第667話 令和3年3月3日(水)「ひな祭り」日野可恋

 我が家には雛飾りがない。

 昔はあった。

 微かにではあるが、飾られているのを見た記憶がある。

 男雛女雛だけの平飾りだった。

 私が興味を示さなかったので飾ったのは数回だけだったのではないか。

 祖母の家から近隣のマンションに引っ越した際に置いてきたか処分をしたのだと思う。


 そんなことを思い出したのは先日ひぃなの家に行った時に豪華に飾られた雛人形を見たからだ。

 ひぃなが”じぃじ”と呼ぶお祖父様から贈られたものかと思ったら、彼女の母親の嫁入り道具だったと教えてもらった。

 丁寧に扱われ来たと分かる人形たちが入院中の母親に代わって娘ふたりを見守っているようだった。


「どう、素敵でしょ?」


 ひぃなが得意げに胸を反らす。

 マンションのリビングの壁に白い模造紙が貼られている。

 そこに赤い雛壇が描かれ、その上にイラストが貼り付けられていた。

 イラストは三人官女や五人囃子をモチーフとしたものだ。

 その衣装はひぃなが自分でデザインしたと誇っている。

 ロッカー風の五人囃子は良いとして、三人官女がなぜか4人もいた。


「それはね、純ちゃん、小鳩ちゃん、都古ちゃん、キャシーをモデルにしたから」とひぃなが教えてくれた。


「それで、男雛女雛がまだないんだけど」


 聞いて欲しいと彼女の顔に書いてある質問を繰り出す。

 ひぃなは学校から帰ってくるなり客室に籠もりっぱなしだったが、この十二単のような衣装を身に纏うのに時間を掛けていたのだろう。

 私が「そんなの、よくひとりで着れたね」と感心すると、「凄いでしょ。動くとすぐにズレちゃうんだけどね。一種のコスプレだけど、上に羽織っているものは本物だからそれっぽく見えるでしょ?」と嬉しそうに話す。


 いつもであればぐるりと身体を回転させて誇るところだが、ギリギリのバランスで維持しているようだ。

 着崩れると直すのに手間取りそうで、見ているだけでハラハラしてしまう。


「髪はどうするの?」


「お姉ちゃんが来たら結ってもらう」


「華菜さんは料理の支度があるから私が結うよ」


「可恋にはお内裏様の衣装を……」と言い掛けたひぃなに、「それはあとでね。ひぃなの準備が調ったらパッと着てパッと写真に撮ってパッと脱ぐから」と私は畳み掛ける。


 彼女が私の分の衣装まで準備していることは予測ができた。

 ここまで手間を掛けてくれたのだから協力しない訳にはいかないだろう。

 昨年は一斉休校直後の慌ただしい時期でろくにお祝いをしなかったし。

 ただ、動きにくい服を着ている時間はなるべく短く済ませたかった。

 ひぃなは少し不満そうだったが、私の提案を受け入れてくれた。


 彼女の髪はかなりのくせ毛だ。

 色も明るく赤みがかっている。

 日本髪にするには不向きだが、本人は気にも留めずに私に指示を出す。

 どこで手に入れたのかそれ用の厚紙を頭に載せ、その上に長い髪を梳いていく。

 時々髪の状態をスマホで撮影して確認してもらった。


「クセが残るようならそこの部分はヘアアイロンを使おうか」などと彼女の注文を聞きながら形を整えていく。


 そんなやり取りをしている最中に彼女の姉の華菜さんが来てくれた。

 ふたりの母親が入院してからはこちらに来る機会が減っていたが、今日は桃の節句ということでご馳走を振る舞うと張り切っていた。


「パスタマシンをもらったから、桃に見立てたピンクのパスタを作ってみたの。味は普通なんだけどね」


 贈ったのは日曜日なのにもう使いこなしているようだ。

 料理に対してはとても研究熱心なので調理器具ひとつでもレパートリーは広がるだろう。

 必要に迫られてやっているだけの私とでは料理にかける情熱が違う。


 キッチンを華菜さんに任せて私はひぃなの元に戻る。

 そして、心配を口にする。


「その衣装で食事を摂れるの?」と。


 ひぃなは「大丈夫だよ。汚さないように前掛けをつければ」と言うが、果たしてそれだけで解決するだろうか。

 見た目ほどではないものの頭は重そうだ。

 衣装が崩れるのを気にして手も上げられない。


「先に撮影をして、着替えてから食べた方がいいよ」


 渋るひぃなに「せっかく華菜さんが腕によりをかけて作ってくれるんだから」と説得する。

 すると、わずかに顎を引いて頷いた彼女は「分かった。じゃあ髪はもういいから、可恋着替えて」と私を促した。


「そこの青い袋に衣装が入っているから」とひぃなは視線だけで袋の場所を示す。


 私は中から着物一式を取り出した。

 見た目は豪華そうだが生地は安っぽいもので、着方も簡略化されているようだ。

 しかし、男物ということもあって勝手が分からない。

 ひぃなは事前に調べているようだが、口で説明するだけなのであまり頼りにならなかった。


「華菜さんに手伝ってもらうしかないね」


 私はキッチンに向かい事情を説明する。

 華菜さんは苦笑を浮かべ、「一段落したら手伝うね」と快諾してくれた。

 ひぃなは「段取りが悪かったね」としょんぼりしている。


「そういう時もあるよ」と慰めると「可恋でも?」と問い掛けられた。


「私はないかな」と笑って答えると「えー」とひぃなは頬を膨らませる。


 その頬を指先でつついていると、「ほら、イチャついてないで。急ぐんでしょ」とエプロンを外した華菜さんに注意をされた。

 私とひぃなは視線を交わして微笑み合う。


 華菜さんは小さい頃からひぃなの着付けを手伝ってきたので非常に手際がよい。

 ひとりでも着ることができるように簡素化された衣装など朝飯前といった感じだ。

 私の着付けが終わると、ひぃなの髪も仕上げてくれた。


「流石ですね」


「ヒナの髪は10年近く毎朝やってあげていたからね」


 一緒に暮らすようになって私がひぃなの髪を整えている。

 だが、いまも髪型によっては朝のジョギングのあとで華菜さんにやってもらっていた。

 ひぃなの髪の扱いに関してはまだ華菜さんの足下にも及ばない。


 華菜さんに私たちが並んだ写真を撮ってもらい、すぐにプリントアウトして雛壇に貼る。

 完成だ。

 ひぃなは満足そうに雛壇を見上げていた。

 そして、華菜さんに向き直り「ありがとう、お姉ちゃん」と感謝を口にした。


「今年は時間がなかったけど、来年は全員分の衣装を用意して写真で飾り付けがしたいな。二段目は家族枠にするからね!」


 ひぃなの楽しそうな笑みとは対照的に華菜さんは引きつった表情を浮かべている。

 私としては生贄は多い方が良い。

 そちらに意識を集中してくれたら、男雛女雛は今年撮影したものを流用して済ませられるかもしれない。


「可恋の衣装も来年はわたしが自分で作るから楽しみにしていてね!」


 どうやら私の願いは一瞬で夢と消えたようだ。




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・中学3年生。身体を動かしにくい服が苦手。幼い頃に病気で思うように身体を動かせなかった体験が影響しているのかもしれないと自己分析している。


日々木陽稲・・・中学3年生。ファッションのデザイン画は練習の成果で上手く描けるが、人の顔は苦手。彼女が描いた三人官女は肌の色や身体の大きさでしか識別できなかった。


日々木華菜・・・高校2年生。いまはまだ気づかれていないけど将来は結婚したい女性ナンバーワンになると思うと親友のゆえから評されている。彼女自身は妹のヒナ以外にはそんなに尽くす気はないと言っているが……。


日野陽子・・・可恋の母。大学教授。結婚相手も大学教授だったが、可恋を妊娠中に仕事が思うようにできないというストレスを夫にぶつけてしまい離婚を決断するに至る。


 * * *


『お母さんが捨てていなければまだ実家にあるはずよ』


 寝る前に電話で母に雛人形の行方を尋ねてみた。

 母は少し考え込んでからそう答えた。

 祖母はかなりいい加減なところがあるので、実際に行って確認しないとあるかどうか分からないだろう。


『あれって、誰が買ったの?』


 これだけで話を終わらせるのもどうかと思い、私は頭に浮かんだことを質問した。

 母はしばしの沈黙のあと『あなたの父親よ』と答えた。


『初節句のお祝いだったのだけど、当時は生きるか死ぬかという感じでそれどころじゃなかったのよ。こんなものを贈ってくるなんてと思ったほどよ』


 そう語る母の口調はどことなく明るかった。

 私は生まれつき免疫系の障害を持ち、生後しばらくは入院している時間の方が長かった。


『飾るようになったのはあなたが落ち着いてからね。その頃には節句のお祝いをする意味が分かるようになったから』


『意味?』


『1年無事に生きることができたと神様に感謝するような思いね。いまでこそ子どもが大人になるのは当たり前だけど、こうした風習が生まれた頃は子どもの生存率は決して高くなかった訳だしね』


 しみじみとした母の言葉に私は何も言えなくなった。

 何度もダメだと思ったと聞いている。

 いまも神頼みなんてするような人ではないが、それでもそういう思いにたどり着いたのだろう。


『可恋もようやくお雛様の魅力に気づいたの?』とからかうので、『ひぃながね』と事情を説明する。


 本音を言えば、本物の男雛女雛があれば今日のようなコスプレを次回はしなくて済むかもと思ったからだがそこまで言わなくてもいいだろう。

 動くことを考えて作られていない服を着ることは、私にとってはハードな筋トレよりも辛いことだった。


『陽稲ちゃんは良い子ね』


『うん』


『あの子を悲しませないように長生きしなさい』


 もちろん私自身長生きしたいと思っているが、こればかりは私の意思だけではどうにもならない。

 母もそれは分かっている。

 だから「できればね」と返すのが常だったが、私は『分かってる』と答えた。

 それが私なりの誠意だと思ったから。

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