第307話 令和2年3月8日(日)「天国のような世界」日々木陽稲
今日は一日冷たい雨が降り続いた。
でも、明日からは暖かくなるという予報が出ている。
「一雨ごとに春が近づいてくるね」と呟く可恋の声は弾んでいる。
可恋のマンションで暮らし始めて1週間以上が経つ。
何度もお泊まりには来ていたので困ったことは特にない。
むしろこのふたり暮らしがいつか終わってしまうことが残念でならない。
ずっとこの生活が続けばいいのに……。
このところ体調が良い可恋はいつも通り規則正しく過ごしている。
朝5時に起床し、身体を動かし、雨でなければわたしのジョギングにつき合ってくれる。
朝稽古には行かないが、自宅での練習はハードさが増しているように見える。
シャワーを浴びたあと、ふたりで朝食。
午前中は勉強に集中し、お昼ご飯を食べてからはのんびりとお喋りしたり、ネットを見たりしている。
今日は日曜日なので勉強はお休みで、代わりに掃除を頑張った。
可恋が引っ越して来て1年と少しだが、いまだに新品のような部屋なので掃除はとても楽しい。
晴れていれば午後はお買い物にも行く。
本当はお洋服も買いたいのだけど、店だと長時間かかっちゃうからそれはネットで我慢だ。
最近はお花が安いので、お花屋さんに寄ってリビングや可恋の部屋を飾る花を選ぶのが楽しみになっている。
リビングはものが少なくとてもシンプルだ。
それはそれでスマートだから良いものの、殺風景と紙一重だ。
ゴテゴテした飾り付けは部屋に合わないので、いかに部屋の雰囲気を崩さずにそれでいて見映えの良い素敵な部屋にするかがわたしの休校中の課題だ。
可恋の部屋に至ってはベッド以外に目を引くものがない。
女の子らしさは欠片もなく、潤いというものがない。
以前からクッションなどを持ち込んで少しずつ華やかさを出そうと努力しているが、可恋はものを増やすことを嫌うので、攻防が続いている。
夕食は二日に一度くらいのペースでお姉ちゃんが来てくれて作るのを手伝ってくれる。
三人で夕食を摂り、わたしの家族の近況やお姉ちゃんの友だちの話などを聞く。
ここでふたりで暮らしていると、それらがまるで遠い世界の出来事のように感じるから不思議だ。
天国にいるみたいで、浮世離れしているんじゃないかと思ってしまう。
ここだとテレビを全然見ないし、外の情報はネットと新聞くらい。
ネットはファッション関係のニュースを中心に見ているから、それ以外の世間の流行なんてさっぱり分からなくなった。
もともとテレビをそんなに見る方じゃなかったけど、ここが世間から隔離された場所のように感じるせいかそんな思いが強くなった。
可恋もこの天国のような暮らしを満喫しているかというと、電話やSNS等で頻繁に連絡が入りその都度顔をしかめて対応している。
仕方がないこととはいえ、可恋との時間を奪われたようでわたしもムスッとしてしまうことがある。
可恋がそれだけ頼られていることは嬉しいが、毎日一緒にいられるといってもゆっくりと過ごす時間はそんなに多くある訳ではない。
夕食後はトレーニングを少ししてお風呂に入り、9時には就寝だ。
勉強中やトレーニング中は可恋は集中しているのであまり話し掛けられない。
可恋がいつもすぐ側にいることは嬉しいが、もっともっとお喋りがしたい。
今日の午後も相次いで電話が掛かってきた。
リビング用に新しい春物のカーテンを買おうと相談しているところだったのに、「ごめん、ちょっと待って」と遮られてしまった。
本当は素材や触り心地を実際に見て選びたいところだけど、可恋はなんでもネットで買おうとする。
今日は雨だからしょうがないが、自転車で行けばすぐのところにホームセンターもある。
可恋を待つ間、ピンクの女の子っぽいゆるふわなカーテンを勝手に注文しちゃおうかなとあれこれ見ていた。
わたしもいかにも女の子って色合いのものはあまり好きじゃない。
似合うと分かっているものを何も考えずに着るのはいちばんダサい行為だと思っている。
だから、自分の服や部屋のコーディネートは必ずひとひねりするように頭を働かせている。
でも、可恋にだったら可愛い服はありだよね。
格好いい可恋に可愛いものってイメージとは逆だから。
そんな妄想を膨らませていると、電話を終えた可恋がわたしのノートパソコンの画面をのぞき込みこめかみを押さえた。
そんな顔をしなくてもと思い、「たまに気分を変えてみるのも良いと思わない?」と提案する。
案の定「思わない」と可恋は即答した。
「オレンジならどう?」と言うと、可恋は腕を組み難しい顔をした。
可恋は服の選択が極めて保守的だ。
スカートをはかないだけでなく、色も冒険しないし、同じような服をたくさん持っている。
レパートリーの幅がない。
実は料理も、腕は確かだが、お姉ちゃんと違ってどんどん新しいレシピを増やそうというタイプではなかった。
必要を感じると一気に増やしてしまう能力があるから、可恋にとってそれで問題ないのだろう。
「少しチャレンジしないと!」と一押しするが、「毎日見るものだしね……」と可恋は乗り気じゃなかった。
「毎日見るものだから大事なんじゃない! だいたい可恋は部屋着だって……」
可恋はスウェットの上下を部屋着にしている。
似合ってはいるのだけど、替えのスウェットもほぼ同じようなものばかりだ。
可恋の辞書にバリエーションの文字がないことを思い知らされた。
ちなみに、わたしは部屋着も毎日ガラリと変えている。
可恋の家だからではなく、自分の家でも同じような服は続けて着ないというポリシーに従っている。
朝のジョギングウェアだって色違いがあり、その日の気分で替えているくらいだ。
「服装を毎回ちゃんと考えることは大事だと私も思ってるよ。ただ部屋着までと言われるとね……」
「選ぶのに頭を使うのが嫌ならわたしが選ぶって言っているのに、それでもやろうとしない納得いく理由を聞かせてよ」
わたしがぴしゃりと言い返すと、可恋は「ごめん、怠慢だね。分かってる」と苦笑した。
可恋はファッションの価値を理解してくれているのでこうして素直に反省する。
しかし、次のステップである買い物については「良いのがあったら教えてよ」とわたしに丸投げだ。
「分かったわ。明日までにリストアップしておくね」
「そんなに急がなくていいよ」と可恋は言うが、善は急げだ。
「それで、カーテンだけど」と本題に戻したところで、また電話だ。
最近はこの調子でおちおち話していられない。
わたしの不機嫌を察した可恋は電話を中断し、「カーテンは明日見に行こう」と笑顔で言った。
わたしは「うん!」と元気よく頷く。
わたしをいつも気遣ってくれる可恋が大好きだ!
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・中学2年生。訳あって可恋とふたり暮らしを始めた。こんな日々がずっと続いて欲しいと願っている。
日野可恋・・・中学2年生。陽稲の新しいことを求めるパワーは大きな刺激になっている。
日々木華菜・・・高校1年生。可恋の家のシステムキッチンに惚れ込んでいる。住み込みたいくらいだけど、中高生として夜9時に寝るのはどうなの?
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