第426話 令和2年7月5日(日)「日曜の朝」日野可恋

 ひぃなの口から「あっ」と小さな声が漏れた。

 朝食の片付けで皿やグラスを運んでいた彼女は、キッチンとダイニングの間にあるカウンターに左手のグラスを載せようとして右手に持った皿をどこかにぶつけたようだった。

 スローモーションのように落ちる皿に私は手を伸ばす。


「届く訳ないよね」


 キッチン側にいた私ではどうしようもない。

 皿はパリンと小さな音を立てて床に落ちた。

 私はカウンターの上に身を乗り出して様子を見る。

 ひぃなは慌ててグラスを置き、身をかがませた。

 一緒に食事を摂った母が「大丈夫?」と立ち上がった。


 カウンターを飛び越えるなんて無茶な真似はせず、グラスを流しに置くと水を止め、私はダイニング側に回り込む。

 その際に割れた皿を入れるための茶色い紙袋を持って行く。


 ひぃなは綺麗に真っ二つとなった皿を手に持って立ち上がり、「ごめんなさい」と謝った。

 母は「ケガがなくて良かったわ」と安堵し、私は「気にすることないよ」と微笑む。


「ダイニング側にも踏み台を置いた方がいいかな。ただ踏み台に蹴躓く可能性もあるから難しいところだよね」


 割れた皿を紙袋に入れてもらい、床を確認しながら踏み台について考えた。

 この部屋は私や母の身長に合わせたものが多い。

 母も女性にしては大柄な方なので、小学生と変わらない身長のひぃなにとっては不便なところがあるだろう。

 ひぃなが念のため掃除機をかけ、これで一件落着だと思ったが、彼女は深刻そうに眉間に皺を寄せていた。


 私がどれだけ気にする必要はないと言っても、ひぃなは気になってしまうのようだ。

 そういう心理は理解できる。

 だったら……。


 掃除機を片付けて戻って来たひぃなに、私は「罪悪感があるのなら、ひとつ罰を与えるね」と澄ました顔で語り掛けた。

 目を瞬いた彼女は私を見上げる。

 その顔には驚きと恐れに混じって、何が起きるのかワクワクする気持ちも浮かんでいた。


「いい? これから私が述べる報告に対して、不平不満や愚痴、拗ねたり怒ったりする発言をしてはいけない」


 私は感情を押し殺して罰の内容を告げる。

 キョトンとした顔になったひぃなは、しばらく考え込んでから警戒するような顔つきになり、「分かった」と覚悟を決めて頷いた。


「毎月大学病院で検査を受けているじゃない。その時に身長も測るのよ。6月末の検査で、とうとう170 cmに達したのよ」


 私がニコリと微笑むと、ひぃなは口をあんぐりと開けていた。

 もっと激しいリアクションがあると思って”罰”としたのにがっかりだ。

 そう感じていたら、ひぃなは両の拳を固く握り締め、いまにも地団駄を踏みそうな姿勢になっている。

 かろうじて「おめでとう、可恋」と絞り出したが、ほかにも口から飛び出しそうな言葉を必死に我慢しているようだった。

 ひぃなは金魚のように口をパクパクさせながら、湧き上がる言いたいことを言葉にできずにのたうち回っている。

 母はそんな私たちのやり取りに呆れたのか、自分の席に戻って新聞を睨んでいた。


「ごめん、ごめん。罰が重すぎたね。もういいよ、喋っても」


「可恋ばかり身長が伸びて、どうしてわたしの身長は伸びないの! いえ、わたしの身長だって伸びているのよ! でも、可恋も伸びるから全然追いつかないし……」


 ひぃなは早口でまくし立てるように延々と身長が伸びない理不尽さを語り出した。

 こういう時は”壊れたレコード”や”壊れたテープレコーダー”のようだって形容されるんだよね、確か。

 レコードやテープレコーダーが身近ではないのでピンと来ないけど。


 ひぃなもつい先日行われた身体計測で身長が伸びたとは言っていた。

 本人が明かしていないのでどの程度伸びたかは知らないが、本人が望むほどではなかったようだ。

 食事や運動面でフォローはしているが、こればかりは私でもどうしようもない。

 本人が納得するしかない話だ。

 私の身長を言わないこともできたが、服関連のやり取りの中でいつかは知られそうだし、割った皿への罪悪感は吹き飛んだようだから満足いく結果だと思うことにしよう。


 そんなことを考えていると、ぜえぜえとひぃなが息切れしている。

 私は一服しようと提案してお湯を沸かす。

 3人分の紅茶を淹れてダイニングへ運び、それぞれの前へティーカップを並べてからひぃなの隣りの席に着く。


 さすがにこれ以上身長の話をして興奮させるのもマズいと思い、話題を変えることにした。

 紅茶の心地よい香りには適した話題とは思わないが……。


「キャシーから連絡があったのよ」


「キャシーの身長を分けてもらうってできないかな?」と気持ちを切り替えていないひぃなの発言をスルーし、「彼女、もうすぐ誕生日でしょ。学校の友だちや空手の知り合いを集めて、100人くらいでパーティを開くぞなんて言い出してね、この時期に」と私はわざとらしく溜息を吐く。


「え……」とひぃなも呆れた顔になった。


 このところ東京の新規感染者数は100人を超えている。

 日常が戻りつつあるとはいえ、不安に感じる人は少なくない。

 そんな最中にクラスターが発生しそうなイベントをおおっぴらにやろうだなんて状況判断ができていないにも程がある。


「無理だって一喝しておいたけどね」と言ってもひぃなは心配そうな表情を見せた。


「そもそも進級できない人には誕生日は来ないと言ってやったのよ」


「え……」とひぃなが絶句する。


 今度は私に対して非難めいた視線を向けた。

 私は苦笑し、「良い子にしてたらプレゼントを贈るって言っておいたから、無茶はしないと思うよ」と話した。

 シャロンや結さんを始めキャシーが呼びそうな人には、彼女が何かしでかしそうなら連絡するように言ってある。

 万全の手を打っていてもまだ安心できないのがキャシーの厄介なところだが……。


 すでにプレゼントの準備を進めているひぃなは「喜んでくれるといいな」と優しい笑みを浮かべている。

 そして、「可恋は何を贈るの?」と聞いた。


「キャシーの両親にゲーム機を買ってもらって、私はゲームソフトを贈ろうかなって」


 意外な回答だったのだろう。

 ひぃなが目を見張って、「勉強しなくなるんじゃないの?」と尋ねてきた。


「もともと勉強していないから、これ以上減ることはないよ」と私は笑う。


「空手の練習をサボるようになったりしない?」


「そんなにゲームが好きになったら、プロゲーマー目指せって言うよ」


「いいの?」とひぃなは驚いている。


「キャシーなら格闘家とプロゲーマーの二足のわらじでもやってのけそうだよ」と私は意に介さない。


「ゲームの持つ教育的側面にも少しは期待してるけど、それはともかく喫緊の課題として彼女をフラフラ外出させないことが重要なんだ」


 インターナショナルスクールは年度替わりなので日本の学校のように夏休みの短縮という手は取りにくい。

 再開はしたものの自由登校の形になっていて、それも間もなく終了する。

 オンライン授業をサボっていたキャシーは補習として登校しているが、ずっと続く訳ではない。


「また道場にホームステイさせる予定だけど、日本の学校はまだ夏休みじゃないからキャシーの相手をする人がいないのよ」


 それに夏の暑さを考慮すると一日中稽古というのは現実的ではない。

 ゲームにでもハマってくれないと、彼女の行動を制限できる能力を持つ人間がずっとつき合う必要が出て来てしまう。

 もちろん私は丸一日キャシーにつき合おうなんて苦行をする気はまったくない。


「私が登校できれば、何か理由を作って学校に連れて行くことも考えたんだけどね」


 私の体質を考えるとリスクは取りづらい。

 さすがに私がいないとキャシーを制止できないからこの計画は断念した。


「学校に?」と興味深そうにひぃなが質問したので計画の一端を披露した。


「言葉の問題があるから英語教師である君塚先生に押しつけようかなって」


「それって単なる嫌がらせじゃない」と口では怒っているが、ひぃなも目元は笑っている。


「鎖に繋いでおく訳にもいかないから」と私が嘆息すると、「犬じゃないんだから。大型犬っぽいけど」とひぃなが犬になったキャシーを想像して微笑んでいる。


 ひとつだけ明確な事実がある。

 キャシーより犬の方が扱いやすいということだ。




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・中学3年生。少なくともここ数年食器類を壊した記憶はない。ただし、トレーニング器具を始め日常の生活用品を力の加減を間違えて壊すことはたまにある。特にスマホは何度か……。


日々木陽稲・・・中学3年生。自宅では食器を破損した経験はあるが、可恋の家では初めてだったのでショックを受けた。


日野陽子・・・可恋の母。そそっかしいところがあるので、年に何度かはものを壊す。落としても割れない皿にすればいいのにと何度か可恋に言ったが、美しくないのひと言で退けられた。


キャシー・フランクリン・・・G8。可恋の家にはこれまでに十数回訪れているが、割った食器の数は片手では足りない。力加減が苦手なため、自宅や道場ではプラスチック製を使うことが多い。それでも壊す。

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