令和2年7月

第422話 令和2年7月1日(水)「憂鬱な朝」塚本明日香

 鏡に映るおでこのニキビに顔をしかめてしまう。

 撥ねる髪をヘアピンで留めるがどうもしっくりこない。

 溜息を吐きながら、これでいいかと思ったところで急激な腹痛に襲われた。


「イタタタタタタ……」


 左手をお腹に当てて思わずしゃがみ込んでしまう。

 キリキリと差し込むような痛みだ。

 目を閉じ、息を止め、痛みを堪える。

 ほんの少しマシになったところで大きく息を吐き出した。


 ……ストレスが原因かな。


 生理は終わったばかりだし、腹痛を引き起こしそうな物を食べた覚えがない。

 分散登校が終わったあたりから学校に行くことを考えただけで気が重くなった。

 今日は雨だし、給食が再開されて6時間授業となる。

 身体計測があることも煩わしいと感じていた。


 9年間も学校に通っていたのだから、行きたくないと思う朝はあった。

 小さい頃は駄々をこねたり、行き渋ったりしたことはあった。

 しかし、こんな風に酷い腹痛が起きたことは初めてだった。


 休校中にストレスを感じていた。

 学校が再開しても解消されたとは言い難かった。

 感染防止対策でアレをするなコレをするなと言われ、むしろ余計にストレスが募った。

 それでも分散登校の間は助走期間ということでのんびりした雰囲気があってなんとか耐えられた。

 それが分散登校が終わると一変した。

 ギアが変わるように授業のペースは上がり、教室に大勢の生徒がいてそれぞれのイライラが増幅する感じがした。


 受験生なんだから勉強しなければならない。

 それが分かっていても、わたしは気持ちをうまく切り替えられなかった。


 こんな時に真っ先に頼るべきはつき合っている彼だ。

 だが、彼は6月から塾だけでなく家庭教師も始めていて、すでに受験モードに突入している。

 平均点くらいのわたしと違い、彼はそこそこ成績が良い。

 親からも期待されている。

 足を引っ張りたくないという気持ちがあって、彼の前では暗い顔を見せないように気をつけていた。


 わたしは居間にいたお母さんに言って薬箱から胃薬をもらった。

 お父さんがよく使っている漢方薬だ。


「大丈夫? 顔色が悪いわよ」と声を掛けられ、「薬を飲んで様子を見てみるね」とわたしは答えた。


 中学生になって休んだことなかったのになあ。

 惜しいような気もするが、教室のあのどんよりとした空気の中に入っていく元気は残っていそうになかった。

 最初のような激痛は治まったが、いまも不快感があり、波のように痛みがぶり返す。

 さすがに欠席したからといってコロナだと中傷する愚かな中学生はいないと思う。

 とはいえ無理をすれば行けそうな気がして簡単に休むとは言い出せなかった。


 薬を飲み、ぼーっと立ち尽くす。

 どうしようかと悩んでいるつもりなのにうまく頭が回らない。


「どう?」とお母さんが様子を見に来てくれた。


 おでこに手を当てる。

 その手が柔らかくてスッと力が抜ける感じがした。


「今日は寝ていなさい。痛みが続くようなら病院に行きましょう」


 そう決断してもらって、わたしはホッとする。

 自分では決められなかった。

 わたしは左手でお腹を押さえたまま「少し横になるね」と言って自分の部屋に戻った。


 面倒だけど制服を脱ぎパジャマを着る。

 ベッドに横になるともやもやした気持ちの一部が消え、少しだけ心が軽くなった。


「あ、そうだ」とわたしは口に出してスマホを手に取った。


 彼氏と春菜に休むとメッセージを送る。

 彼からはすぐに『お大事に』と返信があった。

 そこに添えられたハートマークに心が癒やされる。


 春菜は学級委員に指名され、勉強の邪魔だと嘆いていた。

 彼よりもランクの高い高校を目指しているだけに、休み時間でも参考書を眺めていることが多い。

 2年生の時ほど気軽に声を掛けられなくなった。


 一方、3年になってから友だちになった美花はマイペース過ぎてこちらが苛立ってしまう。

 都合の良い時だけ友だち面するからなあ……。

 彩花のお蔭で女友だちが苦手という意識を克服できたと思ったのに、美花によって台無しにされた気分だ。

 その彩花は今日から部活再開ということで張り切っていた。

 忙しそうだが充実している。

 そんな彩花を見ていたら、わたしもダンス部に入ればよかったかなあと思ってしまう。


 ……弱っているからこんなこと考えちゃうんだろうなあ。


 彼と過ごす時間を優先にすると自分で決めたのだ。

 中学ではクラスが違うとなかなか一緒にいられる時間を確保できない。

 だから後悔はしていない。

 してはいないけど……。


 気が付くと、お昼になっていた。

 お腹の痛みは消えた。

 ただ全身がだるく、起き上がるのも億劫だ。

 まだ雨は降り続いているようでジメジメしている。


「あら、起きたの」


 お母さんがのぞきに来てくれた。

 体調を聞かれ、ポツリポツリと言葉を返す。

 お粥を作ってくれるというお母さんを待つ間、なんだか心細くなってしまった。

 中学3年生にもなってみっともないと思うが、ひとりでいると不安だった。

 お願いして食べ終わるまで側にいてもらった。

 お母さんは余計なことは口にせず、わたしの甘えにつき合ってくれた。


 まだ寝たりないような気がして、午後もベッドの上でゴロゴロしていた。

 勉強しなきゃと考えると気持ちが沈んでいく。

 ほかの楽しいことを考えようとしても、あまり浮かんでこない。


 夕方になって彩花からLINEが届いた。

 春菜から聞いたらしい。

 彩花ならわたしの気持ちを理解してくれるだろうと思いの丈をぶちまけた。

 たぶん誰かに聞いて欲しかったのだろう。


『彼に相談した方がいいよ』


『でも、勉強の邪魔になりたくないから』


『逆の立場ならどう? 明日香ちゃんは隠された方がいい?』


 彩花は凄いと思う。

 わたしがグダグダと考えたところで堂々巡りをするだけだった。

 これは彼の力を借りる事態なのだろう。


『ありがとう。彼に相談してみるね』


 相談すれば、しばらくは彼の負担になってしまうのは避けられない。

 早く元気になって借りを返さないと。

 そうだね。

 わたしは元気が売りだったのに、すっかり忘れていたよ。




††††† 登場人物紹介 †††††


塚本明日香・・・3年5組。女子といるより男子といる方が気が楽と自認しており、繊細さなんてないと思っていた。


千草春菜・・・3年5組。勉強は順調だが、生真面目なため学級委員の仕事が負担になっている。


戸田美花・・・3年5組。男子の前では態度をガラリと変えるため女子からは総スカンを食っている。


須賀彩花・・・3年3組。ダンス部副部長。綾乃に癒やしをもらいながら勉強と部活に大忙し。

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