第138話 令和元年9月21日(土)「運動会」日々木陽稲
「緊急事態」
昨日の放課後のことだ。
可恋は手に持ったスマホを怖い顔で睨みつけ、硬い声を発した。
すぐさま「職員室に行ってくる」と教室を出て行く。
教室の隅で純ちゃんとふたりのんびり待っていると、可恋が戻って来た。
松田さんたちに声を掛けたあとで、こちらにやって来た彼女は不快な表情で「母が逃げた」と一言わたしに告げた。
「何があったの?」とその物騒な発言の意図を問うと、「急用で香港に行くって連絡が来た」と吐き捨てるように可恋は答えた。
明日の運動会にキャシーが見学に来る。
彼女をひとりにしておく訳にはいかず、そもそも部外者なので入場できないのだけど、可恋のお母さんが付き添うということで許可をもらうことができた。
可恋は先週お母さんにこっぴどく騙されたので、その仕返しをすると息巻いていたのに、尻拭いをするはめになってしまった訳だ。
「どうするの?」と心配になって尋ねると、可恋は「キャシーが諦めると思う?」と質問を返した。
わたしが首を横に振ると、可恋はため息をついて「小野田先生に相談したら、部外者でもいいから誰か付き添える人を用意しろって。猛獣扱いなので、鎖をしっかり持てる飼い主が必要ってことだね」と苦笑した。
許可を取り消してトラブルを起こすよりは、対応できる人物を置いた方がマシという判断なのだろう。
「師範代がいれば良かったんだけど、こんな時に限って用事があってね。仕方がないから助っ人を呼んだ」
「助っ人?」とわたしは首を傾げた。
その助っ人がいまわたしの目の前にいる。
「お久しぶりです。呼んでもらえて、昨夜は楽しみで眠れないほどでした」
満面の笑みを浮かべるその顔は寝不足と思えないほどツヤツヤしている。
「急に来てもらって本当にありがとう。助かったよ。稽古あったんでしょ?」
「日野さんに呼ばれたらいつでもすぐに馳せ参じます!」と彼女は握りこぶしを胸元に作ってみせた。
助っ人、
初めて会ったのは8月初旬に東京でだった。
可恋の空手を見た彼女が会いたいと言ってきて、話す場が用意された。
わたしも同席したが、その時の結さんは純粋に可恋の空手を評価していた。
札幌の空手大会では、わたしは彼女の試合を観戦するのみで直接会うことはなかった。
可恋とは一緒に空手を観戦したり、稽古したりしたと聞いている。
可恋が彼女の道場を訪問した時はわたしも同行した。
その時は彼女が可恋に憧れの視線を送っていることに気付いた。
同世代の空手家同士なので、その後も連絡を取り合っているのは当然のことだろう。
ただ、ここまで結さんの態度があからさまになっているとは思わなかった。
学校の正門前で、わたしと可恋と純ちゃんはふたりの到着を待った。
時間通りにキャシーを連れてやって来た結さんは、とても気合いの入った服装だった。
白いフリルがいっぱい付いたブラウスに、可愛いクリーム色のカーディガン、ライトグリーンのふんわりとしたマキシスカートで筋肉質の体型をうまく隠していた。
雨が降れば、そのくるぶしまで届くロングスカートは泥はねして大変そうだったけど、なぜか曇り空から雨は落ちてこない。
ふたりを運動場に案内する道すがら、キャシーはいつものように英語で話し掛けてくる。
結さんと並んでわたしの前を歩く可恋が気になって英語に集中できない。
夜に少し降ったのか濡れた地面に戸惑う結さんを可恋が気遣う姿を見せると、思わず吠えたくなってしまう。
キャシーにうるさいって八つ当たりするくらいしかできないんだもの。
わたしと純ちゃんは教室に向かうが、可恋は設営の準備を手伝いに行った。
別れ際に「ひぃな、怒らないで」と可恋は優しく言ってくれたのに、わたしは「怒ってない」とつっけんどんに返してしまう。
別に可恋が悪い訳じゃない。
頭では分かっている。
結さんを呼んだのも他に選択肢がなかったからだ。
キャシーと面識があり、英語が話せる人なんて数えるほどしかいない。
ましてキャシーの腕力と対等にやり合える人なんてごくわずかだ。
キャシーは身長180 cmを優に超える黒人の女の子だ。
年齢はわたしと同じなのに、とてもそうは見えない。
アメリカではレスリングを経験し、日本に来て空手を始めた。
競技歴はわずか2ヶ月ほどだが、暴れたら止められる人はそうはいない。
一方の結さんは、先日空手の世界大会で優勝した人の妹で、可恋同様子どもの頃から空手をやっているそうだ。
わたしたちよりひとつ歳下だけど、鍛え上げられた身体はとても強そうに見える。
今日は着飾っているから普通の中学生っぽく見えるが、姿勢の良さなんかは可恋と共通する部分だ。
教室に入る手前で、珍しく純ちゃんに引き留められた。
「どうしたの?」と聞くと、「怖い顔してる」と言われた。
不機嫌な気持ちを周りに振りまくのは本意ではない。
わたしは何度か深呼吸をして心を落ち着かせる。
なんとか笑顔を作り、純ちゃんに「ありがとう」と感謝した。
前日まで雨確定だろうという天気予報が一転して曇りとなった。
昨日のうちに体育館で行う準備が整えられていたのに、急遽運動場となり慌ただしい気配を見せている。
松田さんは可恋同様運動会実行委員の手伝いに向かったそうだ。
創作ダンスのリーダーの笠井さんは運動場でのダンスの注意点をひとりひとりに伝えている。
準備が遅れているようで、着替えたあともしばらく教室に待機となった。
運動会でのわたしの出番はごくわずかだ。
創作ダンスと学年別に行われる色物っぽい競技だけ。
ダンスもみんなのように華麗に踊るのではなく、ニコニコ笑って手を振っている程度。
それなのに、なぜか緊張してきた。
可恋のお蔭で試験では緊張しないで済むようになってきた。
でも、取り返せない失敗を極度に恐れるわたしの性格が変わった訳ではない。
人に見られることは平気だし、人とのコミュニケーションにも自信がある。
一方で、自分が失敗して誰かに迷惑が掛かったり、やり直しができなかったりする場面では身体が動かなくなってしまう。
小学生時代、学芸会ではセリフが出て来ず、ピアノの発表会でも頭が真っ白になった。
去年の創作ダンスはあまり目立たないように配慮してもらったが、笑顔は凍り付き、ただ立っているだけだった。
今年もみんなのダンスに花を添えるだけの存在だ。
それが分かっていても緊張で大失敗をしてしまうんじゃないかと不安になってくる。
わたしは側にいる純ちゃんにしがみつく。
可恋の代わりと言うと純ちゃんに失礼だが、可恋がいないいま彼女に頼るしかなかった。
「ひぃな、大丈夫?」
いつの間にか、わたしは純ちゃんに抱きかかえられていた。
頭を上げると、可恋の心配そうな顔があった。
大丈夫の言葉が出て来ない。
きっといまのわたしは青ざめた顔をしているだろう。
そんなわたしを、可恋は純ちゃんから強引とも言えるような勢いで奪い取った。
そして、ギュッと抱き締めてくれる。
ちょっと痛いくらいだけど、とても安心する。
「私の心はいつもひぃなと一緒だよ」
わたしの耳元で囁く可恋の声は果てしなく優しかった。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・中学2年生。運動会には良い思い出がない。
日野可恋・・・中学2年生。身体が3つくらい欲しいと思う今日この頃。
キャシー・フランクリン・・・14歳。G8。日本語を覚えようという気がまったくないアメリカン。
安藤純・・・中学2年生。極めて無口だけど、陽稲相手には話すことがある。
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