第127話 令和元年9月10日(火)「可恋と純ちゃん」日々木陽稲
夕方だというのに、日差しがきつい。
日焼け止めを忘れると水ぶくれだらけになってしまう白い肌を守るために、日傘をさして歩く。
純ちゃんはスイミングスクールがあるので、放課後のダンスの練習を少し早めに切り上げて慌ただしく帰っていった。
わたしは可恋に送ってもらっている。
今日はこのまま晩ご飯をうちで一緒に食べることになっている。
足の長さのせいなのか、歩くペースが違うので、わたしがせっせと足を動かしても、可恋はのんびりした感じで歩いている。
「急がなくていいよ」といつものように可恋が言ってくれる。
純ちゃんとふたりで歩く時は、純ちゃんがわたしの遅さをよく知っていて完璧に合わせてくれる。
だから、わたしもそれに甘えてしまう。
可恋もペースを合わせようとはしてくれているが、それでも時々はずれが生じる。
もともと可恋はせっかちで、パパッとなんでもやっちゃうからね。
わたしに合わせるのは大変だろう。
「そういえばさ」と可恋を見上げて声を掛ける。
彼女の額には汗が浮かんでいる。
こんなに日差しがあるのなら帽子を持って来て貸してあげればよかったと思いながら、言葉を続ける。
「テレビのニュースで見たんだけど、東京で空手の大会があったんだよね?」
「そうだね」と可恋は頷いた。
「見に行かなくて良かったの?」
可恋は学校の正門前にあるマンションの自宅に鞄を置いてきたからいまはポーチしか持っていない。
それを左手に持ち替えて、右手を後頭部に当て、しばらく言葉を探していた。
「基本的に私は空手の大会を見に行ったりしない。この夏はたまたま手伝いなどがあって行くことになったけどね」
「でも、
「そうだね。見事に優勝したね」
「前に、憧れの選手だって言ってたよね?」
「うん、憧れてるよ。結さんにも誘われたんだけどね」
結さんは優勝した
彼女も空手の選手だ。
「どうして行かなかったの?」
「なかなか言葉では説明しにくいんだけど」と可恋は立ち止まり、わたしに向き直って話し始める。
「いつも言っているように、私は空手が好きだけど、大会に出たり、勝負に勝ったりしたいと思ってやってる訳じゃない」
わたしは大きく頷いた。
「優勝した舞選手の演武は素晴らしい。世界最高と言っていい。生で見たくなかったとは言わない。でも、いまは行かない方がいいかなって思ったの」
「ごめん、分かんない」と言うと、可恋は優しく微笑んだ。
「そうね、分かんないよね。それっぽい理由は並べられるけど、どれも本当だとは言いにくいの……。私にしては珍しく感覚的な判断をしたからなのだと思う」
可恋が真摯にわたしに説明しようとしていることは分かった。
可恋ならもっと適当な言葉で誤魔化すこともできるはずだ。
いまのわたしには理解できないが、彼女が考えに考えて下した決断だとは伝わってきた。
「分かんないけど、分かった」とわたしは微笑む。
「ありがとう。あと、ひぃなに気を使って行かなかったとかじゃないからね。行くと決めたら万難を排してでも行くのが私だから」
可恋が毅然とそう言った。
空手の大会があったことをあとで知って気を回してしまったけど、行きたいならそう言ったはずだ。
「来年はオリンピックだし、その時は一緒に見に行こう」と可恋は軽やかな口調で言って、歩き出した。
「チケットは大丈夫なの?」とわたしも遅れないようについて行く。
「さすがに女子の形の試合は押さえたよ。師範代も関係者のコネを使ってるみたいだし」と可恋は笑った。
「スポンサー枠とかいろいろあるから、母の伝手で他の競技もいまならまだ取れそうかな」と可恋はちょっと悪い顔でわたしにこっそり囁いた。
わたしはスポーツ観戦にはあまり興味がない。
オリンピックも開会式の入場行進がいちばん楽しみなくらいだ。
ただ、純ちゃんも一緒に競泳の試合を見るのはいいかもと思った。
わたしがそれを伝えると、可恋が顔を曇らせた。
「チケットは取れると思うけど、本人はどうなのかな……」
最初は可恋の言っている意味が分からなかった。
そういえば、オリンピックのチケットは高額だと思い出す。
可恋がチケットを手に入れてくれたとしても、お金は払わないと。
でも、純ちゃんの家は裕福とは言えないし、食費やスクール代で大変みたいだ。
わたしが何と答えていいか思い悩んでいると、「オリンピックを観戦して、それが刺激となって一皮むければ行く価値があるんだけどね……」と可恋が頬に手を当てて口にした。
可恋の重苦しい雰囲気が気になって、「最近、純ちゃん、どうなの?」と尋ねる。
可恋は純ちゃんのコーチと意気投合し、頻繁に連絡を取り合っている。
「夏場の泳ぎ込みで記録が伸びなかったみたい。コーチは練習メニューの見直しを考えてるそうよ。安藤さんは真面目だからオーバーワークを心配して、しばらくはダンスの練習のような軽めのものがいいかもって」
それだけの説明ではわたしにはよく分からない。
それを察して可恋が言葉を続ける。
「安藤さんは見ての通り、長身で筋肉がとても発達してるよね。これはコーチの力では身に付かない天賦の才能なの。しかも、真面目で練習熱心。だから、誰もが逸材だと認めているわ。だけど、試合では勝ち切れないことが多い。精神的な勝負強さだったり、試合にピークを合わせる調整法だったり、いくつか欠ける要素があって現状は伸び悩んでる」
可恋の厳しい指摘に、わたしの表情は曇った。
「国から強化指定されればいいんだけどね。いまはまだ都道府県レベルだし、このままだと高校の推薦でも学費の全額免除は難しいのよ」
「わたしはどうすればいいの?」と可恋にすがりつくように言った。
「ひぃなはいままで通り、側にいて、励ましてあげて。それがどんなコーチの指導よりも彼女の力になるから」
わたしは強い意志を込めて頷く。
「あとは……私は自覚の問題だと思ってるのだけど、簡単にできるものでもないしね。何かきっかけでもあれば……」と可恋は歯切れが悪い。
「可恋!」とわたしは立ち止まって呼び止めた。
振り返るのを待って、「競泳のチケットを取って。お金はわたしがなんとかする。これまで純ちゃんにしてもらったことに比べたら、それくらいなんでもない」と叫んだ。
しかし、可恋は眉間に皺を寄せ、「お金は別にいいのよ」と言った。
「問題は、本人がどうなのか。変わろうと思わなければ変われないと思うの」
わたしは小学生の頃、純ちゃんを変えようといろいろやった。
彼女はわたしとしか話そうとせず、勉強もサボりがちで、水泳のこと以外は関心を示さない。
わたしのやり方がひどかったというのもあるのかもしれない。
小学生だったからね。
結局、純ちゃんはほとんど変わることなく中学生になり、わたしは彼女を変えることを諦め、いまの純ちゃんを受け入れた。
「わたしのせいだ」と口にした途端、可恋が厳しい声を出した。
「それは違う。思い上がっちゃダメ。人と人との関係は片方だけで決まる訳じゃない。これまではふたりにとってこの関係が必要だった。ひぃなは安藤さんがいたから、いまのひぃなになれた。同じように、安藤さんもひぃながいたから、いまの安藤さんになれた。完璧ではなくても、ふたりとも立派に成長してると思うわよ」
最後はとても優しい言葉で締めてくれた。
わたしはこのまま可恋にしがみつき、泣き出したかったが、ぐっと堪える。
そんなわたしを見て、可恋は微笑みを浮かべた。
「私ってこう見えて負けず嫌いじゃない?」
こう見えてかどうかはともかく、可恋は負けず嫌いだ。
勝つためには何でもするタイプだし。
「だから、あえて大会を遠ざけてるところがあるのかもしれない。熱くなると何をするか分からないし」と可恋は平然と嘯く。
「安藤さんは、私と正反対で、勝負事には淡白。泳ぐことが何よりも好きで、それだけに邁進してきた。いままではそれで良かったのよ」と一転して真剣な面持ちで可恋は話した。
「急に性格を変えることはできない。でも、必要な要素を分解して、ひとつひとつを技術として習得できれば、この壁を乗り越えられるかもしれない」
「どういうこと?」とわたしが口を挟むと、「例えば、ピークを調整するには自己管理が必要よね。食事、睡眠、練習など自分が何をしているのか認識して記録する。コミュニケーションだってスイミングスクールでは学校よりできてるのだから、精神論ではなく技術的な観点からどうすればいいのか考えよう」と可恋が鋭い眼差しで答えた。
「そんなことができるの?」というわたしの問いかけにも「やるしかないよね?」と戦いの前のような顔付きで可恋はわたしに問い掛けた。
「中学生活はもう残り半分しかない。いまのままでダメなら変えればいいことよ」
全力で吠える可恋にわたしは日傘を放り出してしがみついた。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・中学2年生。ファッションデザイナーを目指す可憐な少女。スイッチの入った可恋は格好いい。
日野可恋・・・中学2年生。空手の形の選手。陽稲のためなら全力を出すことを惜しまない。
安藤純・・・中学2年生。競泳界の期待の星。陽稲の幼なじみ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます