第505話 令和2年9月22日(火)「真剣勝負」日野可恋
高らかにエルガーの名曲『威風堂々』が鳴り響く。
神瀬結さんを背後に従えて、まさに威風堂々といった顔つきでキャシー・フランクリンが入場してきた。
真白の空手着の上にマントのように巨大な星条旗を羽織って。
道場の壁際で取り囲むように見ている観客からはやんやの歓声が上がった。
私がギロリと睨んでもキャシーの得意満面な表情は揺らがない。
長身の私が見上げる相手。
空手着の下に隠れているが、バネのような筋肉が全身を覆っている。
フィジカルモンスターと呼んでいい怪物だ。
今日の組み手での対戦に向けて入念に準備をしてきた。
特にメンタルを研ぎ澄ませてきたので、ひぃなからは怖がれてしまった。
一般人相手ならひと睨みで倒せそうだ。
だが、ここにいるのは猛者ばかりと言っていい。
キャシーにセコンドのようについていた結さんが笑顔で私に近づいてきた。
「頑張ってください。応援しています!」
「いいの? そんなこと言って」
「姉からはキャシーさんが勝つように全力でサポートしろと言われましたが、心は日野さんに勝って欲しいと願っていますから」
残念ながらこの夏キャシーを鍛えた神瀬舞さんは来られなかった。
代わりに妹であり、同じように鍛えられた結さんがやって来たのだ。
舞さんが鍛えたのは空手の形だったが、この組み手の試合のことを聞きつけて勝つための秘策をキャシーに授けたと結さんから教えてもらった。
この試合の許可と審判役を師範代にお願いしたところ、道場中に伝わったようで大勢の見学者が訪れている。
道場内は連休最後の日を盛り上げるようなお祭り騒ぎになっていた。
その主役はキャシーで、リラックスした顔でその声援のひとつひとつに応えていた。
私よりも遥かにこの道場に馴染んでいる。
『さっさと終わらせるわよ』
怒鳴るように私が言うと、『ついに可恋が負ける時が来た』とキャシーは動じることなく自信満々にこちらを向いた。
これまで彼女に対して私には勝てないと思い込ませていたのに、おそらく舞さんによってその固定観念が払拭されてしまったようだ。
私は小さく舌打ちしてから師範代に試合開始を促した。
キャシーとは何度も対戦しているが、戦うたびに強くなっている。
身体能力の高さは最初からだが、空手の技術がこの1年で飛躍的に向上した。
特に舞さんに形を教わってレスリング時代のクセが消え、本当の空手家になった印象だ。
組み手の実力はもうキャシーが上だと認めなければならない。
国旗を結さんに預け、キャシーは改めて周りの声援に応える。
私も一度背後を向き気息を整える。
正面に心配そうに見つめるひぃなの姿があった。
私は彼女に向かって頷いてみせる。
「可恋、頑張って!」と彼女の精一杯の大声が耳に届く。
私は両頬をパシンと手で張って再びキャシーに向き直った。
大柄な黒人少女はすでに戦闘モードに切り替わっていた。
肉食獣のような気配を漂わせ、私をじっと見つめている。
巨大な敵の存在にアドレナリンが湧き出すのを感じる。
自然と口角が上がり、雑音が消えていく。
頭の中にあるのはこの巨獣をどう倒すかだけだ。
師範代の「始め!」の声は唐突だったが、すでに戦いは始まっていた。
いつもなら試合開始とともに距離を縮めてくるキャシーが今日は慎重に構えている。
実戦では先手必勝が真理だが、試合ではそうとは限らない。
互いに距離を計りながら左へと旋回する。
パワーは圧倒的な差がある。
まともに身体をぶつけられては吹っ飛ばされてしまうだろう。
スピードも相手が上だ。
ただし、どんな動作にも予備となる動きがある。
それを見極めることができれば有利だが、当然相手もフェイントを織り交ぜて惑わせようとする。
その見極めと反応速度は私の方が上だと信じたいところだ。
細かなフェイントを何度も何度も入れて様子をうかがう。
焦れて仕掛けてくれれば対処しやすいが今日のキャシーは本当に慎重だ。
素人目にはただグルグルと回っているだけのように見えるだろうが、精神的な重圧は強く一瞬でも緊張を切らせるとそれで勝負が決まってしまうだろう。
呼吸すら間合いを読みながら行わなければならない。
息をするのも辛く、一刻も早くそこから開放されたいという望みが首をもたげる。
隙は見える。
だが、それは相手の誘いでもある。
誘惑を断ち切り、私は息苦しさに耐え続ける。
キャシーが半歩詰めた。
体格の差はそのままリーチの差であり、もう半歩詰められると彼女の間合いに入る。
私は引かなかった。
これで、ますます些細な動きも見逃すことができなくなる。
それは相手にとっても同様だ。
キャシーが気合を込めた声を発する。
彼女も精神的に追い詰められている。
私は静かに集中力を高める。
強引にクロックアップしたような状況に身を置くことができるが長くはもたない。
一気に踏み込む。
キャシーは予測していたかのように、カウンターで手を出してきた。
これまでなら強引に蹴りを飛ばしてきたのに、別人になったようだ。
予想は外れたが、彼女の身体の動きから予測はできた。
あえて逃げずに身体ごとぶつけていく。
これでバランスを崩すような甘い相手ではない。
むしろコンクリートの壁にぶつかったかのようにこちらが吹き飛ばされそうになる。
キャシーの懐で接近戦を挑もうとするが、思った以上に分が悪い。
彼女は身体を寄せて圧をかけてくる。
渾身の前膝蹴りも簡単に躱されてしまう。
ただキャシーも攻めあぐねていた。
強引に勝負を決めに来られていたら耐えられなかったかもしれない。
彼女は自分の優位を確信し、それを保ちながらの勝利を目指した。
そのため防御の意識が強い。
とはいえ限界を超えた集中力の制限時間はあとわずかだ。
キャシーの動きは見える。
だが、自分の身体は思考速度に追いつかない。
肉体の枷が私の行動を妨げている。
もっと速くという思いだけが募り、身体は悲鳴を上げていた。
ついにキャシーの左手が私の上体を突き崩し、バランスを失わせる。
生じた間合いにキャシーが突きを繰り出そうとした。
私はブロックしようとしながら反撃を試みる。
しかし、その突きはフェイントで本命は左からの上段蹴りだった。
気づいた私はダメージ覚悟で蹴りに向かって身体ごと踏み込む。
キャシーは片足を上げかけた無理な体勢から右手で私の左肩を小突いた。
軽く突いただけなのに、想定を越える力があった。
私はよろめき、キャシーの左足がスローモーションのように近づいてくるのを見ていることしかできない。
だが、キャシーの蹴りは途中までしか上がらなかった。
寸止めではない。
私の目の前で大きな音を立てて巨体が仰向けに倒れ落ちた。
「日野可恋の反則負けとします」
審判を務めていた師範代がそう宣言してから倒れたキャシーをのぞき込んだ。
私は肩で息をして一歩も動けない。
両膝に手をついてキャシーの様子をじっと見ていた。
キャシーは苦痛に顔を歪めながら右足の臑を手で押さえている。
すぐに結さんが冷却スプレーを持ってやって来た。
ふらついた私は反射的に彼女の軸足の臑を蹴っていた。
私が実戦形式の稽古を行う時は組み手の試合ではなくストリートファイトを想定している。
そのため意識していないと寸止めができない。
空手以外の技を出しそうになることもある。
私は形の選手なのでそれで不都合はない。
今日は運が悪かったということだ。
『キャシー、あなたが勝者よ』と息を整えた私は手を差し出した。
その手を取って立ち上がったキャシーは『もう1戦やろうぜ』と事もなげに言う。
私はニッコリと微笑んで『1戦だけって約束だから』と申し出を断った。
こんな相手と何度も戦う体力は私にはない。
これだけギャラリーがいるんだから、彼女の相手をしてくれる御仁もきっといるはずだ。
「すごい戦いでした」と結さんが興奮気味に称えてくれる。
「勝機はなかったし、完敗よ」と私は苦笑するしかない。
「でも……」と結さんが言い掛けようとしたところで、涙目になったひぃなが「可恋、大丈夫だった?」と駆け寄ってきた。
「なんとか生きているね」と冗談を言うと、ひぃなは私に抱きついて泣き出した。
彼女の前でここまで激しい戦いを見せたことはなかったはずだ。
もちろん負けたところも初めて見せてしまった。
「ごめんね、応援してくれたのに勝てなくて」と謝ると、ひぃなはしがみついたまま「無事だったからいい」と答えた。
おそるおそる私たちに近づいた結さんが先ほど言い掛けたことを小声で囁いた。
ルールがなければキャシーさんは負けていたんじゃないか、と。
ひぃなの前なので私は肩をすくめただけでそれには答えなかった。
だって、人を壊す技術を磨いているだなんて言える訳ないじゃない。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学3年生。空手・形の選手。トレーニングマニアである一方、実戦(喧嘩)で通用する技術を追い求めている。どこまでが正当防衛かといった知識もバッチリ。
キャシー・フランクリン・・・G8。15歳にして身長は185 cmを越える。身体能力の高さは驚異的で人類最強の女性を目指していると話しても誰も冗談とは受け取らない。空手・組み手の選手でアメリカ時代はレスリングの選手だった。将来の夢は忍者。
日々木陽稲・・・中学3年生。いまだに小学生並みの体型で、可恋の指導で筋トレを続けているのに非力。
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