第666話 令和3年3月2日(火)「進学」麓たか良

 ボクシングジムにもトレーニングマシンは置いてあるが、学校帰りの時間帯では空いていないことが多い。

 基本的に強い奴が偉い世界なので、ワタシのような女のガキはいちばん下っ端だ。

 街中を歩くオッサン相手ならワタシが睨むとビビって逃げ出すが、ジムにいるのはヤバい連中ばかりなのでマシンを使っている途中で割り込まれても文句が言えない。

 いつかぶん殴ってやると心に刻むことしかできない。


 そんな訳で週に何度か日野の空手道場に行く。

 そこには日野が寄付したトレーニングマシンが置いてあり、ただで使わせてもらえることになっている。

 自宅に新しいものを買うと古いヤツをここに持って来ているそうだが、半年に1台ぐらいのペースで増えている。

 中学生の小遣いで買えるようなものじゃないだろうに。

 住む世界が違うと感じるが、ありがたく使わせてもらっている。


「高校、行くんだ」


 マシンに腰掛けてレッグプレスをしていると日野が現れ声を掛けてきた。

 ワタシが「文句あるのかよ」と尖った声を出すと、「何しに行くの?」と彼女は冷たく言い放った。


「仕方ねーだろ。ボクシングじゃ食っていけねーんだし」


 男なら夢を見たかもしれないが、女子じゃあ世界チャンピオンになったところでたかが知れている。

 不良の間でだっていまは高校くらいは出ておかないとって認識なのだから、文句を言われる筋合いはない。


 日野は何も言わずにワタシのトレーニングの様子をジッと見つめていた。

 1セット終えると、「もう少し負荷を増やそう」と言い出した。

 ジムのトレーナーから勝手に重量を増やさないよう言われていたので「いいのかよ」と口にしたが、日野は「筋力がアップしたから増やさないと効率が悪い」と淡々と返答した。


 彼女が課した重量はかなりのものだった。

 嫌がらせなんじゃないかと思ったほどだ。


「もっと姿勢を意識して」という日野の声を聞きながら必死で足を伸ばす。


 1セット終えただけで足がパンパンになった。

 息も上がっている。


「コンディションにもよるけど、楽な練習は意味がないから」


 日野の正論にイラッとして、ワタシは「これで本当に強くなれるのかよ」と毒づいた。

 一層目つきを険しくした日野は「正しい練習を続ければ強くなるわ」と素っ気なく答える。


「正しい練習って?」とワタシは問う。


 ボクシングを始めて1年半余り。

 自分の中では強くなったという実感はあるが、それでも勝てないヤツには勝てない。

 ジムのトレーナーから言われる練習メニューだけでいいのかも疑問だった。

 もっと強くなる方法があるんじゃないかと思うものの、それが何かはさっぱり分からない。


「人間の身体は複雑で人類の叡智を集めても分からないことは多いわ。トレーニングの世界では、常識とされていたことが一夜にして間違いだったと評価が一変することだってある。最新の知見の上に、競技の特性、個人差、目的意識に応じたメニューを組む。それが正しい練習ね」


「そんなこと、どうやって……」と言い掛けると、「信頼できるトレーナーを探して雇うのが手っ取り早いでしょうね」と日野は即答した。


「雇うって……」


「パーソナルトレーナーと契約する。価値のある情報や知識を得るためには対価が必要なのよ。高校生ならアルバイトができるでしょ。もちろん独学で身につける方法もあるけど……」


 日野はさも当然という顔で言った。

 ワタシは「独学?」と最後の言葉に興味を示す。


「学校の勉強がなんのためにあるか分かる? よく数学の方程式や古典が将来何の役に立つのかなんて言うじゃない。確かにそういう知識がなくても生きていけるわ」


 突然日野が話題を変えた。

 勉強ができないワタシが普段思っていることを彼女が先に言葉にした。


「でもね、大人になって働くようになってからも新しい知識や技術を学ぶ必要はあるの。いまの時代は変化が早いから尚更ね。そういう時に自分で勉強ができないと苦労する。そのやり方を学生のうちに身につけておく必要があるの」


 ポカンと口を開けるワタシを横目に、「麓さんがトレーニング理論を身につけられないとは言わないけど、もの凄く時間が掛かるでしょうね。トレーニングはいま必要なものなのだから、強くなりたいのならトレーナーに頼るしかないわ」と日野は説明を続けた。

 自分がバカだってことは自覚している。

 日野の言う通り、いまから勉強したって結果が出るのは遥か先のことになるだろう。


「トレーニング理論は生半可な知識だと有害になることもあるのよ。インターネット上に限らず書籍などでも間違った情報はたくさん発信されていて、正しいものを見抜くのは素人では難しいのよ」


「日野はプロなのかよ」と言うと、「第一線の研究者には負けるでしょうけど、少なくとも一般のトレーナーよりは論文を読み込んではいるわよ」とサラリと答えた。


 そして、「トレーナーも玉石混淆だから、信頼できる人を紹介してあげる。そうね、将来ボクシングで何を目指すのか、今後どれくらいボクシングに時間を割くのか、それプラス予算がいくらか言ってくれたら見繕うわ」と日野はほんの少し目つきを緩めた。

 ワタシは日野の言葉を反芻する。

 いまは漠然と強くなることを目指しているが、中学卒業を機にもっと真剣に考える必要があるだろう。


「あと、トレーニングの勉強はした方がいい。自分で正しい練習方法を見出すことはできなくても、専門用語や基本的な考え方は知っておかないと大変でしょ?」と指摘した日野は「たとえば、あなたがボクシングジムで初心者を指導する時ストレートやジャブって言葉すら知らない相手だと困るでしょ?」と例を挙げた。


 普段はあまり喋る方ではない日野だがトレーニングのことになるとよく喋る。

 しかし、専門用語が多いのでほとんど英語を聞かされているようなものだ。

 ボクシングをやる前から比べるとトレーニング関連の言葉もたくさん身につけたが、もっと覚えなきゃいけないってことか。


「そ・こ・で、ついでに勉強のやり方も身につけることにしよう」


「おい、待て!」と止めるのも聞かず、「高校生の本分は勉強なのだから当然よね。何も5教科すべてやれなんて言わないわ。麓さんには英語を学んでもらう」と日野は勝手に決めてしまった。


 ワタシが睨んでもまったく意に介さず、「目標はキャシーと会話ができるようになること。ひぃななんて1ヶ月も掛からずにできていたから、簡単よ簡単」と日野は指を1本立てた。

 無理だと言っても口で日野に敵う訳がない。

 だったら言わせるだけ言わせておけばいい。

 勉強なんてまっぴらご免だ。


「キャシーと意思疎通ができるようになれば、彼女の相手を頼みたいのよ。もちろん、アルバイト代は弾むわ」


 無理だと思う気持ちは変わらないものの心がグラリと動く。

 すると、追い討ちを掛けるように「キャシーの英語は小学生並みなのよ。いくつかのスラングとあとは身の回りの物の名前や中学で習う基本的な動詞さえ分かれば会話は成り立つわ。文法はキャシーもいい加減だから単語を並べていたら通じるし」とハードルを下げたあとで具体的なバイト代をワタシの耳元で囁いた。


「ワタシに英語なんて……」


「大丈夫よ。キャシーとはつき合いが長いんだから言葉が通じなくてもボディランゲージや雰囲気でだいたい分かるでしょ? そこにあと少し言葉でのやり取りをつけ加えるだけだからね、最初は」


 キャシーは対戦相手としては強敵だが、試合の場を離れるとまるでガキのようだ。

 感情は態度に出まくるし、思いつきで行動する。

 ガキ大将っぽい感じでやたらと騒がしい。。

 見た目は巨体でおっかないが、彼女相手なら気を使わなくて済む。


「どう? やる気になった?」


「考えとく」と答えると、「春休みになればキャシーがやって来るから、それまでにスラングをいくつか覚えておいて。あとでリストにして送るわ」と日野はワタシが引き受けたかのように話す。


「そのリストが山ほどあるんじゃ……」と警戒すると、「最初は少しずつね。英会話の基礎を身につけるだけよ。トレーニングと一緒。という訳で、十分休んだからもう1セット行こうか」と日野は笑ってワタシに苛酷なトレーニングを促した。




††††† 登場人物紹介 †††††


麓たか良・・・中学3年生。俗に底辺校と呼ばれる高校への進学が決まった。校内一の不良だが日野には頭が上がらない。


日野可恋・・・中学3年生。トレーニング理論の研究者として論文も発表した。手の掛かるキャシーのお守り役として麓に白羽の矢を立てたので、これでも下手に出ているつもり。


キャシー・フランクリン・・・G8。15歳。彼女の名誉のために言うと1年留年したG8での成績は中の下くらいでまったく勉強ができない訳ではない。周りが苦労して教えている成果ではあるが……。

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