第382話 令和2年5月22日(金)「留年」日々木陽稲

 あいにくの曇り空。

 それでも可恋と一緒に出掛けるのだからと、わたしはウキウキした気分だった。

 紫外線対策をばっちりした上で、鶯色のサマーカーディガンに身を包み、軽やかな足取りで可恋と並んで歩く。

 その足が止まったのは、可恋が放ったひと言が原因だ。


「キャシーを留年させる予定なの」


 キャシーは緊急事態宣言が出される直前に東京の自宅からここ神奈川の可恋が所属する空手道場にやって来た。

 昨年の夏休みと同じようにホームステイをしながら空手の稽古に打ち込んでいる。

 学校が休校になる中で彼女はあちこちの空手道場を訪れ、心配した可恋が周囲の大人を説得して実現させた。

 キャシーは道場の敷地内から出ないという可恋の言いつけを守っている。


 そのキャシーが明日帰宅すると聞いて、わたしは可恋に同行して道場に向かっていた。

 可恋は何度か様子を見に行っていたが、これまでわたしはついて行くことを許してもらえなかった。

 可恋が言うには「ひぃなを守りながらキャシーの相手をするのは無理」だそうで、可恋はキャシーのことを猛獣か何かと思っているようだ。


 呆然と立ち尽くしたわたしに「そんなに深刻に捉えなくていいよ」と可恋は言った。

 可恋はマスクにゴーグル姿なので些細な感情の動きまでは読み取ることができない。


「アメリカの高校は4年制が多いんだ。つまり、このままならキャシーは9月から高校生ってことになる」


 それは聞いたことがある。

 わたしはコクリと頷く。


「キャシーが通うインターナショナルスクールはG9まで一緒なんだけど、何かの事情でアメリカに帰る場合は高校に転校することになってしまう。でも、キャシーはこの1年あまり碌に勉強してないじゃない」


 7月に来日したキャシーはわたしや可恋と同世代だったがとても子どもっぽかった。

 勉強を嫌がり、通い始めたインターナショナルスクールでもなかなか馴染めなかったようだ。

 休校になってからオンライン授業が行われていたものの、彼女はモニターの前でじっとしていられなかった。

 教育よりも感染予防(キャシー本人だけでなく彼女を介して広まること)を重く見て、道場に連れて来た時点で可恋は留年を視野に入れていたと教えてくれた。


「日本では特に義務教育において留年はほとんど行われない。横並び意識が強いから、留年が恥と考えられ、可哀想だって言われる。だけど、教育課程を十分理解していないのに年齢だけで次の学年に進ませられるのが本当に本人のためになるかと言えば疑問だよね」


 海外では習熟度に応じて留年や飛び級することが日本より多いことはわたしも知っている。

 日本にもそのシステムはあるが十分に活用されていないことも。


「キャシーは留年のことを知っているの?」と尋ねると「そういう話し合いをしてることはね。あとは本人が決断するだけ」と可恋は平然と答えた。


「キャシーはどう思っているのかな?」


「学校に通う時間が1年増えるからそこは嫌がってるね」と可恋は笑う。


「ただもう1年留年したらカトリーヌたちと同じ学年になるよって言ったら、それもいいなと乗り気だったよ」


 それを聞いて、わたしはこめかみを手で押さえた。

 キャシーの脳天気ぶりに心配して損した気持ちになる。


「姉のリサは今年の夏にアメリカに戻る計画があったんだけど、もう1年日本に残ることになった。いまの状況じゃアメリカに帰りにくいよね」


 キャシーと違って学業優秀なリサは現在日本の私立高校に通っている。

 姉妹でどうしてここまで違うのかと思うほど頭が良く、すでに流暢な日本語を話せるようになった。

 アメリカの大学に進学予定だと聞いていたが、入学時期のズレは頭を悩ませる問題だろう。


「一緒にアメリカの大学に行かないかって誘われたけど」という可恋の言葉にわたしは心臓がギュッと締め付けられた気がした。


「心配しなくて良いよ」とそれに気づいた可恋が柔らかな視線をわたしに向けた。


 可恋なら飛び級は可能だ。

 わたしは可恋が勉強している時の集中力の凄まじさを毎日肌で感じている。

 勉強への意欲も高いので、可恋が飛び級を希望するのならその背中を押す覚悟はしているつもりだ。


「いまのアメリカに私が行けば、高い確率で感染するよね」


「日本で飛び級することは考えていないの?」


「学問の追究だけが目的ならありだと思う。でも、私の生きる意味はそれだけじゃないから」


 可恋は二十歳まで生きられないと医師に言われたことを背負って生きている。

 その言葉が正しいかどうかは分からない。

 しかし、長生きできないかもしれないという強い思いは彼女の言動の端々から感じる。

 可恋は中学生らしくないが、そうならざるを得なかったのだ。


 考え込むわたしに、「さあ、行こう」と可恋が声を掛ける。

 わたしは彼女の足かせになっていないだろうかと自問自答しながら足を一歩踏み出した。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・中学3年生。朝のジョギング以外は外出自粛中。使い捨てマスクの上にファッションマスクを着用している。


日野可恋・・・中学3年生。キャシーの両親や道場の師範代、桜庭さんなどと相談して留年という方向性を決めた。


キャシー・フランクリン・・・14歳。G8。アメリカではレスリングを学び、昨年7月に来日以来空手を学んでいる。


リサ・フランクリン・・・高校3年生。キャシーの姉。アメリカに残ることも考えていたが、異文化交流が大きな財産になると両親に言われて日本の高校に通うことにした。


 * * *


『カレン、ワタシと戦え!』と顔を見るなりキャシーが吠えた。


『断る』と言った可恋に、『カレンはワタシの稽古の成果を見るべきだ』とキャシーは食い下がった。


『留年せずに本気で勉強するなら相手をしてあげるけど、留年を決めたら月曜日にはここに戻って来るんでしょ』


 可恋の言葉にキャシーは『う……それは……』と歯切れが悪い。

 留年を避けるためには、しばらく空手の稽古を休んで勉強に集中する必要があると本人が認めそれを自分で選択しなければならないそうだ。


 これほど悩むキャシーを見たことがない。

 頭を抱え、のたうち回るように考え込んだキャシーは絞り出すように言葉を発した。


『練習禁止は無理だ』


 まあそうだよね、とわたしは思う。

 キャシーの生きる意味は戦うことだと言っても間違いないだろう。

 目先の勝負に目が奪われて、明らかに無理な条件を飲んでしまわなくて良かった。

 少しは成長したと思いたいところだ。


『留年したからって勉強しなくて良い訳じゃないからね。週末に今後のカリキュラムについてしっかり話し合ってきなさい』


『オー、ノー! 約束が違う!』と叫ぶキャシーに、『条件はしっかり確認しなければならないって勉強になったでしょ』と可恋は笑う。


 それを聞いたわたしはうんうんと頷いた。

 可恋相手に油断は禁物。

 むしろわたしが可恋を引っ掛けるくらいに成長しないと。

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