第90話 令和元年8月4日(日)「衝撃」神瀬結
衝撃だった。
昨日、わたしは友だちの弟が出場する空手大会に応援しに行った。
その友だちの家族とともに武道館へ。
わたしはお昼前に到着し、友だちとお喋りをしながら午後の試合開始を待っていた。
昼の短い休憩時間に、ひとりの女性が形の演武を始めた。
アナウンスはあったので、エキシビションか何かだったのだろう。
始めはほとんど気にも留めずに眺めていた。
しかし、すぐに引き込まれた。
非常にレベルが高い。
繊細かつシャープ。
それだけではない。
いままで見たことがないような何か、言葉で言い表せない何かがあるような気がした。
わたしは小さな頃から空手をしている。
両親や姉も空手家という空手一家なので、ごく自然に空手を始め、中学1年生のいまも続けている。
選手としての実力は周りから期待されているほどではない。
それでも形の演武を見ることは大好きで、これまで数え切れないほどの演武を見た。
演武を見る目だけは自信があり、お姉ちゃんも認めてくれるほどだ。
1対1で戦う組み手と違い、形の優劣は素人には分かりにくい。
経験者でないと理解できない点が多いのは間違いないだろう。
目の前で繰り広げられている彼女の演武の凄さに気付いている人は、これだけの観客の中でもほとんどいないと思う。
わたしの隣りにいる空手部の友だちだって、十分に理解しているようには見えないくらいだから。
この演武の凄さを伝える言葉を探しているうちに終わってしまった。
もやもやした気持ちが残る。
秘密を解き明かせないうちに時間切れになった感覚だ。
高校生か大学生くらいの競技者は演武が終わると余韻にふける間もなく下がっていった。
「今の人、誰だか分かる?」と友だちに尋ねる。
当然、彼女は首を横に振った。
プログラムにもエキシビションの記載はなかった。
本来の目的である友だちの弟の応援に集中できないまま、大会の一日目が終了した。
帰宅するとすぐに、道場に向かった。
空手道場やスポーツジムを経営していて、お父さんは道場の指導者だ。
仕事中なのは分かっていたが、一刻も早く今日のことを話したかった。
「武道館に行って来たけど、そこで凄い演武を見たの」
「今日は組み手だろう?」
「お昼にエキシビションみたいな形でひとり女の人が演武をしたんだけど、誰だか分からないの」
見た感じは日本人だったが、日本人の有名な形の選手の顔はほぼすべて把握している。
彼女の顔は見たことがなかった。
お父さんは頭をかきながら指導を他のスタッフに任せて、わたしを自分の部屋に連れて行き、連絡を取ってくれた。
「神奈川の三谷さんのところの中学生だそうだ」
すぐに身元は判明した。
しかし、その言葉にわたしは驚いた。
「中学生!」
体つきも落ち着き具合も中学生には見えなかった。
「じゃあ、全中に出て来るの?」
二週間後に中学生の全国大会が開催される。
わたしも出場するその大会に彼女も出て来るということか。
わたしが彼女に勝てるとは到底思えない。
「いや、出ないそうだ。本人が大会に興味ないらしい。あそこの師範代はやり手だから、彼女の才能を見込んで将来の強化候補選手として売り込んだというのが真相で、実際に高評価だったようだ」
あれだけの演武をしながら大会に興味がないということに、驚きとわずかな違和感があった。
なんだろう、これは。
「明日もスタッフとして参加するそうだ。会ってみるか?」
わたしは考えるよりも早く頷いた。
今日は組み手の試合が行われる。
わたしは観戦に訪れた。
道場やジムの経営者であるお母さんが付き合ってくれた。
お母さんも形の選手だったので、子どもたちの演武を評価し合いながら見ていた。
去年までわたしはこの大会の出場者だった。
勝って当たり前という視線は辛かったが、こうして観客席から眺めていると懐かしさも感じた。
大会の終わり頃に会場を出て、待ち合わせ場所であるファミレスへ向かう。
関係者に見つかると挨拶挨拶で抜けられなくなるとお母さんは苦笑する。
なぜファミレスなのかと思ったら、「昨日バカ高いステーキを奢らされたし、子どもに贅沢ばかりさせる訳にはいかないので」と三谷先生が仰っていたとお母さんが笑って教えてくれた。
三谷先生は同じ関東なので何度かお会いしたことがある。
女性への指導に定評があり、海外での指導経験もある方だ。
気さくで、何度か声を掛けてもらった。
しばらく待っていると、その三谷先生が三人の女性を伴って現れた。
「こちらが昨日の演武を行った日野可恋。結ちゃんよりひとつ上の中学2年生。こちらが私のところにホームステイしているキャシー・フランクリンで14歳。こちらは日野のクラスメイトの日々木陽稲さんでキャシーの付き添いとして来てもらっています」
日野さんはそう言われても高校生のように見えてしまう大柄でスラッとした女性だ。
とても美しいお辞儀をしてくださった。
キャシーさんは180 cmを越える黒人の女性で空手以外の格闘技の経験者に見えた。
日々木さんは小柄で白人のような外見をしている。
歳下のようにも見えるが、落ち着きがあるので、雰囲気だけなら日野さんと似たようなものを感じた。
「わたしは
姉の名前を知っているのは日野さんだけのようだった。
自己紹介を終えて席に着く。
わたしの向かいに日野さんが座り、その隣りに日々木さん、キャシーさんと並ぶ。
わたしの横にお母さん、その隣りに三谷先生が着席した。
料理の注文を終えると、キャシーさんが『ユイ、お前は強いのか?』と訊いてきた。
『小学生の時は形で優勝しましたが、組み手は強くないです』と答えると、『カレンは形も組み手も強いぞ』とキャシーさんが日野さんを見て教えてくれた。
『英語、上手ですね』と日野さんに褒められ、『姉の応援で何度か海外に行きましたから』とわたしは答えた。
『彼女のお姉さんの
料理が運ばれてくると、がっつくように食べる面々の中で、ひとり日々木さんだけが女の子らしい食べ方だった。
「日々木さんは、空手は……」と尋ねると、「わたしは本当に付き添いに来ただけだから」と親しみのある笑顔で答えてくれた。
「わたしがキャシーの相手をするから、結さんは日本語で可恋と話していても大丈夫だよ」と日々木さんが気を利かせてくれる。
わたしは日々木さんに感謝を伝えてから、正面の日野さんに話し掛ける。
「昨日の演武を見ました。素晴らしいと思いました」
「ありがとう」
いつものわたしなら、あの演武がどれほど素晴らしかったか語り尽くしたいと思っただろう。
しかし、いまだにうまく言葉にならなくて、そのもどかしさから昨日感じた疑問をぶつけしてまった。
「あの……全中に出られないと聞きました。どうしてなのか、うかがってもいいですか?」
日野さんは言葉を探すように口籠もる。
わたしは自分の言葉が足りないように感じて、日野さんが答える前に話し続けた。
「わたしは、
一ファンとしてあの演武を大会で見たいと思った。
そして、同じ大会で競い合う仲間になれたらとも。
「私は勝ち負けに興味がないと、ずっとそう思ってきました。でも、それが本心なのか、そう思いたかっただけなのか、いまのあなたの言葉で突きつけられたように感じます。私は
日野さんは一言一言に思いを込めるように語った。
その姿に閃くものがあった。
「姉の、
わたしが姉のことを他人に語ったことは初めてだ。
日野さんならわたしの言っている意味が分かってくれるのではないか。
「日野さんの、昨日の演武からは、自分というものが強く出ているように感じました。悪い意味ではなく、自分というものを表現する気持ちが表れた演武だったと思います。そうした自己表現をするのであれば、大会の場が相応しいと思うのです」
わたしの言葉に日野さんがすっと目を細めた。
「済みません。歳下だと侮っていました。見事な分析です。確かに、私は演武を通して自己表現しようとしています。それは未熟なことかもしれませんが、私にとって空手とは生きた証なのです。ただ、そうですね、その証は不特定多数に見せようとするものではなく、自分を理解してくれる存在に伝えられれば十分だと思っています」
日野さんはそう言うと、隣りの日々木さんをチラッと見た。
「あなたも、
日野さんの言葉に真っ先に浮かんだのは姉の顔だった。
「余計大きなプレッシャーを感じてしまうのですが」
「そのプレッシャーを克服できた時の喜びは大きいと思いますよ」
喜び、か。
いつの頃からか優勝しても喜ぶより安堵することの方が多かった。
自分で自分にプレッシャーをかけていただけだったのかな。
「アドバイスありがとうございます。全中ではそれを目標にします」
わたしはほんの少し肩の力が抜けた気がして、自然と顔がほころんだ。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学2年生。空手、形の選手。大会への出場経験はごくわずか。
日々木陽稲・・・中学2年生。空手の大会を見学するのは今回が初めて。小1の女の子にも勝てないと感じた。
キャシー・フランクリン・・・14歳。空手、組み手の選手。空手歴は半月。レスリングの経験があり大会で優勝したこともある。
三谷早紀子・・・可恋が通う道場の師範代。空手、組み手の選手だった。
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