第33話 令和元年6月8日(土)「強さ」日野可恋

 この季節にしてはかなり肌寒い朝。

 空手の稽古にはちょうど良いと感じたが、身体を冷やさないようにと思いつつ帰り支度を急いでいた。


「可恋ちゃん、時間ある?」


 更衣室で声を掛けてきたのは続木さんだった。


「そうですね。大丈夫です」


 気持ちを顔に出さないように気を付けながら返答する。


「朝ご飯、奢ってあげる」


 既に着替えを済ませていた続木さんの後に続いて更衣室を出る。

 スマホを取り出して、母にメールを送った。

 案内されたのは近くのファミレスだった。


 向かい合って席に着く。

 続木さんは朝からガッツリしたメニューを頼んだ。

 私はモーニングセットにする。

 特に会話らしい会話もなく、食事に集中する。


 続木さんは神奈川県警の刑事で、外見は30歳くらい。

 中肉中背でどこにでもいる普通の女性に見える。

 実際はもう少し歳を取っていて、相当怖い人だ。

 地味めな化粧や装いで巧みにカモフラージュしているが、道場で対峙した時の威圧感は半端ではない。


「可恋ちゃん、警察官にならない?」


 食事が終わり、紅茶を飲んでいると唐突に勧誘された。


「興味ありません」


 即答すると、大げさに残念がる。


「なりたいものとかあるの?」


「ないです」


「まあ、まだ中学生だものね」


 続木さんはそう言ってコーヒーを口にする。


「ここだけの話だけど、あの先生、詳細な日記を書いていてね。とても助かるわ」


 世間話のような顔つきでそう話した。

 機嫌が良さそうに見えるのは、思いのほか大きな事件に進展したからだろう。


「子ども二人もすらすらと話してくれているし、このままいけば夏休みが入ってすぐにってことになりそうよ」


 渡瀬さんと三島さんは補導された翌日には自宅に帰され、その後は任意で事情聴取を受けていると聞いている。

 そして、谷先生の起訴は生徒への影響が少ない夏休みになるようにと大人たちが調整している。


「あの先生、児童ポルノや売春は危険だと思っていたみたいなのに、一度やってからそれに気付く程度の頭の持ち主なのよね」


 続木さんが声を潜めて教えてくれた。


「バレなきゃ平気と思っているタイプなのでしょうか」


「派手にやらなきゃバレないと思ってたのでしょうね。証拠隠滅も全然していなかったし、不用心よね」


 確かに不用心だが、今回はふたりを補導した直後に谷先生の自宅を警官が訪れた。

 逮捕状は間に合わないので任意だったが、証拠を消す時間を与えずに済んだ。


「LINEのメンバーは確認できましたか?」


 私はいちばん気がかりだったことを尋ねる。


「メンバーの確認作業は進んでいるけど、逮捕までは行けそうにないわね」


「そうですか」


 盗撮画像がSNS上に流れてきて、それを見ただけでは犯罪にならない。

 グループに入るにはお金のやり取りがあったと思うが、立件は難しいだろう。


「メンバーのリストはこっそり教えてあげるわ」


 続木さんが微笑んで言った。

 この人には借りを作りたくない。


「お願いします」


 とはいえ、ひぃなの顔写真が流れている以上、警戒を怠る訳にはいかなかった。


 その後、いくつか情報交換をして席を立った。


「ねえ、やっぱり県警に来ない?」


「まだ中学生ですよ」


「そうよねえ……」と続木さんが肩を落とす。

 どこまで本気なんだか。

 ただ気を付けないと、他のことでこき使われそうな予感がする。


「署まで送ってあげようか?」


「いえ、結構です。一度、家に帰ります」


「そう。じゃあ、また後で」


「ごちそうさまでした」


 私は一礼して続木さんを見送る。

 今日は事情聴取のため警察署に行くことになっている。

 他のクラスメイトは昨日のうちに話を聞かれたようだが、私は昨日学校をサボったし、他の子よりも時間が掛かるのは目に見えている。

 面倒だけど、仕方がない。

 私は軽く身体を動かした後、自宅に向けて走り始めた。




 強さというのは腕力だけを意味するわけではない。

 腕力の強さも重要だが、武器を使われたり、2対1の状況になるだけでその優位性は覆される。

 頭脳、権力、人脈など強さには様々な要素がある。

 戦わずに済ますことがもっとも理想の強さの形だと言えるが、自分ひとりならまだしも誰かを守りながらだととても難しいと実感した。


 続木さんを敵に回した場合、今の私では勝てる要素がほとんどない。

 空手の組み手なら10回に1回勝てるかもしれないが、実戦では他の武道も身に付けている続木さん相手に勝ち目はない。

 頭が良くて、国家権力を手にしていて、恐らく人脈も豊富だろう。


 続木さんから見れば、今の私はちょっと使える小娘程度の存在だろう。

 勝てなくとも、せめて「敵に回したくない」と思われるくらいにはなりたい。

 強さは一朝一夕に身に付くものではない。

 それでも手軽に身に付けられるものはある。

 それは知識だ。


 続木さんを想定し、まずは法律からかなと私はいくつかの参考書を電子書籍で購入する。

 空手だって知識というベースがなければ効率的に強くなれない。

 どんな分野でも知識を持っていなければ軽く見られる。

 ほんの少し前の時代では知識イコール権力だった。

 今の時代は学ぼうと思えば誰もが簡単に知識を得られる。

 これまでも知識の吸収には意欲的だったつもりだけど、更に強い目的意識ができたと思う。

 私はひぃなの顔を浮かべながら、真っ直ぐな道を走り続けた。

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