第367話 令和2年5月7日(木)「記念日」日々木陽稲

 今日5月7日は、可恋と名前を呼び合うようになってちょうど1周年の記念日だ。

 可恋はこういう記念日に無頓着だけど、わたしにとってはとてもとても大事な日。

 みんなを呼んで盛大に祝いたいほどに。


 可恋と初めて顔を合わせたのは中学2年生になって最初の始業式の日だと思う。

 同じクラスになり、出席番号が可恋のすぐ後ろで、教室の座席もその順番になった。

 実はその日は可恋の誕生日で――もちろんその時は知らなかった――特別な記念日という意味合いより誕生日の方が”強い”感じがした。

 分かってくれるよね?

 だから、可恋とのいちばんの記念日はこの5月7日だと思っている。


 1年前は特別なゴールデンウィークだった。

 令和に年号が代わり、お祝いムードが高まっていた。

 10日間にも及ぶ長期休暇となり、それ自体は嬉しかったものの可恋と会えないもどかしい日々だった。

 4月はおたふく風邪に罹ったり札幌のお祖母ちゃんが亡くなったりと凶事が相次ぎ、仲良くなりたかったのに可恋と話す時間は限られていた。

 連絡先の交換もままならず、連休明けの7日は待ちわびた思いを胸いっぱいに膨らませて登校した。

 そして、念願叶って友だちになったのだ。


 初めて見た時から可恋は特別だった。

 その思いは1年経ったいまも変わらない。

 可恋との関係は思い描いていた以上に仲良くなったと思う。

 いまなんて可恋とふたりだけで一緒に暮らしているのだから。


 しかし、可恋に隠れてお祝いの準備に全精力を傾けたかったのに、それどころではなくなってしまった。

 今日のオンラインホームルームでわたしはみんなに英語を教えることになってしまったからだ。


 可恋のお蔭で学校の成績は上がっている。

 これまでも純ちゃんや都古ちゃん相手に勉強を教えることはよくあった。

 それでもオンラインでクラスメイト全員の前でとなると勝手が違う。


 みんなの注目を浴びることには慣れているので気にならない。

 それなのに人前や試験の場で失敗することは極度に恐れてしまう。

 なぜかは分からない。

 自分でも不思議に思っている。

 可恋はわたしが完璧主義者だからだと分析しているが、そんな自覚はない。

 みんなの前でお喋りならできるのにお芝居だとセリフが出て来なくなる。

 ピアノの発表会では頭が真っ白になった。

 大事な試験ほど集中できなくなってしまう。

 自分でもどこからが平気でどこからがダメなのか線引きがよく分かっていない。


 しかもである。

 可恋から「適度に失敗してあとの人たちのハードルを下げて欲しい」と言われている。

 わたしのプレッシャーを軽減する意図があったと思うけど、可恋のことだから半分くらいは本気で言っていそうだ。

 可恋は目先の成功失敗よりも遥かに遠くを見ている感じがする。

 本当に同じ歳――誕生日の関係でほぼ丸1年の差はあるが――なのかと思うことだってよくある。


 とはいえ、可恋を真似さえすれば良いというものではない。

 それは可恋のお母さんの陽子先生だけでなく、2年生の時の担任の小野田先生や可恋が通う道場の三谷先生、そしてわたしのお母さんからも指摘されたことだ。

 異口同音に言われたのは可恋と同じになる必要はないということだった。

 可恋だって人間だから間違うことはある。

 その時に間違っているよと言ってあげられる関係を築きたい。

 そのためには可恋の真似ばかりしていてはいけない。

 可恋とは違うわたし自身の力を伸ばしていかなければいけない。


 そんなことを考えながらオンラインホームルームに臨んだ。

 可恋が隣りにいるのでガチガチに緊張せずに済んだ。

 それでも失敗するかもという不安が頭を何度も過ぎる。


 始まる直前に今日はオブザーバーとして担任の藤原先生と副担任の君塚先生が参加すると知らされた。

 藤原先生はともかく、君塚先生は厳しいことで知られている。

 その上、担当教科はこれからわたしが授業をする英語だ。

 まだ君塚先生の授業を受けたことはないが、その前で披露するというのは更に重圧が掛かる気がした。


 可恋が出欠を取り連絡事項を伝える。

 今日はついにクラスメイトの30人全員が参加した。

 どんな魔法を使ったのか。

 それほど可恋はオンライン授業に力を入れているようだった。


 いよいよわたしの授業が始まる。

 興味深そうに眺める顔が画面に並んでいる。

 その中のひとつ、可恋の顔を見てわたしは肩の力を抜いた。


『それでは始めます。英語の現在完了を説明しますね』


 このために何度も練習してきた。

 話すことはすべて頭に入っている。

 それなのに頭に血が上ったかのように頭の回転が鈍くなるのを感じる。

 落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせながら授業を続ける。

 みんな分かってくれているだろうか。

 早口にやらないように気をつける。

 現在完了の3用法については何度も何度も繰り返し説明する。

 やがて、可恋から『あと1分でお願い』と告げられる。


 焦る。

 必死に口を動かす。

 覚えた言葉はちゃんと出て来ている。

 抜けがないか考えつつ、急がないとと慌てつつ、みんな聞いているのか顔を確かめつつ、わたしは話し続けた。


 なんとか話し切った。

 頭が熱くなり、汗が噴き出ている。

 たぶん顔は真っ赤だろう。

 茹で上がったような脳みそで最後は駆け足だったなと反省する。

 可恋があとを仕切っているのをボーッと見つめながら、わたしはやり遂げた虚脱感に包まれていた。


「御苦労様。何か飲み物を持って来ようか?」とオンラインホームルームが終わった途端に可恋がわたしを気遣ってくれた。


 わたしは答えずに、ソファで隣りに座る可恋の太ももの上に倒れ込んだ。

 いわゆる膝枕の状態だ。

 普段はゆったりした部屋着だから気づきにくいが下から見上げると大きな胸が邪魔で可恋の顔が見にくい。

 可恋の太ももはゴツゴツしていて、少なくとも記憶にあるお母さんの膝枕とはかなり違う。

 それでもわたしの心は落ち着いた。


 可恋は仕方がないという顔でいちどわたしをのぞき込み、それから左手でスマホを操作しながら右手でわたしの髪を撫でてくれた。

 参加者は感想をひとこと書くように言われているのでわたしのスマホにも通知が来ている。

 可恋はそれを見ているのだろう。

 わたしは見る気になれず、ただじっとここで寝転がっていたかった。


「君塚先生がひぃなの発音を褒めてるよ」と可恋は楽しげだ。


「わたしの授業、どうだった?」と尋ねると、「いろいろと課題が出て来て興味深かったよ」と返事が来た。


 わたしの授業の評価をするのかと思ったら、可恋の興味は別にあるらしい。

 可恋はわたしの頭に触れながら熱く語り始めた。


「顔を見て話を聞いているか確認しながらだとラグがあるせいで手応えをつかむのに時間が掛かるね。人数が多くなると尚更。オンライン授業はもっと少人数が良いと思う」


 学校の教室で今日のような授業をした経験はないが、発表などで教壇に立つことはある。

 その比較で言うと、やはり話したことへの反応にタイムラグがあるのはやりづらかった。


「あと、聞くだけだと頭に入りにくいね。見ることで覚えたり、手を動かして書くことで覚えたりするから。いろいろ方法はあるけど、もっともアナログな手法で紙に書いてそれを見せるのはどうかな。次の人にやってもらおう」


「可恋はオンライン授業のノウハウを得るためにこの宿題を出したの?」


「いくつかの理由のひとつではあるね」


 授業を行う生徒にとっては普段の勉強とは異なる刺激を得られる。

 聞く側の生徒は、少なくとも自分の番が回るまでは真剣に聞いてくれるだろう。

 それ以上に可恋はオンライン授業の実験がしたかったようだ。


「全員とは言わないけど、教師はプライドがあるから失敗を避けようとするでしょ。失敗しても他の人と共有しなかったら意味がない。その点これなら失敗が前提だからそこからいろんな教訓を引き出せるかなって」


 授業の内容を考察したレポートを中学校だけでなく、母親である陽子先生や知り合いの教育委員会関係者、それに自分が代表を務めるNPOにも報告してフィードバックするそうだ。

 オンライン授業のあり方はまだどこも手探りに近い。

 環境が整わない問題はあるが、この取り組みは今後も続いていくだろう。

 学校が再開されたとしても、また休校になる可能性だってある。

 この感染症とは長い戦いになると言われている。


「可恋にとってもオンライン授業が広まれば助かるものね」と言うと、「私は関係ないよ」と可恋は即答した。


「関係があるからそんなに頑張っているんじゃないの?」


 可恋は免疫系に障害があり、休校が解除されても登校できるか分からない。

 オンライン授業に熱心なのはそれが理由だとおもっていた。


「私の場合必要ならマンツーマンで教えてもらう。多人数の講義を聴くなら本を読んだ方が学習効率が高いと思う」


「じゃあ、なんで?」とわたしは上体を起こして聞いてしまう。


「いろいろとメリットがあるけど、それよりも面白いからかな」と可恋は楽しそうに微笑んだ。


 わたしが足の上から退いたのを機に可恋は立ち上がり、「飲み物を淹れるね」とキッチンに向かった。

 名残惜しいがしょうがない。

 わたしは息を吐いて肩を落とし、スマホで通知を確認する。


 戻って来た可恋は熱い紅茶を淹れてくれた。

 その香りが疲れを吹き飛ばしてくれる。

 ふーふー吹いて冷ました紅茶を口に含む。

 やはり可恋が淹れた紅茶は最高だ。

 贅沢な幸せを感じていると、可恋が手を差し出して「これ」と言った。


 可恋が手のひらを広げると何もない。

 キョトンと可恋の顔を見上げると、「ちゃんと見て」と言われた。

 再び手のひらを見るとなんとそこにはキラキラと輝くものがあった。


「え?」って驚くと、可恋はしてやったりと口角を上げた。


「お祝い、考えてくれているんでしょ? だから、先制攻撃」


 それはダイヤのイヤリングだった。


 わたしがもう一度驚きの顔で可恋を見上げると、その左耳に同じダイヤのイヤリングがはめられていた。


「……ずるい」


 そう言うしかないじゃない。

 わたしが可恋を驚かそうと思っていたのに。


 可恋はわたしの右耳にイヤリングを付けてくれた。

 少しこそばゆい。


「ありがとう、可恋」


 わたしは最高の笑顔を可恋に向けた。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・中学3年生。ロシア系の血を引く日本人離れした美少女。


日野可恋・・・中学3年生。母は著名な大学教授。可恋自身大学生レベルの学力をすでに有している。


 * * *


「これ、わたしからのプレゼント」


 お姉ちゃんに持ってきてもらったのは少し値が張るティーセットだ。

 高級感のある海外製の陶器はこの部屋の雰囲気に合っている。


 プレゼントには頭を悩ませた。

 1ヶ月前の可恋の誕生日でプレゼントを渡したし、可恋は物欲があまりない。

 服は最近ふたりでたくさん買いまくっているのでありがたみを感じないかもしれないと思った。

 アクセサリーも考えたが、可恋は普段身につけない。

 可恋と言えば紅茶の香りを思い出すほど紅茶好きなのでこれにした。


「ありがとう。嬉しいよ」


 喜んでくれてわたしも嬉しい。

 しかし、可恋に気づかれないようにコソコソ用意していたのに……。

 もしやどこかに盗聴器でも仕掛けられているのではと思ったけど、それならそれでいっか。

 今度可恋がいない時に、100回くらい「可恋大好き」って叫んでみよう。

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