第196話 令和元年11月18日(月)「秋の夕暮れ」日野可恋

 朝は小雨がぱらついたが、昼間は晴れて気温も上がるという。

 うちのクラスではまだインフルエンザで休む生徒はいないが、全国的に流行している。

 予防としては気休め程度だと思いながらマスクを着用して登校した。


 試験明けなので授業では答案を返って来る。

 自分の結果には興味がないので、ひぃなの答案を見ていろいろとアドバイスをする。

 かなりケアレスミスが減っている。

 それだけで大きな前進だ。

 以前の彼女は試験では実力を発揮できずにいた。

 どれだけ勉強していてもテスト本番で自分の力を出せなければ意味がない。


「これなら臨玲は余裕そうね」と褒めると、ひぃなは嬉しそうにしていた。


 臨玲は落ち目の女子高だが、推薦枠は少なく、いまだに昔の名声にすがっているように見える。

 私は成績、母の七光り、そして、NPO代表という校外活動で推薦は通ると思うが、ひぃなは厳しいだろう。

 受験の時期は体調が心配なので私は推薦をもらうつもりだが、ひぃなと一緒に受験してくれる子が欲しいと考えている。

 腐ってもお嬢様学校なので財力が必要で、その条件に見合う知り合いは松田さんくらいだが、残念ながら最近の悪い噂を聞いて進路の候補から外しているそうだ。

 急ぐ必要はないが、面倒な案件ではある。


 授業が終わると、ひぃなは安藤さんとすぐに帰宅する。

 彼女はこれからインフルエンザの予防接種に行く。

 微笑んでいるが少し表情が硬いのは注射が嫌だからだろう。

 私は注射に慣れているが、普通の中学生なら当然の反応だと思う。


「泣いてもいいよ」とからかうと、「泣かないよ!」と膨れていた。


 予防接種は私のことを考えてだと分かるので、彼女の頭を撫でて宥めておいた。


 私もさっさと帰りたいところだが、やるべきことを処理していく。

 麓さんと話をしてから、生徒会室に足を運ぶ。

 小鳩さんとの打ち合わせを終えると、次は体育館へ。

 ダンス部の練習を見学し、顧問の岡部先生と会話を交わす。

 ひぃなからマスクをしていると威圧感が三割増しになると注意されていたが、彼女がいないところでは気にする必要もない。

 今日はこんなところかと私は帰宅した。


 学校の正門前のマンションに帰り、着替えを済ませると買い物に行く。

 近くのスーパーマーケットまで歩いて数分というところだが、これからの時期は足繁くという訳にはいかなくなる。

 宅配サービスもあるが、生鮮食品は自分の目で見て買いたい。

 勉強熱心な華菜さんほどものの善し悪しを見分ける力はないが、それでも気分の問題だ。

 持って帰れる量を考えながらある程度多めに買い込んだ。

 実用だけを考えたせいでひぃなにオシャレじゃないとダメ出しされたエコバッグに買ったものを詰めている時、スマホに着信があった。

 ひぃなからだ。


「どうしたの?」と電話に出ると、「お姉ちゃんが!」と切羽詰まったひぃなの声が聞こえた。


「お姉ちゃんが帰って来てないの。電話しても繋がらないし、LINEやメールを送っても反応がないし……」


 ひぃなの姉の華菜さんは高校生だし、帰って来なくてもまだ心配する時間ではない。

 いつも家族の夕食を作るので真っ直ぐ帰ってくることが多いが、たまには遅れることもあるだろう。

 ただ連絡もなしというのは気になるところだ。


「野上さんは?」と華菜さんの友人の名前を挙げた。


「そっちも連絡が取れない」とひぃなが泣きそうな声で言う。


「お父さんと病院から帰って来たんだけど、お姉ちゃんが帰っていなくて、心配になって連絡したけど繋がらなくて……。お父さんは近くを見てくるって言って……」


「ひぃなは家にいるんだね。私はいまスーパーにいるから一度帰って、そちらに向かうよ」


「……うん」


 私は足早にスーパーマーケットを出て、マンションに戻る。

 外はまだ夜の入口というくらいで、ポツポツと街灯の明かりがつき始めた時間だ。

 私は歩きながら心を落ち着ける。

 私が焦ってはいけない。


 学校の正門前はひと気がなかったが、マンションの入口の前に人が立っていた。

 顔までは分からないが制服のブレザーのように見えた。

 私は物音を立てずに急ぎ足で近付いた。

 俯いて立ち竦むような姿。

 はっきりと顔は見えなくても華菜さんだと確信した。


「華菜さん」と冷静に呼び掛ける。


 彼女は顔を上げ、私を見た。

 逃げるように駆け出そうとしたが、その前に私が追いついた。

 回り込んで彼女の前に立つと、私とぶつかったあとしゃがみ込んだ。


 それほどひどくぶつかった訳ではない。


「大丈夫ですか?」と言って私も彼女の前にしゃがみ込んだ。


 華菜さんは顔を両手で押さえて泣いていた。

 泣き声は上げず、静かに涙を零していた。

 私が肩に手を置くと、一瞬ビクッと身体を震わせた。

 その肩はとても冷たかった。


「風邪を引いちゃいますから、うちに来てください」とできるだけ優しく話し掛ける。


 華菜さんは頷いたが、しゃがみ込んだままだ。

 手を貸そうとすると、「……ゆえが……」と呟いた。


「野上さんがどうかしましたか?」


「ゆえが……ゆえが……停学に……。……わたしの……わたしのせいだ」


 そこまで話すと堰を切ったように泣き声を上げ始めた。

 私は肩を貸して立たせると、そのまま持ち上げるようにして彼女を運ぶ。

 入口にあった彼女の鞄を拾い、左手で自分の荷物と一緒に持ち、右手では華菜さんの身体を支える。

 マンションに入った辺りからは自分の力で歩き出したので、それほど苦労せずに部屋に連れて来ることができた。


 彼女をリビングのソファに座らせ、肩掛けや毛布を渡した。

 部屋の中は私好みにかなり暖かくしてある。

 私はキッチンへ行き、牛乳を電子レンジで温めた。

 そこに砂糖を加えてかき混ぜ、華菜さんの元に持って行く。

 それを飲んでもらい、その様子を見ながらひぃなにメールを送った。


 私が買い物の荷物の整理を終えて戻ると、華菜さんはかなり落ち着いていた。


「……ごめんね。迷惑を掛けて」


「気にしないでください。それにひぃながとても心配していたので、あとで安心させてあげてください」


 牛乳を入れたマグカップを口元に両手で持ったまま、私の言葉に頷いてみせた。

 私は近くのクッションの上に座ると、彼女を見上げて言った。


「話してもらえますか? 何があったのか」




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・中学2年生。免疫力が著しく低い体質に苦しんでいるが、体力をつけたことでかなり改善された。それでも病状が悪化しやすく、リスクは高い。


日々木陽稲・・・中学2年生。今年4月におたふく風邪に罹るまで、大きな病気で寝込んだことはなかった。可恋には「運が良かっただけ」と言われ気を付けるよう注意された。


日々木華菜・・・高校1年生。ヒナ以上に病気に強いと自負している。料理好きゆえに手洗いやうがいを徹底していることがプラスに作用していると思われる。


野上ゆえ・・・高校1年生。華菜の親友。

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