第226話 令和元年12月18日(水)「集中力」笠井優奈

「なんでこんな時間に起きなきゃいけないんだよ」とぼやきながら、アタシは家を出た。


 今日は暖かくなると天気予報で言っていたが、朝は空気が冷たい。

 凍えるほどではないし、晴れていて気持ちの良い朝ではあるが、両手をダウンジャケットのポケットに突っ込み、駅へと歩き出した。

 こんな朝早くなのに、駅前には足早に歩くサラリーマンやOLの姿があった。

 それを横目で眺めながら、アタシは寒い中を駅前の道端で身を竦めながら待つ。


「寒いだろ……まだかよ」とイライラし始めた頃に待ち人が現れた。


 グレーのトレーニングウェアを上下に着込んだ日野が息を切らすこともなく駆け寄ってきた。

 アタシが「おせーよ」と文句を言っても、「時間通りよ」とスルーされる。

 日野は「ついて来て」と走り始める。

 アタシは眉をひそめ、「走るのかよ」と文句を言い掛けたが、既に日野は走り始めたあとだ。

 アタシもダウンジャケットの下はトレーニングウェア姿だ。

 しかし、準備運動もなしにいきなり走り出すとすぐに息が上がる。

 チャリで来れば良かったと考えたが、それはそれで寒そうだ。

 日野はアタシにお構いなしに走って行ったが、目的地はすぐ近くだった。


 麓のボクシングジムに行った時は、建物の外見からはジムだと分からなかったが、こちらはいかにも空手道場という外見だった。

 古い木造の門があり、中は和風の庭になっている。

 正面の住宅へ進むのではなく、日野は「こっちよ」と脇道へ入っていく。

 その先には独立した木造建築があり、どうやらここが道場のようだ。


 日野に連れられ中に入ると、木造家屋特有の匂いが鼻につく。

 大きな玄関で靴を脱ぎ、正面の扉ではなく脇の通路を進んで奥へ行く。

 その突き当たりの扉をノックして日野が入る。

 あとに続くと、古くて狭い部屋だった。

 壁は一面を除いてスチームラックが置かれ、そこには部外者からはゴミにしか見えないものが無造作に積み上げられていた。

 カビの臭いが漂い、こんな部屋に1時間もいたら発狂しそうだ。


 部屋の真ん中に安っぽいスチール製の机があり、入口の方を向いて女性が座っていた。

 その人は机の上にノートパソコンを置き、それを見ていたようだが、アタシたちが入室すると顔を上げてこちらを見た。

 どこにでもいるようなおばさんだが、その視線だけ異様に鋭く感じる。


「ようこそ」と立ち上がり、人懐こそうな笑みを浮かべ、アタシに手を差し出した。


 アタシは右手を差し出す。

 すると、両手でアタシの手を取った。

 その手は女性のものとは思えないほど硬く厚みがあった。


「よろしくね、えーっと、笠井さんだっけ」


「はい、今日はよろしくお願いします」とアタシは頭を下げた。


 日野は「着替えて来ます」と部屋を出て行き、アタシだけが取り残される。

 目の前の女性は日野から事前に聞いたところでは、この道場の師範代で実質いちばん偉い人だそうだ。


「ダンスをやっているんですってね。可愛いから映えるでしょうね」と褒めてくれる。


「でも、空手もやってみない? 形はダンスのようなものよ。あなたならすぐに全国を目指せるようになるわよ」とすぐに勧誘された。


 日野から必ず誘われるからと聞いていたが、会ってすぐかよとツッコみたくなる。


「いまはダンスだけで精一杯なので……」


「そう? それは残念ね。気が向いたらいつでも来てくれていいからね」


 そこまで言ってからようやくアタシの手を離し、机の上のノートパソコンを手に取り、アタシに部屋を出るように促した。

 師範代は扉を閉め、特に鍵をかけるでもなくアタシを先導して歩き始める。


「古い建物でしょ? 更衣室なんかは改装したんだけど、なかなか手が回らなくてね……」とぼやきつつも、「女性用の更衣室だけは最新で綺麗なのよ。帰りに見学していってね」とアピールも忘れない。


 すぐ近くの扉の先に進むと板敷きの広い空間に出た。

 ここが稽古場だろう。

 すでに空手着姿の男女がかなりいて、準備運動に励んでいた。


 師範代にパイプ椅子を用意してもらい、正面の壁際に座る。

 稽古が始まったら椅子から立ち上がらないようにとだけアタシに注意して、師範代は「着替えて来ます」と離れて行った。

 空手着姿の男性はおっさんばかりに見えるが、女性は比較的若い印象だ。

 もちろん、みんな強そうだ。


 しばらくすると日野が入って来た。

 アタシをチラッと見たあと、準備運動を始める。

 日野の空手着姿は初めて見た。

 普段とは別人のようだ。

 学校では周囲に気を配っているイメージが強かった。

 ここでは自分自身と向き合っているように感じた。


 師範代が着替えて戻って来た。

 アタシに微笑みかけると、すぐに前を向き、全員の前に立つ。

 稽古場にはかなりの人数が揃っていて、その視線が師範代に注がれていた。


「礼、始め!」という号令とともに一斉に人が動き出す。


 揃って一礼したあと、道場内に喧噪と地響きが鳴り渡った。

 空気が一変した。

 稽古が始まる前も人がいたからざわめきは聞こえていた。

 しかし、稽古が始まると、人の持つパワーがこんなにあるのかと思うくらい圧倒的だった。


 今回の朝稽古の見学は、日野とダンス部の練習メニューを練っている時の会話がきっかけだ。

 あれもこれも採り入れたいと練習時間を増やそうとするアタシに、日野はことごとく反対した。

 彼女が強調したのは集中力だった。

 集中力が欠けた練習は百害あって一利なしと日野は言い切った。


「踊っているところを見ても分かるでしょ? 集中しているかどうか」


「そりゃ、まあ」と頷くと、畳みかけるように「そんなダンスをしていたら悪いクセがつくし、ケガもしやすいわ」と日野は主張した。


「だけど、集中力を身に付けるには長い練習も必要なんじゃ」とアタシが言っても「無意味」と切り捨てる。


「筋肉にせよ集中力にせよ本当に身に付けたかったなら、適切な食事、規則正しい生活、しっかりした睡眠、この三つの方が遥かに重要よ。それを疎かにして練習してもデメリットが大きいわ」


「でも、練習をたくさんやったら自信がつくって言うじゃん」とアタシは反論する。


「それは間違いではないわ。しかし、それで自信をつけた場合、練習できなかった時はどうするの? いつも万全な練習ができるとは限らないでしょ?」


 どうしたって口で日野に勝てるとは思えない。

 まして日野の得意とするトレーニングの分野なら。


「自信をつける方法なんていくらでもある。わざわざケガのリスクが高い方法を選ぶなんて、指導者の怠慢か選手の自己満足に過ぎないわ」


「それ、オリンピック選手とかにも面と向かって言えるのかよ」


「言えるわよ」と日野は気負いもなく答える。


 日野はこういう奴だ。


「大切なのは練習量ではなく、練習中の集中力をいかに高めるかよ。そうね……、一度、朝稽古を見学してみない?」


 その言葉に興味を持ち、朝早く起きてここに来た。

 そして、アタシがいままで考えていた集中力とは次元の違うものがあると知った。

 1時間の稽古はあっという間のようにも、永遠のようにも感じた。

 練習の密度がものすごく濃いというのは伝わった。

 この濃さならアタシは1時間どころか30分も続けられないんじゃないか。

 自分の目で見て、日野の言葉の意味がようやく理解できた気がした。


「どうだった?」と稽古を終えた日野に声を掛けられた。


 言いたくはなかったが、「ヤバかった」と衝撃を伝える。

 空手の稽古って突きや蹴りの練習を全員で揃って延々とやるような印象だったが、まったく違った。

 そういうものもあったが、数分ごとに指示もないのに練習内容が切り替わり、中盤以降はあちらとこちらで別の練習をしていた。

 1時間どこにもたるみがなく、最後まで一定の熱量が保たれていた。

 見ているだけで自分も練習に参加したかのように疲れていた。


「更衣室、見学する? それとも、ここで休んでる?」と日野に問われ、虚脱した身体に気合を入れて立ち上がる。


 負けた気になりそうだったので、「行く」とアタシは強がってみせた。

 そして、日野と並んで歩きながら、「こんな練習、できるようになるのか?」と聞いてみた。


「さすがに中学生では無理ね」と日野は苦笑する。


「ここまでできなくても、集中力の高い練習がどういうものか分かったでしょ?」


「ああ」とアタシは頷き、それと同時に浮かんだ疑問を口にする。


「じゃあ、なんでみんな練習量を増やすんだ?」


「その方が頭を使わなくて楽だから」と日野は即答した。




††††† 登場人物紹介 †††††


笠井優奈・・・中学2年生。新設したダンス部の部長。トレーニングメニュー作りを日野に協力してもらっている。


日野可恋・・・中学2年生。空手、形の選手。実力はこの年代では全国トップクラスと言われているが、大会には出場していない。

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