第698話 令和3年4月3日(土)「目指すもの」神瀬舞

 私はスマートフォンを手に取った。

 いまから電話を掛けていいか確認のメッセージを彼女に送る。

 ふーっと息を吐いて返信を待つ。


 外は晴れ渡り、燦々と陽差しが降り注いでいる。

 それなのに私の心はどんよりと重苦しい雲に覆われていた。

 歳下に頼ることは筋違いかもしれないが、ほかに適した相談相手が思いつかなかった。


 彼女から電話が掛かってきた。

 メッセージで答える手間を惜しむところは彼女らしい。


『こちらは大丈夫です』


 相談をしたいと書いただけなのに、まるで用件を知っているかのような口振りだ。

 当然か。

 空手界に身を置く人間なら既に耳にしているはずの話題なのだから。


『詳細は話せないので、あくまで一般論として聞きたいのだけれど……』


 私がそう口にすると彼女は落ち着いた声で『はい』と答えた。

 そこには興味本位の響きも、私を気遣うようないたわりも含まれていなかった。


『選手への指導ってどこからがハラスメントに当たるのかな?』


 先日私が所属する大学空手部の指導者が選手から告発された。

 すでに空手連盟はハラスメントがあったことを認定し、処分の検討に入っているそうだ。


『難しい問題ですね。F-SASに寄せられるものでも、明らかに黒の事例だけでなくグレーゾーンの案件も多いです』


 彼女は女子学生アスリートを支援するNPO法人の代表を務めている。

 そこではトレーニングのアドバイス等だけではなく、部活動におけるパワハラやセクハラの問題も取り扱っている。


『体罰や暴力、人格攻撃などがダメってことは私にも分かるけど、練習中に厳しく叱責されることもあるよね。同じ内容でもハラスメントと感じる人と感じない人がいると思うし……』


 私は自分の過去を振り返る。

 そこまで理不尽な指導を受けたことはほとんどないが、いまの基準でどうかなと思うようなケースには何度も遭遇した。

 特に連帯責任で罰を負わされることには閉口した。


 私自身は選手としての立場に集中していたので、指導する側に回ったことはほとんどない。

 去年の夏に妹とキャシーを指導したが、あのふたりは手が掛からなかった。

 しかし、いまの大学空手部を指導しろと言われたら困惑してしまうだろう。


『技術指導はOKですが人格を否定してはダメですね。ただ練習に取り組む姿勢などは選手の性格や考え方にも影響を受けるのでそんなに分かりやすく切り分けられません』


 電話越しだが彼女の淀みない発言に私は頷いた。

 やる気というものは選手によって違うし、その時々によっても変動する。

 指導者がそうした選手に強い言葉を使ってしまう気持ちは理解できる。


『例えばキャシーですが、彼女は体格の良さや際立つ運動能力の持ち主ですが、それ以上に優れているのは空手を、格闘技を好きだという気持ちです。だからどれほど苛酷な練習でも苦にしません。むしろ練習しすぎないようにセーブするのが指導者の役目になります』


『私の稽古のあとに、毎日ヘトヘトになるまで組み手の稽古もやっていたものね』


 昨夏のキャシーの様子を思い浮かべる。

 そのタフさに舌を巻いたものだが、同時にあれほど楽しんで稽古をしている選手も見たことがなかった。

 底抜けに明るいアメリカ人だからというだけではなく、空手や格闘技が好きで好きでたまらないからできることだったのだろう。


『指導者はそういう選手のサポートに徹して、やる気を削がないように注意することが肝要だと思います』


『でも、選手の立場として練習が嫌だなって思うこともあるじゃない?』


 キャシーにはないかもしれないが、私にはある。

 そう多くはないが、これでも人間だ。

 フィジカルやメンタルの問題でいつものように練習に向き合えない時もある。


『休めばいいんです』と日野さんはあっさりと回答した。


『でも……』『どこかに問題があるからそういう気持ちになるんじゃないですか? まずはそれを解決することを優先すべきでしょう。問題を抱えたまま練習しても身につきませんよ』


『でも……』『完全に休むのが不安なら、練習の量を減らせばいいんです。大切なことは練習の質です』


 世界の頂点を目指して戦う中で、練習を休む、練習量を減らすことは簡単にできる決断ではない。

 いまも世界中のライバルたちが腕を磨いていると思えば尚更だ。

 だが、彼女の言うように質の伴わない練習を繰り返すより、原因を究明してそこを解決させた方が近道となるのかもしれない。


 私は二十数年の人生の中で常に空手がいちばんだった。

 過去に何人も私のライバルになりそうな人と出会った。

 私と同等、あるいは私以上の才能を持っていそうな人も見た。

 だが、そのほとんどが恋愛や遊びの誘惑に負けた。

 そして、練習の量は同じなのに伸びなくなる。

 空手に真剣に取り組んでいるように見えても、どこかに違いが生じていたのだろう。


『問題は選手のモチベーションをどう高めるかですね。短期間ならいざ知らず長期的なものは本人次第です。指導者がそこまで担おうとするからおかしくなってしまうのでしょうね』


 彼女が普段からこうした問題を意識して考えていることが伝わってくる。

 アスリートの枠に囚われないところが彼女の魅力だろう。


『スポーツは辞めれば済みますが、勉強はある程度身につける必要があります。現行はテストや宿題といった課題を与えることで無理やりさせていますが、これは生徒を勉強嫌いにするリスクを伴います。それでも一定の割合は勉強好きを保っていますが、少子化により母数が激減すると比率を増やす努力をしないと完全に先細りになってしまいます』


『でも、スポーツだって競技人口を増やすことは大事でしょ? 簡単に辞めれば済むという訳にはいかないのでは?』


『その競技の楽しさを伝えられていますか? それができなければ廃れるのは仕方ありません』


『でも、日野さんだって空手を……』


『私も空手が好きですよ。普及を願っていますし、その良さを伝えていければと思っています。しかし、競技を続けるかどうかは指導者が決めるものではありません』


 私は20年近く空手の世界にいる。

 強くなるために命を削ってきた。

 そのためにすべてを犠牲にしてきたとは言わない。

 私自身が選んだことだから。


 一方で、私と同じ努力を周りにも求める気持ちはあったかもしれない。

 口には出さなかったが、もう少し頑張ればいいのにと思うことは何度も何度もあった。

 歯がゆく感じた。

 指導者に厳しく言われて泣き出す選手を冷めた目で見ていたこともある。


『私は指導者に向いていないんだね、きっと』


『そうは思いません。空手の素晴らしさを知っているのですから、それを相手に伝えていく。それこそが最高の指導だと思います』


『日野さんこそ最高の指導者になれるんじゃない?』


『私は相手に求めるものが多すぎると言われたばかりですよ』と彼女は苦笑した。


『空手の良さを伝えるためにもオリンピックで勝たないとね』


 いまの私にできることなんてせいぜいそれくらいだ。

 日野さんは『期待しています』なんて簡単に言ってくれる。

 彼女の場合はその大変さを十二分に承知した上での発言だが。


『今日はありがとう。相談に乗ってくれて』


 心の中のわだかまりが消えた訳ではない。

 ひとりのアスリートとしてこうした問題にこれからも向き合っていかなければならないだろう。

 ただ、いまは。

 オリンピックが行われることを信じて、目の前のことに集中するしかないのだ。




††††† 登場人物紹介 †††††


神瀬こうのせ舞・・・昨年春に大学を卒業し、職員として大学に残って練習を続けている空手・形の選手。東京オリンピック代表に内定している。


日野可恋・・・この春から高校に進学する。空手・形の選手だが大会への出場経験は乏しい。F-SASという女子学生アスリート支援のNPO法人代表を務めている。


神瀬こうのせ結・・・舞の妹で空手・形の選手。偉大な姉の存在をプレッシャーに感じていた時期もあったが、最近はかなり吹っ切れた。この春から中学3年生。春の大会では優勝を果たした。


キャシー・フランクリン・・・G8。15歳。空手・組み手の選手。将来は格闘家を目指している。一方、勉強嫌いで散々可恋を悩ませることに……。

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