第383話 令和2年5月23日(土)「工房」日野可恋
このところひぃなが溜息をつく回数が増えた。
閉塞した状況がずっと続いているのだから仕方がない。
ネットショッピングで衣類をガンガン購入しているがそれだけでは満足できないようだ。
非常事態宣言が解除された暁には店を借り切って至福の時間を作ってあげようかと考えていた。
「うわぁ、凄い!」と瞳を輝かせてひぃなが歓声を上げた。
ここは東京のとあるファッションデザイナーの工房だ。
ひぃなはうっとりした表情であちこちを眺め回している。
机にはパソコンが並び3Dプリンタなどもあって、私がイメージしていたものとは少し違った。
部屋の中は綺麗に片付けられていて、普通のオフィスのようだ。
それでも華やかな雰囲気はあった。
資料立てに並ぶファッション誌や壁に掛けられた現代アート。
そして――。
「ようこそ、若者たち」と派手なピンク色の髪をしたこの工房の主が歓迎してくれた。
パッと見は若々しいが、実際は30代後半か40代か。
私は名前を聞いたことがなかったが、ひぃなは知っていた。
まだ独立してから間がないが、これから注目のデザイナーだそうだ。
「私も若者のうちに入っているよね?」と桜庭さんがおどけた顔で尋ねた。
「認めよう。私も若者だしな」と奇抜な柄の浴衣のようなジャケットを着た女性がニヤリと笑った。
「紹介するわ。この工房の主、
桜庭さんは日本語のあと、キャシーのために英語でも紹介する。
今日はキャシーが東京の家族のところへ一時帰宅する。
その運転手役を桜庭さんが買って出てくれた。
ついでに、私とひぃなをこの工房に案内してくれることになったのだ。
『もの凄くインスピレーションが湧くモデルたちを連れて来てくれてありがとう』と鏑木さんが英語に切り替えて桜庭さんに微笑みかける。
そして、『あなたたちはどんなドレスを著てみたい?』と私たち3人を見回してから問い掛けた。
真っ先にひぃなが手を挙げボディラインがどうとか勢いよく話し始めた。
それを聞きながら鏑木さんはスケッチブックにデザインを描き始める。
キャシーは興味深そうにそれを眺めている。
しばらく時間がかかりそうだと判断した私は手持ち無沙汰な桜庭さんに話し掛けた。
「ひぃなはとても喜んでいますが、いいんですか?」
「ファッション業界はどこも苦境だからね。上客は大歓迎だよ」と桜庭さんはひぃなに視線を送りながら答えた。
衣料品店は休業要請に含まれなかったものの客足は減り売り上げは落ちた。
今後景気後退が予想され、被服費は切り詰められる対象になりやすい。
ファッションショーなどの大規模イベントは世界中で開催できない状況に陥っている。
逆風の真っ只中ではあるが、桜庭さんは笑顔で「それでも着飾りたいと思うのは人間の本質だから大丈夫よ」と言い切った。
今回は格安――と言っても普通の店で売っているものより一桁高い金額――でサマードレスを作っていただくことになった。
ひぃなだけで良かったのに、なぜか私の分まで。
ひぃなが「可恋のも見たい!」と熱烈に願ったことと桜庭さんが「夏に内輪だけでパーティをするから著て見せてよ」と言ったことで断れなくなった。
「それにしても本庄さんは大変でしたね」
海外を拠点に活躍しているプロのモデル、本庄さんが先日新型コロナウイルスに感染していたことを公表した。
彼女は桜庭さんの友人で、昨年秋の文化祭のファッションショーに足を運んでもらった。
イタリアでロックダウンが起きる直前までミラノにいて、フランスにある自宅のアパートメントに戻ったものの検査の結果陽性だったそうだ。
軽症で済み、その後はずっと自宅待機を続けているとアナウンスされた。
「モデルは人気商売でもあるんで公表のタイミングは難しいところだね」
「そうですね」と私は頷く。
隠すとバレた時にダメージを受けるし、公表して話題になるとあらぬ風評被害を受けるかもしれない。
桜庭さんたち友人にも知らせていなかったそうだ。
落ち着いた時期に目立たない形で発表したのはうまいやり方だったと言えるだろう。
「海外に慣れていても病気に罹ると大変でしょうし」と言うと、桜庭さんは「そうなのよ。昔東南アジアで死にそうになった時どれほど大変だったことか」と語り始めた。
言葉の問題以上にちょっとした常識の違いにイライラしてしまうらしい。
日本の清潔感覚を当たり前だと思っていると海外では耐えられないことがある。
普段なら気にならなくても病気で神経質になっている時は気が立ってしまうそうだ。
「3月までタイやベトナムに居たんだけど、その後はずっと在宅ワークになっちゃったわ」
1年の半分近くを海外で過ごす桜庭さんは「こんなにずっと日本にいたのも久しぶりね」と苦笑した。
そして、「これを機に店を畳むところはどうしたって出て来る。残念だけどね」と嘆いた。
リアルでの集客がままならぬ現状でインターネットでの商売に手を出したいという相談がいくつもあったという彼女は「初期費用やランニングコストを考えたら生半可な気持ちで手を出すなってアドバイスしているのになかなか分かってくれないのよ」と零す。
「現実の店舗よりもインターネットの方が差別化が重要ですからね。商品でよほど差別化できない限り見た目の印象が大切ですが、素人が簡単にできるものではありませんし」
「そうなのよ! みんなが可恋ちゃんくらいすぐに理解してくれたら楽なのに」
そんな話をしているうちにふたりのデザインが出来上がったようで、私の番になった。
ひぃなとキャシーのデザインはかなり豪華なもので、相当特別なパーティじゃないと着れないと思ってしまうものだった。
『私はこんなに派手なものではなく、もっとシンプルなドレスにしてください』と言ったのに、ひぃなとキャシーから横槍が入った。
『ダメだよ。可恋は美人だけどわたしやキャシーより外連味がないから衣装はゴージャスにしないとバランスが取れないよ!』『そうだ、そうだ』
『3人のバランスなんて必要ないから』と言っても、『可恋の美しさが他の人より見劣りするなんて思われたらわたしは我慢できないの。可恋なら誰よりも注目を浴びることができるわ!』『そうだ、そうだ』と納得してくれない。
『私は注目を浴びたい訳じゃないから』
『ダメよ。可恋は――』と滔々と語るひぃなを見て、私は英語だといつもより押しが強いなと感じていた。
しかも、必死で説得しようとしているためか、普段より英語も流暢だ。
私は『分かったよ。ひぃなに任せる』と投げ出した。
私たちの会話を黙って聞いていた鏑木さんは『それで? どんな服にする?』とひぃなに向き直った。
『ところで、キャシーはお金がないのにどうするつもりなの?』
ひぃなの尻馬に乗っていたキャシーにそう尋ねると、彼女は目を見開いた。
私が予想される金額を示すと、キャシーは両手を頬に当て『神様!』と大げさに叫んだ。
『留年して親に1年分多く学費を出してもらうのだから、親に頼っちゃダメよ』と釘を刺す。
『サクラバ! 助けて!』と桜庭さんに泣きついたキャシーは出世払いと画像をインターネットで紹介することへのモデル料でドレスを作ってもらえることになった。
普段は超ラフな服装を好むキャシーだが、一方でファッションショーにも興味を示すあたりはパーティ文化が根付いたアメリカ人らしい。
高校生だったら成績次第でプロム禁止と言えば少しはやる気を引き出せたかもしれない。
キャシーに勉強を好きになれと言うのは無謀な試みだ。
私もそこまでは望んでいない。
生きていくのに必要最低限の学力と知識さえ身につけられれば良い。
彼女の記憶力は優れたものだし、格闘技に関しては考える力も十分にある。
興味がないことにその能力を向けられなかったり、言葉の理解力に難があったりする。
私のデザインが完成し嬉々として見せてくれたひぃなに、『夏の間ひぃなにキャシーの英語の先生役を頼む』と告げた。
ひぃなは目を丸くしているが、この1年の間にひぃなの英語はキャシーを上回った。
最初はキャシーの影響でスラングが多かったものの、それが治ったいまは年齢相当のしっかりした英語を話している。
小学生の英語から脱却していないキャシーに教えるには最適だろう。
『可恋の頼みなら』と頷くひぃなに対し、キャシーは不満顔だ。
『キャシーなら頑張ればすぐにひぃなに追いつくと思うけど』と煽ってみたが、キャシーは乗ってこない。
『そうね。ドレスを着るにはそれに相応しい中身が必要よね』と鏑木さんが口を出した。
『マナーや言葉遣いのテストをします。彼女ひとりじゃ可哀想だから3人ともね』と楽しそうに言葉を続けた。
すぐに私とひぃなが頷くのを見て、キャシーも渋々首を縦に振った。
そして、工房を出る時ひぃなに耳打ちされた。
「わざと不合格になったら許さないからね!」
よく見てる。
私は笑いながら頷くしかなかった。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学3年生。空手のみならず生活面でもキャシーの面倒を見ている。とはいえ忙しいので実際の仕事は周囲に丸投げだったりする。
日々木陽稲・・・中学3年生。日本人離れした美少女で高いコミュニケーション能力を誇る。将来の夢はファッションデザイナー。
キャシー・フランクリン・・・G8。突出した身体能力を誇る黒人少女。一方勉強への意欲が低く休校が続いたことを受け1年留年する予定。
桜庭・・・女性実業家。衣料や雑貨を中心にアジア各地からの輸入が主な仕事だが、フットワークの軽さを生かして他にも手を広げている。キャシーをプロの格闘家としてプロモートする計画も。
本庄サツキ・・・ファッションモデル。海外を拠点に活躍するプロ。
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