第295話 令和2年2月25日(火)「眼」日々木陽稲

 可恋の顔の中でもっとも印象的なのは眼だ。

 切れ長のその眼は彼女の知性の高さと意志の強さをたたえている。


 ……それだけに下級生が睨まれただけで怯えてしまう気持ちも分かるけどね。


 顔半分がマスクに覆われているだけに、余計にその眼の輝きに惹きつけられる。

 わたしがうっとりと眺めていると、可恋は「何?」と言うように視線を動かした。


「休まなくて大丈夫なの?」


 わたしもマスクをしているので自分の声がくぐもって聞こえる。

 可恋のと比べれば安物のマスクだけど。

 マスクの入手が困難だと報道されている通り、最近は本当にどこにも売っていない。

 可恋にかなり早い段階で確保しておいた方が良いと言われていたから家にはまだ在庫はある。

 しかし、一家4人で使うことを考えればあと1ヶ月持つかどうか怪しい状況だ。


 教室内にマスク姿は意外と少ない。

 咳やくしゃみの音が聞こえると、ビクリとしてしまう。

 マスクの予防効果は限定的だと言っていた可恋が登校してくるとは予想外だった。


「いまは体調が良いからね」と可恋は目元をほんの少し緩めて答えた。


 可恋のことは心配なものの、一方で彼女が教室にいることに安心感もあった。

 学校が休校になればいいのにという言葉は生徒たちの間で挨拶のように交わされている。

 それは怠けたい気持ちがあっての意見だが、この状況への不安も少なからずある。

 ウィルスが目に見えないだけに蝕まれるような恐怖が心を鬱々とさせていた。


 授業は試験の答案の返却がメインで、クラスメイトの一喜一憂する声が聞こえる。

 可恋は自分の試験の結果をまったく気にしない。

 気にする必要がない成績だからではあるが、点数を隠すこともしないし、満点だろうといくつか間違えていようと表情は一切変わらない。


 わたしはそこまで平常心ではいられない。

 不安だった英語がそれほど酷くなくてホッとした。

 逆に手応えのあった国語の結果は前回と同じくらいだった。

 どちらも90点は超えていたので以前のわたしなら満足していたことだろう。

 高校受験には問題ない点数だが、可恋が求めるレベルは高い。

 自分の答案よりはるかに真剣にわたしの答案を凝視した可恋は「勉強のカリキュラムを考えないとね」と口にした。

 この点数で満足していては可恋について行けない。

 わたしは「……お願いします」と言ってうなだれた。


 4限が終わったあと、可恋がスッと立ち上がり、わたしの耳元で「家に帰って食べるから」と囁いた。

 わたしは驚き、「いいの?」と小声で確認する。


「小野田先生から許可をいただいたの。他の子には内緒ね」と微笑み、「食事中はマスクができないから、ひぃなも気を付けてね」と言って教室を出て行った。


 気を付けてと言われても学校内でできることは限られている。

 わたしは純ちゃんと手を洗いに行き、可恋から叩き込まれた手洗いの方法をしっかりと実践する。

 冷たい水で20秒以上の手洗いは大変だが、我慢するしかない。


 可恋は5時間目が始まる直前に何食わぬ顔で戻って来た。

 可恋は生まれつき免疫系に障害があるので、欠席や早退が多くても大目に見てもらえる。

 今回の感染症は若年層の重症化は少ないと言われているが、可恋にとってはリスクが高い。

 担任の小野田先生を始め学校側が彼女の体質のことをよく理解しているのでこのようなことが許されたのだろう。


 いつもは帰りに可恋のマンションに寄って一服することが多い。


「先にスーパーに行っていい?」と今日は帰り際に可恋に言われた。


 マスクを節約したいそうだ。

 わたしと違って外したマスクはすぐに処分する可恋だから、一緒にお茶を飲んだだけで新しいマスクが必要になる。

 わたしは「もちろん!」と承諾し、買い物に付き合った。


 可恋の買い物は頭の中にリストが出来上がっていて、それを籠に入れていく作業のようなやり方だ。

 野菜などを選ぶ時以外は迷いがない。

 わたしは料理の腕こそわずかながら向上したが、献立を考えたり、そのための食材を準備したりといったところが全然できていない。

 わたしがするのは、お菓子を見て「これ美味しそう!」と声を上げることくらいだ。

 それだって可恋は栄養成分表示をじっくり見て買うか買わないか決める。

 荷物持ちにもならないので、可恋の買い物の邪魔をしないようにと心がけていた。


「楽しそうだね」と買い物が終わり、可恋のマンションに向かう途中でわたしは声を掛けた。


 たぶん、わたし以外では気付かないだろう。

 普段とのほんのわずかな違い――歩く時の軽やかさやわたしの顔を見る頻度、その時の目つきなど――から察することができるのは、可恋の観察を続けてきた成果だ。


「分かる?」と可恋は意外そうな表情をした。


「分かるよ」とドヤ顔で答えると、可恋が目を細めた。


「明日は検査の日だけど、今月は中止になったのよ」


 可恋は毎月1回横浜の大学病院に検査に行く。

 決して楽な検査ではないらしい。

 肉体的にも精神的にも辛いようで、検査のあとはよくわたしに癒やしを求めてくる。


「大丈夫なの?」と心配して尋ねると、「この前入院した時にもいくつか検査したしね」と可恋は眉を寄せた。


 可恋のマンションに到着し、手洗いやアルコール消毒を済ませ、可恋は部屋着に、わたしは置かせてもらっている自分の私服に着替えた。

 週末に泊まりに来た時に私服を置いていくことがあり、いつの間にか可恋が持っている服の数よりわたしが置いている服の数の方が多くなった。

 それでも私の持っている服のごく一部だし、着たい服がないことも多いのでまだまだ自重する気はない。


 マスクを外し、「やっと落ち着くね」と言って自分の家のようにくつろぐ。

 仕方がないとはいえ、ずっとマスクをしていると息苦しさを感じる。

 わたしは可恋が淹れてくれた温かい紅茶を口にした。

 この香りがわたしをもっともリラックスさせてくれる。


 可恋もマスクを外して紅茶に口をつける。

 紅茶を飲む仕草ひとつとってもわたしと違って大人っぽく見える。

 つい見とれていると、「何?」と可恋が口を開いた。


「やっぱりマスクをしていない方が魅力的だなって」


 可恋の眼は印象的なだけに、マスクをしているとどうしてもキツく見えてしまう。

 マスクしていなくてもキツく見られがちなのだから尚更だ。


「……ありがとう。ひぃなはマスクをしていても素敵なのに、私は精進が足りないわね」


 そう言って微笑む可恋の目元は優しく、これを維持できれば”怖い先輩”なんて恐れられずに済むのにと思ってしまう。

 わたしとしては、あらぬ誤解さえ広まらなければそれでいいんだけど……。


「そういえば原田さんからバレンタインデーの件で可恋と話がしたいってラインが来ているよ」


 バレンタインデーでは可恋がチョコレートをひとつしかもらえなかったことに腹を立て、来年はチョコレートの校内持ち込みを禁止するという噂が流れた。

 事実無根――とは言い切れない部分もあるが――なのに、それを信じてしまった原田さんが動き出したようだ。


「そう」と可恋は不敵に微笑む。


 あー、そんな悪い顔をするから原田さんたちに「魔王」なんて言われるのよ!

 可恋は口角を上げ、何か悪巧みをしているかのような目つきだ。

 いや、実際に悪巧みしているんだろうなあ……。


「ほどほどにしてあげてよ」とわたしは軽く溜息をついた。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・中学2年生。ロシア系の血を引く美少女。本人は自分の外見よりも相手の感情を読み取る力を誇っている。


日野可恋・・・中学2年生。整った顔立ちだが目つきの鋭さや居丈高な雰囲気のせいで男子からも恐れられている。


原田朱雀・・・中学1年生。光の女神(陽稲)を救うために魔王(可恋)に立ち向かう勇者……のつもり。


小野田真由美・・・2年1組担任。日野は欠席は多いが自分の勉強は言われなくてもするし、クラス内に勉強する雰囲気を作ってくれるので任せている。ただし、暴走したら止めるのが難しいので警戒は怠らない。

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