーにどこから説明していいか頭を悩ませる私より先にひぃなが『いつ、どこへ行くの?』とニコニコしながら尋ねた。

 キャシーは『決まっているじゃないか。ホリデーシーズンだ』とさも当然といった顔で言う。

 アメリカのホリデーシーズンは11月下旬の感謝祭から年末までを指す。

 日本で暮らしている以上、実際はインターナショナルスクールが休暇となる12月中旬以降となるだろう。


『それで、場所は?』とひぃなが聞くと、『ハワイに決まっているじゃないか』とこれまた子どもに諭すようにキャシーは言った。


『そういえば昨年も行っていたものね……』とひぃなはほんの少し怒った目になった。


 キャシーはそれに気づくはずもなく、『ハハハ、冬にハワイに行くのは子どもでも知っているぞ』と彼女の家庭だけで通用する常識を口にする。

 私は『行ける訳ないじゃない』と言おうと思っていたのに、口から出たのは『行ってみたいわね』という言葉だった。

 ひぃながサッとこちらを見る。


『たぶん行ったら二度と日本に帰って来れないでしょうね……』と私が遠い目をして言うと、焦った顔をしたひぃなが私の腕をつかんで「駄目だよ」と揺さぶった。


 寒さが嫌いな私は子どもの頃かなり本気で沖縄に移住することを考えた。

 英語に不安がなくなったいまならハワイが最適かもしれない。

 青い空、青い海に勝る”常夏”の響き。

 寒さに煩わされずに生活できるなんて理想の楽園じゃない!


「可恋、現実に戻って」というひぃなの縋るような声にようやくそれが不可能であることを思い出す。


「ごめん、あまりに魅力的だったから」とひぃなに詫び、キャシーには『精神攻撃を使えるようになるなんて忍者としての腕が上がったわね』と一応褒めておく。


 意味も分からずに小躍りするキャシーに『ハワイでの修行のメニューを組んであげるわ。観光する時間なんて1秒もないわよ』と私は言った。

 ひぃなは「可恋、それって八つ当たりなんじゃ……」と図星を突くが、キャシーは『いいぞ! 日本に帰って来る頃には、ワタシはハイパーニンジャになっているだろう』と喜んでいる。

 ひぃなもそんなキャシーを見て溜息を吐き、好きにすればいいという顔つきになった。


 ひとしきり昨年のハワイでの思い出を語ってから、キャシーは炭酸飲料を買いにコンビニに行った。

 以前は買い置きしていたが最近は訪問者も少なくなったので補充していなかった。

 どうしても炭酸飲料が飲みたいなんて言うのはキャシーくらいだし。


「それにしても早いものだね。今年もあと2ヶ月を切ったんだね」


 わたしがしみじみ言うと、ひぃなは「いろいろあった年だったね」と相づちを打つ。

 世界史的に大きく記述される年になることは間違いない。

 まだこのパンデミックの渦中にあり、終わりは見えていないが……。


「冬休みはどうするの?」と私はひぃなに確認する。


 何か決まれば真っ先に私に知らせてくれるだろうが、予測段階の情報でもそろそろ持っておきたい。

 ひぃなは頬に手を当てると、「たぶん三が日は”じいじ”のところだと思う」と予想した。


「感染のリスクがあるから例年のようなパーティーは行わないと思うけど、田舎だからまったくなくなることもないと思うし……」


 彼女のお祖父様は地域の有力者であり、毎年正月には大勢の客を招いてパーティーを開催している。

 ひぃなはそこで飾り物のような役を担っている。

 規模を縮小して行うにしても顔見せ的な形で参加が義務付けられる可能性は高い。

 ……自慢の孫娘だしね。


「可恋はどうするの?」と問われ、「ずっとここにいたいところだけど、F-SASの方で挨拶回りが必要っぽい」と私は顔をしかめた。


 このご時世だからすべてオンラインで済ませたいところだがスポンサー関連だけはそうはいかない。

 中学生だからとアイリスさんやほかの方に任せたり、ビデオメッセージだけにしたりと対応してきたが、年末年始は避けられない会合がいくつかあった。

 新しい生活様式が浸透した結果直接人と会うことの価値が高まっているので、顔を出すことは代表の義務でもあった。


「そっか」とひぃなが視線を落とした。


 しばらく離れ離れになってしまうことを寂しく思っているのだろう。

 私は彼女の頭の上に手を置き、「できるだけ一緒にいられるように計画を立てよう」と慰めた。

 ひぃなは「わたしは大丈夫だよ」と強がってみせる。


「それよりも可恋の体調が心配」


 私を見上げるその目は真剣だ。

 感染症対策はいままで以上に徹底するつもりだが、リスクをゼロにはできない。

 それに感染症に関係なく冬場は体調を崩しやすい。

 そして一度体調を崩すと長引く傾向にある。

 どれだけ綿密に計画を立てていてもご破算になってしまったことは過去に何度もあった。


「万全を期しても駄目だったら仕方ないよ。いまは楽しいことを考えよう。せっかく受験生なのに勉強せずに済むのだから」と私は微笑んだ。


 高校受験は推薦での合格が確定した。

 臨玲には元々かなりグレーな推薦のシステムがあり、それを利用した。

 私とひぃなは実際に試験を受けても上位での合格は間違いない。

 それでも私の場合は健康面、ひぃなの場合は試験への緊張という不安要素があったので、無試験になってありがたいと感じている。


「年末は気分を変えて、東京のホテルで夜景を見ながら食事なんて良いかもしれないね」と思いつきを口にすると、ひぃなは感極まった顔で「可恋……」と囁いた。


 私を見上げたまま胸元で小さな手を祈るように組む。

 うっとりとした目がゆっくりと閉じていく。

 彼女の愛らしい唇がほんのわずか突き出されたような気がした。


 私はひぃなに顔を近づける。

 いつもなら何かを言って冗談で済ますのに、いまは何も考えることができなかった。

 唇と唇が触れ合う直前、インターホンが鳴った。

 キャシーが帰ってきたのだ。


「居留守にする?」と私が笑うと、「バレてるよ」とひぃなも瞼を上げて微笑んだ。


 その鳶色の瞳には私の顔が映っていた。

 普段より強張った顔が。

 私は顔を上げフーッと息を吐く。


 私に代わってインターホンに出ようとするひぃなの肩を押さえた。

 驚いた顔でこちらを向いたひぃなのわずかに開いた唇に私はそっと自分の唇で触れた。

 それからすぐにインターホンに向かう。

 ひぃなの顔は見れなかった。

 なぜなら私の顔は彼女に見せられないものだったから。




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・中学3年生。このあとキャシーには『10分くらいそこら辺を走ってきて』と命じた。


日々木陽稲・・・中学3年生。予報によると彼女のニヤけ顔は1週間くらい続きそうだ。


キャシー・フランクリン・・・G8。15歳。格闘家としての才能を持つ。『進級はできなかったけどニンジャとしてのランクは上がっているぞ』とのこと。

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