第239話 令和元年12月31日(火)「大阪」日野可恋
昨日は1年振りに以前通っていた空手道場に行って来た。
祖母の家のすぐ近くにある道場で、およそ8年間そこに籍を置いていた。
とはいえ、病弱だった私はそう足繁く通えた訳ではない。
小学校ですら半分も出席できなかったのだから、道場なんて更にその半分といったところだろう。
それでも私に与えた影響は小学校以上に大きかった。
生まれつき免疫系に障害があり、幼少期は病院暮らしで寝たきりに近かった。
何とか生き延びることはできたが、体力がまったくなく、それを見かねた母か祖母が家の近くのこの道場に連れて来たのがきっかけだ。
歩いてほんの数分の距離にあるここまで歩くことさえ覚束なく、最初にしたのは呼吸の練習だった。
ただ息を吸って吐くだけ。
それを延々と繰り返す。
意識して呼吸する。
徐々に姿勢なども指導されるようになったが、最初は本当にそれだけをするために道場に来ていた。
そんな私を師匠は熱心に見守ってくれた。
ちゃんと意識して呼吸していれば褒めてくれるし、手を抜くと気付かれた。
当時すでに80代の後半だった師匠は厳めしい顔付きのお爺さんだったが、とにかく凄い人だった。
直接指導することはなく、怒ったり、叱ったりもしない。
しかし、本当によく見ていた。
狭い道場ではあったが、そこで起きたことは視線を向けていなくてもすべて見えているんじゃないかと思えるほどだった。
その師匠は90歳を過ぎたいまも矍鑠としている。
どこにでもいるようなお年寄りに見えるのに、触れれば切られるような鋭さが漂っている。
多くは語らないが太平洋戦争に従軍し、フィリピンで終戦を迎えたと聞いた。
私では想像がつかないような凄絶な人生を歩んできたのだろう。
私は師匠の前で空手の形の演武を披露した。
いまの私ができる最高の演武を。
師匠はひとつ頷いただけだったが、私にはそれで十分だった。
課題はすべて自分の心の中にある。
自分が進む道が大きく誤っていなければ問題ない。
お世話になった他の先生方からは雰囲気が変わったと言われた。
身長などの体型は小6から中1にかけて大きく変わり、引っ越してからはそれほど変化はない。
女の子らしくなったという言葉がお世辞だということは言われた当人がいちばんよく分かっている。
「他人との接し方が変わった」
「覚悟ができた感じ」
「師匠に似てきた」
こうした評はよく見ているなと思うし、言われて嬉しい言葉だった。
最後の「師匠に似てきた」は残念そうに言われたのが解せないが。
旧懐に耽る時間は瞬く間に過ぎ、私は再会を誓ってお暇した。
多くの人の死を見てきた師匠から、私より先に死ぬなと言われたことがある。
私には長生きすることを諦める気持ちがある。
それを見透かされて掛けられた言葉だった。
その時に何と答えたかは覚えていないが、いまなら「はい」としっかり頷くことができるだろう。
大晦日の今日は祖母の大掃除を少しだけ手伝い、午後はのんびり読書をして過ごす予定だった。
ところが、お昼過ぎに友だちから電話があった。
こちらに住んでいた時の友だちから。
会いたいと言うので、近くのファーストフード店で待ち合わせをした。
小学生の頃からのつき合いの三人で、いまにして思えば欠席ばかりだった私の相手を辛抱強くしてくれたと思う。
以前は三人との間に壁を感じていた。
しかし、それはお互い様だろう。
ひぃなと知り合うまで私は他人との間に壁を築くのが当たり前だったのだから。
「久しぶり」と明るく声を掛けてくれた三人は1年の間にそれぞれ成長していた。
みんな垢抜けて、女の子っぽくなっている。
1年の時間の長さと、居心地の悪さを感じる。
「可恋、ますます大人っぽくなったやん」と笑う三尋は眼鏡のフレームが以前よりオシャレになっていた。
「その格好やと、男みたいやん! チョーイケメンの」と騒がしい透夏は相変わらず落ち着きがなさそうだが、少年っぽい雰囲気はすっかり消えてどこからどう見ても女の子だ。
「東京かぁ……、ええなあ、有名人とか見かけたりした?」とあどけなさが残るさくらは髪がかなり伸びていた。
「1年も会わないと、みんな見違えるね」と感想を漏らすと、三人が驚いた表情を浮かべた。
大阪時代の私は自分の意見を口にすることがなく、当たり障りのない会話をするだけで適当にやり過ごしていた。
もしかしたら私がいちばん変わったのかもしれない。
三人は私の新しい生活のことを聞きたがった。
大阪にいた頃の私なら空手と読書に明け暮れ、他人に話すような出来事などなかった。
それが、ひぃなと出会ったことで、快適な環境を手に入れるためにクラスを変え、学校を変え、NPOまで作ってしまった。
激動の一年だったと言えるだろう。
でも、ひぃなと一緒にいる限り、これがデフォルトになるかもしれない。
私が興に乗っていろいろと喋ると、「可恋、そんなに話せるんや」と三尋が感心する。
すぐに透夏が「驚くの、そこかい!」とツッコみを入れた。
さくらは私の活躍よりも「ええなあ、うちもTDL行きたいわぁ」と他のことに興味を示していた。
「可恋が元気そうで何よりやわ」
私の病弱なところをよく知る三尋が実感の籠もった声で言った。
「体力もかなりついたし、今年は暖冬だから助かってる」と答えると、「あれやな、地球温暖化が進めば、可恋にとってはめっちゃ過ごしやすくなるんやな」と三尋が笑う。
「いや、私は良くてもみんなが困るやん」と言うと、「やっと大阪弁が出たな」と三尋にツッコまれた。
少しばかりしんみりして、私は三人に謝りたい気持ちを抱いた。
だが、透夏が「それで、格好ええ男の人はおったん?」と口を開き、「わたしも知りたい」だの「渋谷ってイケメンしかおらへんってホンマ?」だのすぐに騒がしいノリになって私は辟易する。
苦笑を浮かべ、この賑やかな三人を懐かしく思いながら眺める。
見た目は変わっても、本質的な部分はそれほど変化していないのかもしれない。
変わるものと変わらないものを意識しながら、私は肩の力を抜いてお喋りを続けた。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学2年生。小学生の高学年までは祖母の家で暮らしていたが、すぐ近くのマンションに移った。昨年の年末に大阪から神奈川に引っ越した。
* * *
夜。ふたりの電話。
可恋『今日は昔の友だちと会ったよ。ひぃなの言う通り、会って良かったよ』
陽稲『良かったぁ。絶対にそうした方が良いと思ったもの』
可恋『でも、こっちは私の小学生時代を知る人が多いから恥ずかしく感じることが多いね……』
陽稲『私も知りたい! 今度わたしを連れて行って!』
可恋『あー……、まあ、そのうちね』
陽稲『そうやってずるずると引き延ばす気でしょう!』
可恋『ところで、今日は2019年、令和元年最後の日だけど、ディケイド――2010年代最後の日でもあるんだ』
陽稲『……』
可恋『次の10年間はふたりで素敵な日々を過ごしたいね』
陽稲『そうやって誤魔化す! わたしは忘れないからね!』
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