第107話 令和元年8月21日(水)「近況」日野可恋

 モデルという職業の苛酷さの一端を体験した気分だ。

 甘く見ていた。

 いろんな服を着て、ただ撮影されればいいだけだと。

 昨日はごっそりと精神力が削られた。

 これを仕事で行うだなんて私には絶対に無理だと嫌と言うほど理解した。


 モデルをさせられた後、夕食を作る気力が湧かず、ひぃなと高木さんを連れてファミレスに行った。

 ふたりは私の着せ替えで異様にテンションが高くなっていて、頭を冷ます必要があった。

 ひぃなはファッションのことになるとガンガン攻めてくる。

 高木さんも普段と違い絵のことになると積極的だ。

 以前にモデルを引き受けた時も、ふたりのノリに引きずられてしまった。

 昨日も主導権を完全に奪われ、私はただの着せ替え人形と化していた。


 いま振り返れば、私が着た服の中には絶対にこれは違うよねというものが混じっていた。

 ひぃなのイタズラのようなものだが、その場の空気や勢いに私の判断が狂わされていた。

 自分の未熟さが恨めしい。

 ファミレスでは少し頭の冷えた高木さんに、延々と釘を刺し続けた。

 最後は青い顔をしていたので間違いはないだろう。


 ひぃなは真面目で素直で言うことをよく聞いてくれるが、ことファッションに対してだけは頑固な一面を持っている。

 これまでも押し切られることが何度もあった。

 このくらいまあいいかと甘く考えていたが、文化祭に向けては対策が必要かもしれない。

 ポスター用の服くらいだったらいいが、時々常識外れの突飛な衣装を何食わぬ顔で着るように言ってくるからなあ。


 そのひぃなは昨日からうちに泊まっている。

 夏休みの残りの期間は居座るつもりのようだ。

 この午前中は、リビングで安藤さんの宿題を見ている。

 私は朝の稽古から帰った後、今日は一日完全休養日に当てると宣言した。

 昨日の精神的な疲労からまだ回復しきっていないからだ。

 よって、現在は自分の部屋に引き籠もっている。


 お昼はひぃなが作ってくれることになった。

 材料は昨日買っておいたので、任せて大丈夫だろう。

 夜はひぃなの家で食べることにした。

 その後、華菜さんの英語を少し見て、ひぃなとうちに帰って来る予定だ。


 積ん読になっている本を消化したい思いがあるのだが、その前にチェックしないといけないメールを確認する。

 フリージャーナリストの志水アサさんからは谷先生の裁判の件だ。

 売春容疑で逮捕された文科省の元職員の裁判はすでに有罪判決が出た。

 発覚時はテレビのニュースで取り上げられ騒動になったが、判決の記事は新聞の片隅に小さく載っただけだ。

 志水さんはその裁判を傍聴し、いろいろと詳しい内容を教えてくれた。

 今朝のメールはいよいよ谷先生の裁判の日程が決まったというもので、学校周辺に週刊誌の取材などがあるかもしれないと警告してくれた。

 感謝の言葉をメールにしたため、ついでに学校へのスマホ持ち込みに関するうちの学校の取り組みとこれを社会的な関心事にできないか相談する内容を付け加えた。


 神奈川県警の続木さんからもメールが来ていた。

 谷先生の裁判とはまったく別件で、警察署で行われるイベントに参加しないかというものだった。

 最近忙しくて朝の稽古に来ていないと聞いているが、このメールがどういう意図なのかといぶかしく思う。

 万が一、私が警察官への道を進むとしてもかなり先の話だ。

 意味のないことをしそうにない人物なので勘ぐってしまうが、現状では情報不足と判断し、忙しいから残念だけど行けないと返信する。


 生徒会の山田小鳩さんから届いたメールは、夏休み中の生徒会活動の進捗状況が記されていた。

 彼女からは定期的にメールが送られてきている。

 これまでの生徒会活動は教師に与えられた仕事をこなすだけだったが、今年の夏は充実していると書かれていた。

 特に力を入れているのが、中学校へのスマホ持ち込みの件で、PTAと顔合わせを済ませ、今後会合を重ねていくそうだ。

 親の中には反対論も根強いが、一方で登下校時の安全対策として必要という声もある。

 学校での管理の問題が解決すれば前向きに話し合いは進むだろうと小鳩さんは予測している。

 そんなに順調に進展されると困るので、全校生徒へのアンケートの実施を提案する。

 少しでも反対する意見があれば、それを盾に議論を遅らせることが可能となる。

 彼女が困り果てる顔が浮かぶが、苦労してもらうしかない。


 ここでキャシーから着信があった。

 昨日も電話が掛かってきたが、インターナショナルスクールが始まる26日まではこの調子かもしれないと思うとため息が出る。


『遊びに行こうぜ』とキャシーは第一声でそう言った。


 暇でいいなあと思いながら、『新しい道場に行ったんでしょ。どうだった?』と質問する。


『今日は顔合わせだけだって』とキャシーは不満げだ。


『あなたなら強引に稽古に参加すると思ってたわ』と笑うと、『両親が一緒だったからな』と少し声のトーンを落として答えた。


 一昨日、初めて彼女の家族に会った。

 両親と姉はキャシーとはまるで違って常識人だった。

 アメリカ人らしくと言っていいのか、非常にフレンドリーで私や師範代を歓迎してくれた。

 躾も厳しそうに見えたが、キャシーはどこに常識を置き忘れてしまったのか。


『明日東京に行くから、キャシーも来ていいよ』


『行く、行く!』とキャシーは行き先すら聞かずに即答する。


神瀬こうのせ結さんのご家族が経営する道場に行くからね。集合場所と時間はメールする。空手着も持って来て』


 キャシーは嬉しそうに『分かった』と返答した。

 飛び跳ねているのが電話でも伝わって来る。

 私は遅刻したら置いていくからと言って電話を切った。


 その神瀬こうのせ結さんに連絡を入れなければならない。

 学校が始まると土日は部活でつぶれてしまうと聞いた。

 残り短い夏休み期間中は大会終了直後ということで部活は休みだそうだ。

 だから、急ではあるが、このタイミングで伺うことにした。

 ひぃなは当然の顔でついて来ると言った。

 電車で行くなら彼女がいてくれるとありがたい。

 ひぃなが参加すると決まったからキャシーも誘うことができた。

 キャシーの相手をしてくれる人がいないと、見せてもらえることになっている舞選手の組み手の映像を落ち着いて見られないだろう。

 参加メンバーと到着予定時間をLINEで送ると、瞬時に返信が返って来た。

 きっと短い夏休みを満喫しているんだろう。


 夏休み中にクラス全員で見学に行ったファッションショーの窓口を担当してくれた醍醐さんからもメールが届いていた。

 そのショーに出演していたプロのモデルの本庄サツキさんと一緒に私たちの学校の文化祭に来てくれるという内容だった。

 醍醐さんは以前から無理してでも行くと言ってくれていた。

 本庄さんはとても印象的な人物だったので再会が楽しみだ。

 ひぃなも大喜びだろう。

 歓迎を伝えるメールに、ショーの主催者だった人がキャシーをプロモートしたいという話が本気なのかどうか確認したいと付け加える。

 キャシーが本気で格闘技の道を進みたいのなら、そういう人がいた方がいい。

 彼女の家族はスポーツやショービジネスとは無縁だと聞いた。

 彼女ほどの逸材を埋もれさせるのは惜しいという気持ちがあるので、少しくらいなら私も協力したい。


 後は……祖母。

 読まずにそのままゴミ箱に入れたいところだったが、メールを開く。

 私への非難の言葉が並ぶ。

 祖母が来た早々に、ひぃなの祖父の家に行き、祖母が大阪に帰るまで家に帰ってこなかったのだから当然ではある。

 数時間は顔を合わせたのだから十分だろうと私は思っているが、そんな孫に育てた覚えはないだの散々な言われようだ。

 最後に、私が体調を崩す季節になる前に一度大阪に来いと書かれていた。

 文化祭が終わってから、体調が良ければ行くと記したメールを送る。


 他は、LINEやアプリでクラスメイトからの報告の確認をする。

 文化祭の準備の進み具合、夏休みの宿題の残量、私からの課題扱いとなっている女子の筋トレの状況など、それぞれにサッと目を通す。

 文化祭の準備は大きな問題も起きず、予想の範囲内で進行している。

 宿題は何人か絶望的な状況のようだが、自業自得なので私からは特にない。

 筋トレは何人か怪しそうな感じの人がいて、その対応に頭を悩ませる。


 そこにまた電話が着信した。

 担任の小野田先生からだった。

 話があるので、午後にうちを訪問すると言われた。

 こちらから行きますと返答するが、それは断られた。

 学校の正門の目の前にあるマンションなので、こちらから行くのもたいした労力ではないが、あまりおおっぴらにできない話なのだろう。

 ひぃなと安藤さんが居ることを告げると、小野田先生は構わないと言った。


 結局、のんびりできないままにお昼になった。

 ワーカホリックの母みたいだと自嘲ながらリビングに行くと、エプロン姿のひぃなが新妻みたいな口調で「すぐにできるから、ちょっと待っててね」と言って、ウインクをした。

 張り切っているひぃなの邪魔をせずに、ダイニングにいる安藤さんの横の席に座る。


「あとで小野田先生がいらっしゃるから。ひぃなたちも同席していいんだって」とさっきの電話のことを伝える。


「えー、何の話だろう」とひぃなは首を捻る。


 いくつかの推測は浮かぶが、秘密にしなければならないほどの内容となると私も首を捻ってしまう。

 まあ、ひぃなや安藤さんが聞いてもいいくらいだから、ごく一部の生徒や教師に聞かれたくない程度なのだろう。

 面倒事は嫌だなと思うが、良い話という可能性はゼロに近いので少し気が重くなる。


 ひぃなができあがった料理を運ぼうとするのを見て、急いで立ち上がり、それを手伝う。

 いま考えても仕方ないことに気を取られるより、目の前のことに集中しよう。

 ひぃながせっかく作ってくれたんだ。

 気もそぞろな対応をして、ひぃなにへそを曲げられてしまうと大変だからね。




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・2年1組。一応、中学生です。


日々木陽稲・・・2年1組。前もって決められた通りに作るくらいなら料理ができるようになった。アレンジや献立作りなどはこれから。


安藤純・・・2年1組。宿題を終えないとスイミングスクールを休まされるので必死。


高木すみれ・・・2年1組。昨日は至福の時間を過ごした。


志水アサ・・・フリージャーナリスト。教育や女性の人権問題に関心が高い。


続木景・・・神奈川県警の刑事。やり手。


山田小鳩・・・2年生。生徒会役員。陽稲の1年の時のクラスメイト。可恋からは無理難題を言われて振り回されている(陽稲視点)。


キャシー・フランクリン・・・14歳。カレンは電話を掛けても用件だけですぐに切るので何回も掛けなきゃいけないじゃないか。ヒーナは電話だと英語が通じないことがあって困るし。


神瀬こうのせ結・・・中学1年生。朝から、可恋からの連絡を待っていた。


神瀬こうのせ舞・・・結の姉。大学生。空手女子形の日本代表候補。


醍醐かなえ・・・OL兼デザイナー。ファッションショーでは広報などを担当。


本庄サツキ・・・プロのモデル。海外を拠点に活躍中。


日野富江・・・可恋の祖母。大阪在住。可恋たちと離れて暮らして半年が経ち、寂しく感じるようになってきた。


小野田真由美・・・2年1組担任。50代のベテラン教師で、今年度限りでこの学校を退任することが決まっている。

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