第548話 令和2年11月4日(水)「この世界に女神がいるとしたら」川端さくら

 真冬の暗い雲に覆われたような教室の中で、一ヶ所だけ光が差し込んだようにキラキラ輝いている場所がある。

 そこでは、何か良いことがあったのか今日の日々木さんは普段以上に明るさを振りまいていた。


「臨玲組は良いわね……」とわたしの横で怜南がそちらを眺めながら羨ましそうに呟いた。


 日々木さんを見守るように宇野さんと澤田さんが側に立っている。

 宇野さんはスポーツ推薦で進学が決まり、日々木さんと澤田さんは臨玲高校を受験する。

 臨玲だって平均以上の学力が必要だが、このふたり――に加えて日野さんも――にとっては余裕なのだろう。

 日々木さんは誰にでも分け隔てなく勉強を教えてくれるので、クラスメイトの大半から女神のように崇められている。


「臨玲の偏差値ってそこまで低くないよね?」と受験通の怜南に聞くと、「お金さえ積めば入れるところだから」とまことしやかに流れている噂を口にした。


 そして、「あの3人には関係ないでしょうけど」と肩をすくめた。

 怜南は嘆くかのように「うちの塾にもいるのよ。明らかに頭の出来が違う人が。澤田なんて一度聞いたら忘れないんですって。ズルいとしか言いようがないよね」と言うと顔をしかめてみせた。


 彼女の気持ちは当然凡才であるわたしにもよく分かった。

 わたしが目指しているのは上の下から中の上くらいのランクの高校だ。

 前回の定期テストでは手応えがあり、実際の点数も悪くなかった。

 しかし、順位はほぼ変わらずで受験の厳しさを痛感した。

 わたしが必死に勉強しても、周りも同じように勉強している。

 少しでも油断すればどんどん抜かれていくような焦り。

 本当にいまの勉強のやり方で良いのかといった迷いがわたしの身を焦がしていた。


 怜南はそんなわたし以上にピリピリしている。

 彼女はわたしより上、県下トップクラスの進学校への入学を目標にしていた。

 大手の進学塾に通い、そこで順位を競い合っているそうだ。

 そういう受験生の中にはすでに学校を休み始めている生徒もいる。


「学校を休んで勉強に集中しようとは思わないの?」と聞いてみると、「家と塾だけだと煮詰まってしまいそう。自分より程度の低い連中を見て安心することも必要なのよ」と身も蓋もないことを怜南は言った。


 怜南のようにハッキリとは口に出さないが、きっとわたしにもそんな感情はあるだろう。

 受験はそんな自分の心の貧しさを突きつけてくる。

 わたしは曖昧に頷くと、溜息を吐いた。


「昨日ね、家族と横浜に行って来たの」とわたしたちの会話の流れをぶった切って割り込んできたのは心花みはなだ。


 他人の心配をしている場合ではないが、わたしにとっていま最大の頭痛の種だった。

 彼女はまるで別世界にいるように「これ買ってもらったの」とニコニコと笑顔でアクセサリーを見せた。

 怜南はいつの間にか自分のノートに目を落としている。


「可愛いね」と相づちを打ちつつ、「親から勉強しろって言われないの?」とわたしは尋ねた。


「大丈夫よ」


 これが受験に関してわたしや怜南が聞いた時にいつも返ってくる心花の言葉だった。

 彼女は受験勉強に取り組んでいる気配がない。

 これまで定期テストではあまり勉強をしなくても平均以上の成績を上げてきた。

 だから受験も大丈夫だと思っているのかもしれない。

 だが、試験範囲が広い高校受験で本当に通用するのだろうか。


 心花は模試すら受けていなかった。

 何度も受けるように説得したのに、「大丈夫よ」の言葉で済まされた。

 彼女の家庭はそれなりに裕福そうだし虐待などは微塵も感じさせないが、教育熱心とは言えないようだ。

 行き過ぎた放任の結果大変なことにならなければいいのだけど……。


 3年間同じクラス同じグループに所属し、わたしの中ではいちばんの友だちだと思っている。

 怜南は「受験は自己責任」と言うが、わたしはそこまで割り切れなかった。


「心花の学力ならいまからでも遅くないから、せめて過去問だけでもやろう」とわたしはできるだけ優しく声を掛けた。


 だが、心花はムッとした顔で「大丈夫よ」と言って視線を逸らす。

 彼女は一度機嫌を損ねるとしばらく何を言っても聞かなくなる。

 長続きはしないのだが、受験については頑なに考えを変えようとしなかった。


 それでも、わたしも手をこまねいていた訳ではない。

 担任の藤原先生に相談したこともある。

 しかし、心花は先生の説得にも耳を貸さなかった。

 わたしはほとほと困り果てていた。


「どうしたの? 元気ないよね」


 藁にもすがる思いで向かった先は日々木さんのところだった。

 これ以上心花に関わっていては自分の勉強が疎かになる。

 一方で、放置していても気になって勉強が手につきそうにない。

 日々木さんや日野さんなら力になってくれるんじゃないか。

 虫の良いお願いだと分かっていてもほかに頼れる人がいなかったのだ。


 わたしの話を聞いた日々木さんは「津野さんのことか……」と呟いた。

 学級委員としてクラスメイトのみんなに目を配っていた彼女のことだから、まったく気づいていなかったということはないだろう。


「お話ししてみるね」と言って日々木さんは席を立つ。


 彼女のうしろを宇野さんと澤田さんがついて行き、わたしもそのあとを追った。

 心花は手持ち無沙汰といった感じで自分の席に座っていた。

 最近はグループが機能していなくて、彼女の話し相手を務めるのはわたしくらいなものだ。


「こんにちは、津野さん」と日々木さんがにこやかに話し掛けても、心花は手に持ったアクセサリーの方を見たまま顔も上げない。


「綺麗なアクセサリーね」と日々木さんが興味を示したが、心花は相手にしようとしない。


 思わずわたしは口を挟もうとした。

 しかし、日々木さんはわたしを押しとどめ「それって津野さんが以前着ていたワインレッドのタイ付きのブラウスにとってもよく似合いそうね」と言うと、初めて心花が顔を上げた。

 わたしも心花のそのブラウスは印象に残っている。

 でも、それを日々木さんの前で着たことなんてあったっけ?

 わたしが首を傾げる横で、心花が「そうよ、素敵でしょ」とアクセサリーの自慢を始めた。

 結局、休み時間は心花の買い物の話を延々聞かされただけで終わってしまった。


「津野さんのことはしばらくわたしに任せて、川端さんは心置きなく勉強に励んでね」


 次の休み時間に日々木さんが心花のところへ向かう前にわたしにそう告げた。

 わたしは心花を押しつけたことへの罪悪感から「ごめんなさい。わたし、余裕なんかないのに心花のことにかまけてしまって……。その上、自分では何もできずに日々木さんに頼ってしまって……」と言い訳とも詫びともつかぬ言葉を吐いた。


「情けは人のためならずって言うじゃない。大丈夫。友だちのために心を砕いたことはきっと川端さんに返ってくるから」


 本気でその言葉を信じているような面持ちで日々木さんが語った。

 彼女は人間離れした、まさに神懸かったような容姿の持ち主だが、いまはその彼女自身から神々しさを感じてしまう。

 日々木さんが話す言葉はすべて真実だと思うくらいに説得力がある。

 そして、わたしはなんだか救われた気持ちになった。

 いっそ手を合わせて拝みたくなるほどに。


「日々木さんって凄いね」


 いろいろ感じ入っていたのに語彙力がないわたしの口から出て来たのはそんな変哲もない言葉だ。

 それでも日々木さんは「えへへ、ありがとう」と喜んでくれた。




††††† 登場人物紹介 †††††


川端さくら・・・3年1組。目立たない生徒だがグループリーダーの心花を支えることで居場所を作ってきた。妹がふたりいて、家では彼女たちの気遣いが気になって勉強が捗らないのが悩み。


高月怜南・・・3年1組。さくらの小学生時代からの知り合い。つまらない学校生活で退屈を紛らわすためにトラブルを引き起こそうとする性格の持ち主。


津野心花みはな・・・3年1組。自由奔放で傲慢なところもあるが執着しない性質なので憎めない感じも。


澤田愛梨・・・3年1組。自称天才に相応しい能力は持っている。ただし、スペックは優秀でも……。


藤原みどり・・・3年1組担任。さくらが相談に行くと、逆にクラスの成績上位3人が進学校を目指さないという愚痴を聞かされた。教師としての評価がとか、言うことを聞いてくれないだとか、それはもう延々と……。


日々木陽稲・・・3年1組。学級委員。夏にハイキングにみんなで行った時に心花たちの写真を見せてもらい、それを記憶していた。ファッションに関する記憶力だけは常人離れしている。


日野可恋・・・3年1組。今年度いまだに一度も授業に出席していない。彼女自身は天才ではない、記憶力もそんなに良くないと話すが……。

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