第308話 令和2年3月9日(月)「綾乃」須賀彩花

 中学校の運動場の片隅。

 3メートルくらいの間隔を空けて部員たちがダンスを踊っている。


 参加者はダンス部の6、7割の人数といったところだ。

 運動部などが週2、3回、1時間に限ってグラウンドを使うことを許可してもらった。

 一斉休校初日となった先週の月曜日に近くの公園で集まっていたら近くの住民から学校に通報された。

 部長の優奈は校区の外で練習することを考えていたが、校長先生があちこちに掛け合い運動場を開放してくれた。

 顧問の立ち会いや保護者の許可などが条件で、更衣室や部室は使用不可。

 だから、ジャージ姿で学校まで来なければならなかった。


 それでも、人の目を気にせずに伸び伸びと運動できることは嬉しかった。

 最近はちょっと外出しただけでジロジロと見られてしまう。

 一日中家にいると息が詰まりそうなのに、外に出てもこれではどうにかなってしまいそうだった。

 たった1時間だけでも、こうしてみんなの顔が見ることができるとホッとするし、沈み込む気持ちを浮上させられた。


 テレビやネットのニュースは見ないようにしている。

 気が重くなるニュースばかりだから……。

 塾も休みで、勉強はあまり手がつかない。

 宿題のプリントをしていても溜息ばかりが出てしまう。


 いつもなら……。

 夏休み以降わたしの隣にはずっと綾乃がいた。

 いつの間にかそれが当たり前になり、自分の部屋にいるときさえ彼女の姿を探してしまうことがあった。

 それほどよくわたしの家に来ていた。

 その綾乃と1週間以上会っていない。


 最後の登校日となった28日に顔を合わせたのを最後に彼女の姿を見ていなかった。

 LINEや電話では連絡しているが、それだって長時間という訳にはいかない。

 綾乃は何度も「平気だから」と言ったが、その声を聞くたびに切なくなった。

 絞り出すような綾乃の声は決して普段のものではなかった。


 親に外に出してもらえないらしい。

 いまの時期だから仕方ないのかもしれない。

 でも、心配だった。

 綾乃がわたしに心配をかけまいとすればするほど不安は募った。


 美咲も優奈もいまはどうすることもできないと言う。

 綾乃が助けを求めているならともかく、そうでない以上動きようがないと優奈は吐き捨てるように言った。

 日野さんにも状況を説明したが、様子見だと言われた。

 自分では何もできないことが悔しい。


 筋トレ、運動会、ダンスなどを通して自信をつけ、わたしは成長したと思っていた。

 それなのに困っている友だちを助けることもできない。

 全然成長なんかしていなかった。

 本当に、どうしたらいいんだろう……。


 そんな思いを唯一忘れられる時間が踊っている間だった。

 しかし、マネージャーの綾乃の姿がないことに気付いては落ち込んでしまう。


「大丈夫か?」と優奈がわたしの顔をのぞき込んだ。


「うん」と笑ってごまかそうとするが、成功したとは言えない。


 優奈は右手で自分の髪を掻き乱し、「あー、帰りに綾乃の家に行ってみようか」と苛立たしげにわたしに囁いた。


 短い練習後に、わたしはジャージ姿のまま優奈と綾乃の家に向かった。

 彼女の自宅に行くのは初めてだ。

 綾乃は自分の家に誰も呼ぼうとしなかった。

 夏休みなんか毎日わたしの家に来ていたから、たまに送ろうとしたけど、いつも断っていた。


 綾乃は聞き上手なのに、自分のことはほとんど話さない。

 お姉さんがいると聞いたことはあるが、家族の話なんてそれくらいだ。


「優奈は綾乃の家族のこと知っているの?」


 わたしの質問に「いや」と優奈は答えるが、その表情は曇っている。

 わたしは長い長い溜息をつく。


「あんなに一緒にいたのに綾乃のこと全然知らないなんて……」


 不甲斐ない気持ちでいっぱいになり、もう少し何かできなかったかと後悔する。


「そんな彩花だから一緒にいたんじゃないかな」と優奈はわたしを慰めてくれた。


 綾乃の家はマンションだ。

 日野さんのところのような豪華なものではなく、ごく普通の4、5階建て。

 オートロックではないものの、エントランスに入るのはドキドキする。


「綾乃に連絡しないでいいの?」と咎めると、「言ったら来るなって言うだろ」と優奈は答えた。


 きっとそうだろうとは思う。

 でも、綾乃が嫌がることをしているのかもしれないという気持ちが湧き上がってきた。

 優奈を追う足取りが重くなる。


 優奈は階段を一段飛ばしでピョンピョン上がっていく。

 すぐに彼女は踊り場を曲がり見えなくなった。

 わたしは鎖がついたように足が上がらなくなり、最初の踊り場に来たところで立ち止まった。


 わたしがついて来ないことに気付いた優奈が足早に駆け下りてきた。

 わたしの顔を見るなり心配そうに「顔色、悪いな」と言った。

 わたしはどうしていいか分からなくて立ち竦んでいた。


 優奈は2段ほど高い位置で右手を頬に当て考え込んでいる。

 わたしはへたり込むのはなんとか我慢したが、顔を上げるのも辛くて自然と視線が下に落ちていく。

 優奈のスニーカーは彼女のものにしては傷んでいるように見えた。

 オシャレに気を使う優奈らしくない。


 優奈はポケットからスマホを取り出し、電話を掛けながら1段1段上がっていった。

 すぐにわたしの視線から彼女のスニーカーは消えた。


 それからどれくらい経っただろう。


「彩花」と呼ぶ声が上から聞こえた。


 聞き覚えのある声に急いで顔を上げる。

 見上げた先にいたのは綾乃だった。

 真っ先に目に入ったのは細く白い生足で、暗色のショートパンツに同系の色合いのパーカーを着ている。

 黒いマスクにベースボールキャップで、まるで変装しているようだった。


「綾乃」と呼び掛けながらわたしは彼女の身体に抱き付いた。


 彼女のお腹に顔を埋める。

 芳香剤の匂いがした。


「来てくれてありがとう。でも、本当に大丈夫だから」と綾乃は困ったような声を出す。


 このままずっと抱き締めていたかった。

 離したくなかった。


「ほら、彩花」と優奈に肩を叩かれた。


 渋々、綾乃から離れる。


「行かなきゃ」と綾乃は焦っている。


 わたしは思わず手を伸ばし、彼女の身体をつかもうとする。

 しかし、その手は届かず、綾乃は背中を向けた。


「綾乃」と呼び掛けたわたしの声ははっきりと涙声だった。


 綾乃は一度だけ振り向き、「またね」と言って駆けていった。

 泣きじゃくるわたしの背中を優奈は優しくさすってくれた。




††††† 登場人物紹介 †††††


須賀彩花・・・中学2年生。ダンス部副部長。


笠井優奈・・・中学2年生。ダンス部部長。


田辺綾乃・・・中学2年生。ダンス部マネージャー。


松田美咲・・・中学2年生。優奈、彩花、綾乃たちが所属するクラスのグループのリーダー格。


日野可恋・・・中学2年生。彩花の筋トレの師匠。

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