第668話 令和3年3月4日(木)「ひな祭りのあと」松田美咲

 和室に飾られていた雛壇が既に片づけられていた。

 かなりの年代物だ。

 とても丁寧に扱われていて、小さい頃は遠くから眺めることしかできなかった。

 それに人形の顔が怖かった。

 いまでは趣を感じられるようになったが、当時は近づきたいとは思わなかった。


 桃の節句には友人たちを呼んでこの雛壇の隣りの部屋でお祝いをするのが恒例だった。

 最初こそ豪華な雛飾りに圧倒される友人たちもすぐに目の前の料理やお菓子に目を奪われたものだ。

 そんな恒例行事が昨年は行うことができなかった。

 数日前に一斉休校が実施され、友人を家に招くことは許されなかったからだ。

 その時に来年こそはと望んだが、それも叶わなかった。


 県内には非常事態宣言が出ている。

 首都圏ではその期限を延長すると言われている。

 しかし、新型コロナウイルスの影響がなかったとしてもお祝いの席は設けられなかっただろう。

 なぜなら……。


 3月1日の公立高校合格発表のあとから優奈が連絡を断った。

 その日彼女は自分の教室に現れなかった。

 彩花の話ではダンス部の後輩が優奈の姿を学校で見掛けたらしいので職員室には行ったようだ。

 スマートフォンの電源は切られたままとなっている。

 電話は繋がらず、LINEなども既読がつかない状態が続く。


 私立高校の二次募集は早いところでは公立の合格発表の翌日に試験が行われる。

 昨日今日あたりがいちばん多く、発表は当日か翌日というところが多い。

 一方、公立は試験が来週の10日だ。


 優奈はそんなに成績が悪い訳ではないので志望校のレベルを落とせば大丈夫なはずだ。

 問題は精神面だろう。

 彼女は普通の中学生と比べるとメンタルは強い方だと思う。

 リーダーシップがあり、どんな苦境に陥っても前向きに頑張ることができる性格だ。

 だが、それでも彼女は中学生なのだ。

 経験したことのない壁にぶつかった時に常に冷静でいられるとは限らない。


 私立と公立、2回続けての不合格に立ち直ることができないほど落ち込んでいるのではないか。

 自暴自棄になったり、やる気を失ったりしているのではないか。

 そんな想像が浮かび、心配で胸が張り裂けそうになる。

 こんな時に励ます言葉すら掛けられないなんて、それで親友と言えるのか。

 何度も彼女の家まで行こうと思った。


 学校にいても家にいてもジッとしていられないもどかしさが胸の中で燻り続けている。

 かと言って、優奈に会って何ができるのか。

 頑張っている彼女に頑張れと励ましても重圧を与えるだけだろう。

 わたしが会いに行けば貴重な時間を費やさせるだけかもしれないし、余計な気を遣わせることになるかもしれない。

 優奈の方から助けてと声を上げない限り、単なる友情の押しつけになってしまうのではないか。


 悶々とした思いを秘めたまま夕食を摂る。

 友人のことで家族に心配は掛けられない。

 わたしは態度に出さずに完璧に振る舞ったつもりだったが、それでも気がつくのが親というものなのだろう。


「美咲さん」


 自然な感じで父が席を立ち、わたしと母のふたりだけがダイニングに残った。

 すると、母が静かな面持ちでわたしの名前を呼んだ。

 わたしはわずかに固い声で「はい」と応じる。


「お友だちのことですね」


 何もかもお見通しといった母の目を見てわたしは観念した。

 テーブルの上にあった温いお茶を口に含み、「はい」と頷く。


 考えてみれば、優奈が私立に不合格だったことは話していた。

 その後も心配する言動を繰り返した。

 それが公立の合格発表後に何も言わなくなれば、もしやと思うだろう。

 彼女が合格していれば、わたしは両親に報告するはずだから。


 こんな当たり前のことに気が回らないほど周りが見えなくなっていた。

 優奈を励ましたいと思っているわたしがこんな状態では、とても手助けなんてできない。

 わたしも未熟な中学生だったのだと心の中で溜息を吐いた。


 公立の合格発表以降のことを説明し、「会いに行くべきかどうか悩んでいます」と正直に告白する。

 母は穏やかな表情でわたしの話を聞いてくれた。

 そして、おもむろに口を開いた。


「難しい問題ですね。会いに行くのも友情、耐えて待つのも友情、どちらが正解か判別できないのに間違った選択をすると友情にヒビが入るかもしれないなんて」


 母は頬に手を当て初めて沈痛な顔になった。

 確かに、絶対に会いたくないと思っている時に押しかければ迷惑だと感じるだろう。

 一方、本当は助けを求めていたのに会いに行かなければ冷たいと思うかもしれない。


「優奈さんも気持ちが揺れ動いているんじゃないでしょうか。会いたい、助けて欲しいという気持ちと、いまの自分を見られたくない、自分でなんとかしたいという気持ちの間で」


 母の言葉にわたしは「そうですね。簡単に他人に助けを求める子じゃないですから」と答える。

 わたしや彩花に対しては借りを作ろうとしなかった。

 例外は日野さんくらいだろう。

 優奈は見栄っ張りというか格好をつけたがるところがあるので、尚更いまの自分を見せたくないのかもしれない。


 そんな彼女の性格を考えれば、いまはまだ会わない方が良い。

 母との会話を通してそちらへ気持ちが傾きかけたが、それでも消えぬ思いがあった。


「わたしに何かできることはないでしょうか」


 見守るにしても何もしないでいることは苦痛だ。

 親友として何かしなければいけないという焦燥感がジリジリと焼け広がるのを感じる。


「手を出さずに見守ることの辛さは良く分かるつもりです」


 母はわたしをジッと見つめてそう語った。

 両親の教育方針はわたしに様々な体験をさせることだ。

 失敗しても決して怒らないし、むしろ失敗を恐れずに挑戦したことを褒めてくれる。

 事前に口は出さない。

 しかし、いつもしっかり見守ってくれていた。


 わたしは母の思いに触れて目を見開き言葉を失った。

 親としてあれこれしてやりたいという気持ちはあったはずだ。

 不妊治療の末にようやく授かった子だと聞いている。

 これまでも大事に育ててもらっていると感謝してきたが、わたしのためにこんな思いをずっとしてきたのだと初めて思い至った。


「立場や状況が異なるのでただ見守るだけが正解とは限りません。そうですね、優奈さんのご家族と連絡を取ってみてはいかがですか? 協力して彼女を支えることができればいいですね」


 母はとても優しい声でわたしにアドバイスをくれた。

 優奈の両親とはたまに連絡を取り合っているらしい。

 優奈が我が家に来ることが多いが、わたしが彼女の家に行くこともあった。

 その時はちゃんとご挨拶していたが、裏でそんなやり取りがあったとは。

 わたしも優奈も大人から大切に扱われているということなのだろう。


「はい」とわたしは表情を引き締めた。


 緊張する気持ちがない訳ではない。

 比較的大人と接することが多いわたしだが、子どもだからと大目に見てもらえた。

 しかし、いまは非常時だ。

 優奈のご家族も優奈同様辛い思いをしているに違いない。

 そこにひとりで乗り込むのだ。

 相応の覚悟が必要だった。


 わたしは唇を引き結ぶと「優奈のために頑張ります」と決意を表明する。

 両親の教育の成果を示すためにもこの挑戦は成功させなければならない。

 わたしはやり遂げる。

 そして、優奈もきっと。




††††† 登場人物紹介 †††††


松田美咲・・・中学3年生。相当なレベルの資産家のひとり娘。親の教育方針により公立中学に通っていた。高校は東京の私学の伝統校に合格した。


笠井優奈・・・中学3年生。美咲の親友。2年の時にダンス部を創り部長として基礎を築いた。成績は平均的だったが、私立公立と立て続けに不合格となった。


須賀彩花・・・中学3年生。美咲の幼なじみで、2年3年時にクラスメイトとなりいまも仲が良い。ダンス部の副部長を務め優奈とも信頼関係を築いている。彼女も優奈の現状を危惧しているが、優奈本人や美咲から頼まれるまでは動かないと決めている。


日野可恋・・・中学3年生。大人とも対等にやり取りできる規格外の中学生。美咲や優奈にとって自分との力の差を意識しないではいられない存在でもある。

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