第593話 令和2年12月19日(土)「映画女優」日野可恋
ひぃなは朝から上機嫌だった。
出掛けるまで彼女の鼻歌が途切れることがなかったほどだ。
今日の私の服装は彼女が選んだものである。
ふんわりとした白のセーターや明るい臙脂のパンツ、果ては下着に至るまでこれを着るようにと厳命された。
事前に「寒いからスカートは嫌」と言っておいたのでそれは避けてくれたが、インナーをもっと保温性の高い厚手のものにして欲しいというお願いは聞き入れてもらえなかった。
誰も見ないのにという私の呟きに、ひぃなはオシャレについて滔々と語り始めた。
キャシー同様、私も彼女の熱意に屈するよりほかなかった。
晴れてはいるが、非常に冷え込んでいる。
私はダークブラウンの革のコートを羽織る。
ひぃなは深みのある赤のワンピースの上に暖かそうなファーがついた毛皮のコートを着た。
コートも見るからに高そうだったが、手織りのワンピースは職人の仕事を感じさせるものだ。
その上品な出で立ちは今日の映画鑑賞に対する彼女の気合の表れだろう。
1年前もこの時期にふたりで映画を見に行った。
その時は横浜だったが、感染が拡大している現状を鑑みて横浜を避け近隣の市にあるシネコンに行くことにした。
神奈川県は連日過去最高レベルの新規感染者数が報道されている。
それでも人は慣れてしまうのか、週末の繁華街は賑わいを見せていた。
この映画の公開を待ちわびていたひぃなは朝いちばん始めの上映に予約を入れていた。
それを見終わってからしばらく街中を散策する。
店――特に衣類やアクセサリーを扱ったところ――に入ると出て来なくなるので、そういう店は午後から行くことにしている。
ウィンドウショッピングを楽しみ、お昼近くになって席を取っているフランス料理店に向かった。
ここは私が通う空手道場の知り合いに教えてもらった店で、味もさることながら感染症対策がしっかりしていると聞いていた。
お値段は張るが、ゆったりした店内は落ち着きがあり喧騒とはほど遠い。
冷えた身体を温めるためにお勧めのブイヤベースを注文する。
思ったよりもボリュームがあり、食べる前にひぃなの分を1/3ほど取り分けた。
彼女は少食なので食べ切るのは難しい。
私もこのところ朝稽古に出ていないので食べ過ぎには注意をしているが、午後ひぃなの買い物につき合う負担を考えればしっかり食べておいた方が良さそうだ。
映画館を出てから口数が少なかったひぃながマスクを外す前に「やっぱり監督が替わった影響かな……」とひと言漏らした。
私は事前にインターネット上の評判をチェックしていたが、彼女はネタバレを恐れて情報を遮断していた。
期待値が高かっただけに、失望感が拭えないのだろう。
私は元気がないひぃなを観察しながら黙々と食事を進める。
ブイヤベースは魚介の煮込み料理だ。
旨味が凝縮され、外しようがない美味しさだと言える。
だが、この味を家庭で出そうとしても容易ではない。
私の場合、そこまで料理に時間や手間を掛けたくないので尚更だ。
しかし、こんなに人を幸せにする味に出会うと主義に反してでも作りたくなる。
これは手間暇を掛けるコストに十分見合う美味しさだろう。
このところ非常に忙しく、そこから逃げ出して料理に没頭できたらどんなに良いかと夢想してしまう。
先に食べ終わった私がコーヒーを飲んで寛いでいると、丁寧に食べていたひぃなも「ごちそうさまでした」と顔を上げた。
一緒に手洗い立ち、身だしなみを整えて席に戻る。
ほの暗い店内で、互いにマスクをしてから私だけに聞こえる声でひぃなは映画の感想を述べた。
「紫苑さんは素晴らしかったと思うの。衣装もよく似合っていた。でも、残念ながら『クリスマスの奇蹟』の時のような感動は……」
「まるで初瀬紫苑のプロモーションムービーみたいだったね。それにしては尺が長かったけど」と私は苦笑した。
ヒロインの初瀬紫苑は1年前に大ヒットした『クリスマスの奇蹟』で準主役に抜擢されブレイクした。
まったく無名だった若手の女優が一夜にしてシンデレラのように注目を浴びた。
マスコミは大騒ぎしたが、事務所の方針なのかテレビには出ず、公開される情報もごくわずかだった。
それだけに映画の公開は多くのファンにとって待ちに待ったものだ。
公開前から大いに盛り上がっていた。
だが、期待し過ぎたせいで裏切られた思いが強いのかインターネット上では辛辣な意見が飛び交うことになった。
「ストーリーがあってないようなものだったものね」とひぃなは溜息を吐く。
昨年の『クリスマスの奇蹟』はストーリーもよくできていて最後まで目が離せなかった。
今日は途中で退屈になって、各シーンで突然暴漢が襲ってきたらヒロインをどう守ればよいかというイメージトレーニングの時間になってしまった。
この女優のファンで、彼女が動いている姿を見られたら満足という人なら大喜びしそうな映画だ。
これだったらキャシーも連れて興行収入を塗り替えそうな勢いのアニメ映画にした方が良かったと思ったが、もちろん口には出さない。
ひぃなは「紫苑さん、大丈夫かなあ」と心配している。
彼女は以前、「10代の日本人の中で可恋の次に世界的なファッションモデルになれそうな人だと思う」と評価していた。
単なる見た目の良さだけではなく、いまどきの10代の女の子からは漂ってこない雰囲気がある。
大人びたという手垢のついた表現に収まり切らず、美しさだけでなく暗い闇のようなものを持ち合わせた女優だ。
腹に一物ありそうで、あまり友だちにしたくないタイプのようにも見えた。
「彼女の演技がどうこうじゃなくて、それ以前の問題だからねぇ。それでも彼女が看板だから叩かれるのだろうけど」
思案顔のひぃなにそう言うと、彼女は眉尻を下げた。
私からすれば赤の他人なのでどうでもいいことだ。
だが、ひぃなの思い入れは強い。
「来年はもう無理なのかな……」
「1年待たせてコレだったから、同じ手は使えないと思うよ。何か話題作りが必要なんじゃないかな」と予測するが、芸能界のことは詳しくないので素人意見に過ぎない。
「わたしが超有名デザイナーだったらモデルとして彼女にオファーを出すのに……」
ちょっとした著名人程度なら私の人脈を通じて接触を図れるだろうが、メディアを避け事務所に守られている女優に繋がる糸はおそらくない。
接触できたところでサインをねだるくらいしか実際はできないだろうが……。
「まずはひぃながデザイナーになることが先決だね」
彼女はファッションの勉強をコツコツ続けているし、デザインもかなり描いている。
それを本職のデザイナー――醍醐さんや式部さん――に見てもらい助言も受けている。
成功するかどうかは才能と呼ばれる領域の話かもしれないが、いつチャンスが来てもつかみ取る準備はしている。
私もサポートはするつもりだが、私の力で売り出すというのは違う気がして控えていた。
決意を秘めた瞳が私を見つめている。
一分一秒でも早くプロになりたいと言葉にしなくても伝わって来る。
しかし、私はその危険性にも気づいていた。
なぜならひぃな以上に最短距離のルートを通ろうとするのが私だからだ。
「私が焦らせるようなことを言っちゃダメだね。一度ついたイメージは覆すのが難しいから、事前の準備が大切なんだ」
役者の世界でも当たり役ができると、それ以外の役を演じることが難しくなると聞く。
まして事件を起こして悪いイメージがついてしまうと善人の役は困難だろう。
ひぃなが望むようなプロのデザイナーの場合も自分のブランドイメージが重要になる。
彼女は容姿が優れているだけにかえってデザイナーとしての売り出し方はよく考えないといけない。
美少女がデザインした服というのは話題にはなるだろうが、それだけで敬遠される可能性がある。
そして、そうしたイメージが一度でもついてしまうとデザインの良し悪しを先入観なしに見てもらえなくなる。
初瀬紫苑を今後どう売り出すのか。
それはひぃなを世に出す時の参考にできそうだ。
女優とデザイナーの違いはあっても、不特定多数を相手にした人気商売である。
露出を控えめにコントロールしながら名を売り、作品を見てもらう。
ひぃなとはまったく方向性が異なるが、私はこの女優の今後の活動から目を離さないことに決めた。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学3年生。中学生だがNPO法人の代表として多くの大人を動かしている。現在クラスマスイベントの変更に伴う作業に掛かりきりとなっている。
日々木陽稲・・・中学3年生。中学生だが可恋のマンションにてふたりきりで暮らしている。将来の夢はファッションデザイナー。初瀬紫苑はデザインの想像をかき立てられる存在なので関心が強い。
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