第89話 令和元年8月3日(土)「手伝い」日野可恋

 この週末、東京の武道館で小学生の空手の全国大会が開催される。

 私はその運営の手伝いをすることになった。

 うちの道場から師範代を始め、何人かが協力する。

 そこで、夏休み中の私に白羽の矢が立てられた。

 特に断る理由もなく承諾したのだが、うかうかと師範代の言葉に乗ってはいけないということを忘れていた。


「空手着一式持って来てね」


 朝、車でマンションまで迎えに来てくれた師範代が私に言った。

 キャシーが既に同乗している。

 私の横には、会場でキャシーの相手をしてもらうことになっているひぃながいる。


「どうしてですか?」


「お昼にエキシビションとして形の演武をしてもらうことになっているの」


 私の質問になんでもないような顔で師範代が答える。

 問題が大ありなのだけど。


「聞いてませんが」


「言ってなかったからね。誰かと競い合うための空手は嫌だと言うのなら、これは問題ないでしょ?」


 大会参加の要請をことごとく断っているので、私も強くは言えない。

 しかし、これはだまし討ちだ。

 私が嫌そうに顔をしかめていると、「陽稲ちゃんは見たいよね?」とにこやかに師範代がひぃなに尋ねた。

 将を射んとする者はまず馬を射よの故事の通りに、師範代はひぃなを口説き始めた。


「大勢が見ている前で可恋ちゃんが演武をするのよ。凄いと思わない? みんなに彼女の素晴らしさを知ってもらえるのよ」


 ひぃなは私を気遣って肯定はしないものの、乗り気であるのは伝わって来る。


「分かりました。やりますよ」


 私は投げやりに承諾した。


 午前中は小学校低学年の組み手の試合があった。

 私はスタッフとして選手の誘導などが担当だ。

 コーチがついているとはいえ、良く言えば活発、悪く言えばじっとしていられない子どもたちを相手にするのは気疲れする。

 予測できることには対応できても、想像を超える行動を見せる子どもは本当に苦手だ。

 こういう役目はひぃなの方が遥かに向いてると思いながら仕事をこなした。


 小学生の大会とはいえ、全国大会なので観客は非常に多い。

 お昼の休憩時間だから席を立つ姿も見えるが、それでも観客席はよく埋まっている。

 誰もいない、マットの敷かれたコートに向かう。

 いくらエキシビションとはいえ、まったく実績のない私をこんな場所によくねじ込んだものだ。

 これが来年のオリンピックに出場するような選手なら注目も浴びるだろうに。


 そんな雑念を振り払い、私は集中する。

 やるべきこと、いや、自分の演武を行うだけだ。

 呼吸によって集中を高めていると、喧噪の中でアナウンスがあった。

 簡単な名前と所属の紹介が終わると、私は気合いを込めて一礼する。

 その瞬間に周りの音は消えた。

 観客席や周囲の様々なものが意識の外に消え去る。

 組み合う相手のイメージと、それに対応する自分の身体のイメージ。

 頭の先から足の先まで自分の身体のすべてをコントロールする。

 突きや回し蹴りでも、その手や足だけでなく、頭の向きや角度、肩、背筋、お尻の位置、膝や軸足の体重のかかり具合など多数のチェック項目を瞬時に確認していく。

 私の空手は無意識を排除した常に計算されたものだ。

 正道か邪道かは知らない。

 私ができる空手がこれしかないのだから。


 普段と同じにやっているつもりだったのに、体の内からたぎってくる熱が溢れ出しそうになり、それを声として放出した。

 演武の時間はあっという間に終わった。

 もっと踊り続けていたいような名残惜しさを感じた。

 それを振り切り、一礼して下がる。

 控え室で深呼吸をしてようやく周囲が見えるようになり、音も聞こえるようになった。


 午後は高学年の子が相手ということで、少しは楽になるかと思っていたら、予測は裏切られた。

 何も考えていないように見える動物から、知恵の付いた動物に替わっただけだ。


 準決勝、決勝となってようやく余裕ができた。

 そこまで残る子はしっかりしているし、人数が少なくなって負担も減った。

 試合を間近で観戦する。

 でも、試合よりも、勝って喜び負けて泣く子どもたちの姿が印象に残った。

 それが成長に繋がるのだろう。

 私には無縁の世界だ。

 どちらが良いか悪いかには興味がない。

 師範代からは大会に出なくても同世代の空手仲間を作ったらとよく言われる。

 しかし、勝ち負けにこだわるような友だちはキャシーひとりで十分だろう。


 一日目が終わり、集合場所で待っていたひぃなとキャシーに合流した。


『感動したよ! 可恋、格好良かった。言葉ではなんて言っていいか分かんないくらい』


 キャシーがいるので、ひぃなが英語で言ってくれる。

 ひぃなに喜んでもらえただけで、演武をした甲斐があったというものだ。


『ずっと見てるだけなんてつまらなかった。ワタシも戦いたい! ワタシも出場したかった! いまなら誰もいなんだろう? ワタシと戦って!』


 キャシーは武道館を指差して駄々をこねる。

 今日はもう子どもの相手をする気力がないので、ため息ひとつ吐いただけで相手にしなかった。

 なおも騒ぐキャシーをひぃなが宥めていると、師範代がやって来た。


「今日はご苦労様。あなたたちが待っているからと言って、爺さん連中の食事の誘いを断れて良かったわ」


『サキコ! 勝負したい! どうにかしてくれ!』


 キャシーの思いは切実なようだ。

 確かに、見ているだけだとキャシーには辛かっただろう。

 師範代はこちらをチラッと見るが、私は『明日もあるので今日は早く休みます』と答えた。


『まずは食事にしましょう。帰ったら、何人かにキャシーの相手をしてもらえるように頼んでおくわ』


『ステーキ、ステーキが食いたい!』とキャシーは師範代の提案にすぐに乗った。


 私も昼食が軽くしか食べられなかったので、お腹は空いている。

 肉食3人に囲まれてひぃなは肩身が狭そうだ。


「大丈夫?」と聞くと、ひぃなは苦笑しながら頷いた。


 食後、マンションまで送ってもらった。

 キャシーは道場に帰る。

 明日も手伝いなので、ひぃなはうちに泊まることになっている。


「一日ずっとキャシーの相手は大変だったでしょ?」


 家に帰って一服しながら、わたしはひぃなを労った。


「平気だよ。少し騒がしいけど、乱暴なことはしないし、英語だからちょっと過激なことを言っても誰も分からないしね」


 ひぃなは苦労を感じさせない笑顔で返答した。

 私だとつい怒ってしまう。

 私もひぃなのおおらかさを見習いたい。

 立ち上がって、ひぃなの頭を撫でながら、「明日もよろしくね」と私は言って英気を養った。




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・中学2年生。空手歴は8年ほど。形の選手。


日々木陽稲・・・中学2年生。運動神経はほぼゼロ。


キャシー・フランクリン・・・14歳。空手歴は半月。レスリングなど格闘技歴はそれなり。


三谷早紀子・・・師範代。空手を始めたのは小学校に入る前からなので、空手歴はン十年。空手界では名の知られた存在。

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